眠れない夜には子守唄を歌ってくれた。

 寝れない日というものはほとんどない。松田は昔から快眠だった。親友も、全然寝れると言っていた。俺、全然良く寝れるよ、と。
「眠れねぇことなんてちっともねぇなぁ」
「だよな」
「オウ。全然ない」
 その話をしたのは高校の頃かどこかの学生時代の話で、クラスメイトが「夜寝れなくて困ってる」と言ったような話をしていたからだった。松田も萩原もちっとも共感できず、眠れなければ羊を数えるといいとか聞いたことがあるといったよく聞く噂を試すよう促してみたり、萩原は「俺子守唄得意だよ」と言ったりもした。
(得意って何だ?)
 その時松田はそう疑問に思った。

 その帰り道の出来事を再び思い出したのは数年後、2人が警察官になってからの夜で、どうしても寝付けなかったためだ。理由は特に大したことではなく、多分、夜にカフェインの多く入った飲料をやたら飲んだ所為で目が冴えてしまったからだ。普段から、特に必要としたこともないのでエナジードリンク系を松田は飲まない。夜勤でも気合で乗り越えられる方だ。たまたま前夜、夜勤ならどうぞと萩原が貰ったそのエナドリとやらを、萩原はひと口飲んで、味が苦手と松田に渡した。もったいないから飲んじゃってよ、と。炭酸の泡が弾けるその飲料をそのまま適当に寮に持ち帰って置いておいたが、そういえばこのままにしておくと、いんが抜けるんじゃないか、と一気に飲み干したところ、寝付けなくなった。実に効果覿面だ。
(すげぇなエナドリ)
 と、のうのうと思っていたのはいいが本当に寝付けずうんざりしたので、松田は隣の部屋で寝ている萩原に電話をした。
『陣平ちゃん今何時だと思ってんのぉ……?』
「まだ丑三つ時じゃねぇよ。お前が飲めっつったの飲んで眠れなくなってんだから責任取れ」
『えぇー……? つか何で今日飲んだ? 捨てろよ。炭酸抜けちゃってんだろ』
「抜けてた」
『ほらぁ』
 バッカだなぁ陣平ちゃん、と萩原は軽やかに笑った。
『眠れなくなって、くま作ってくんなよ、明日』
「そういやお前子守唄得意って昔言ってたな」
『言ったよ。俺うまいんだ。よく眠れるって言われる。催眠術か? って。何、聞きたいの?』
 そう、彼が言う対象はどこかの女たちなのだろうか、と思う。穏やかな声は、過剰なカフェインで昂る神経を落ち着けてくれるようだった。
 子守唄でなくても、この声を聞いていればいつか眠れるような気がして電話したのだ。通話をスピーカーに切り替えて、松田は布団に潜った。
 早く、と急かすと、萩原は電話の向こうで苦笑した。しゃあねぇなぁ、と。
『ねむれ、ねむれ』
 聞き覚えのあるシューベルトの子守唄の旋律だ。ほんの少し声が空いて、『いとしいあなたよ』と声が続いた。
『ねむれ、ねむれ……』
 その声を聞いているとぼうっと眠気が訪れた。
『眠った? いい夢見ろよ』
 その後は、カフェインの効果なんて少しも感じられないほど静かに穏やかに眠ることができた。

 それから、2人が変わらない日々を過ごす中で、松田が眠れない日は一度もなかった。彼が歌う子守唄を聞いたのもたったその一度だけだ。
 眠れない、ともう一度松田が思ったのは、彼が死んだ夜だった。どんなに眠らないといけないと思っても、眠ることができなかった。もうあの声は二度と聞けないのに、スマホの画面を見て、その時の声を思い出そうとした。ほとんどすぐに寝入ってしまったのであまり覚えていない。
(『ねむれ、ねむれ』)
 愛しい貴方よ。
 うすぼけた記憶を、あの優しい声音をいくら思い出そうとしても、その夜、眠気は一向に訪れなかった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です