きっかけは萩原が昔付き合っていた彼女の話をしたことであるらしい。
『で、彼女、パン作りにめちゃめちゃハマっちゃって、朝起きたらさぁ、ふわっふわの焼き立てのパンがホームベーカリーから出てきたんだよ! アレ、俺めちゃくちゃ感動したんだよなぁ……。パン好きってわけでもねぇのに、朝起きてパンの香りがするっての、すごくいいなって思ったんだ。何だか幸せの香りって気がして』
『フーン』
当時の松田は萩原のその感動に些かの興味も抱いていないようだった。松田には恋人がおらず、萩原が稀にしていた付き合ってる彼女の話に対して、いい反応をすることはほとんどなかったのである。萩原は一方的に話し、松田は一方通行に聞き流す。ただそれだけだ。
「ってなわけで朝からお前のために焼き立てのパンを作ってやったぞ、喜べ、萩」
「俺の方が忘れてたよそんなことお前に話したの……」
2人で一緒に寝て起きた朝、ふわふわ、ほかほかの白いパンがバスケットの上に置かれてテーブルに乗っているのを見て萩原は驚いた。目をぱちくりとさせて、え、何? ドッキリとか? と困惑した。それに対して松田が語ったのが、昔萩原がしていた話である。お前が昔言ってただろう、と。
「聞いて驚くな、萩。俺は生地から手作りしてそれを発酵までさせてオーブンで焼き上げてんだぜ。小麦は富澤商店で国産の『春よ恋』をわざわざ買ってきたし、石窯ドームのオーブンはジャパネットで買った」
「え、待ってくれよ、ちょっと今の話、情報量が多いんだけど」
小麦って今値上がりしてるのでは? みたいな余計なことが萩原は気にかかる。
(いや、逆に国産なら円安や情勢の影響が及ばず……いやいや今は飼料原料電気代何でも値上がりの時代だ……てか『春よ恋』って何その品種)
いやオーブン買ったってのも何だ、とか、萩原は色々なことを考えたがふわりと温かいパンの香りに釣られた。
「いい匂い……うまそう……」
その香りに釣られ、萩原が手に取った白いパンをぱくりとひと口食べると、まだ朝食の準備ができてねぇだろ、と松田は言った。
「う、うまい……!」
その白いパンは、ふわふわ、中はしっとりもちっとした食感もあり、噛み締めるとほんのり甘みがあって、手作りらしい雑味のない優しい味わいだった。
「陣平ちゃん、お前パン職人になれんじゃん! 最高! これ俺が全部食っていいの? うまいパンの作れる恋人は最強だなぁ!」
「そ、そうか。お前が気に入ったんならそれでいいんだよ。好きなだけ食え」
「朝食これだけで十分。いっただっきまーす!」
うきうきと椅子に座ってパンを食べ始めると、松田はキッチンからグリーンサラダを持ってきた。
「大したモンは用意してねぇけど、サラダくらい食っとけよな」
「オウ! めっちゃうまい!」
やっぱり焼き立てのパンの香りは幸せの香りであるような気がする。子供の頃、家に帰ってホットケーキの焼かれた香りを嗅ぐと喜んだのと同じだ。
「ところでジャパネットでオーブン買ったって」
「下取り付き44,980円で買った」
「えー、高……」
「いいんだよ別に。お前がそれ食って喜んでりゃその程度はペイできんだから」
(陣平ちゃんはお金を使うのに結構躊躇がないんだよな)
松田が作ってくれるふわふわの白いパンの味はたしかにプライスレスだが。
「なぁ陣平ちゃん俺クロワッサンも食いたい」
「ハァ? よくもまぁ、んな面倒そうなの選びやがるよな、お前も」
「えーそうなん? 作んねぇからわかんね」
「クロワッサンには生地の折り込みがいるんだよ」
「でも俺、サックサクのクロワッサンが食いたいなぁ、朝起きてすぐ」
萩原は頬杖を付いて恋人の顔を見た。
「サクッサク、パリッパリのクロワッサンなんて朝から食べたらさぁ、昔食べたパンの味なんて、ぜーんぶ忘れちまうと思うんだけどな」
そう言って、にっこりと笑った。
「……たく、仕方ねぇなぁ」
「やった!」
「お前が強請るのやたら上手なこと忘れてたわ」
「ん? 何? ベッドでのおねだりの話?」
「あぁどっちも上手いよな、お前は」
「じゃあ今夜も楽しみにしてるぜ、ダーリン」
松田の手を掴んでその甲にちゅっとキスをして言うと、ホント上手な男だよな、と松田は呟いた。
もちろん翌日に出てきたクロワッサンは最高に美味しかった。
それからの松田はオーブンが気に入ったのか、料理が気に入ったのか、はたまた萩原が褒めるから調子に乗ったのか、休みの日になると決まって萩原を下手に呼び、晩御飯にオーブン料理を作ってくれるようになった。マカロニグラタン、ラザニア、ほうれん草とベーコンのキッシュ、ピッツァ・マルゲリータ、ピッツァ・ビスマルク、エトセトラ。
(どれもめちゃくちゃうまかった)
晩飯だけでなく、デザートにアップルパイがオーブンから取り出されたこともあれば、朝起きてデニッシュやシナモロールといった甘いパンが出てきたこともあった。
(どれも重い)
今まで考えたこともなかったが、オーブンで作る料理は、割とこってりしていて重めだ。
(まぁ若いからいんだけどな。あぁこないだのベーコンエピも良かった……)
どれもこってりと重いが、体力を使う仕事で、まだ年齢的にも胃が悲鳴を上げるほどではなかった。どれもおいしく食べるだけだ。作ってもらってばかりで悪いとは思うが、「買ったオーブン無駄にすんのももったいねぇだけだ」と言われてしまうし、実際、そのとおりかも知れない。
松田は特別に料理が上手いというわけではなかった。家庭科の授業でも、言われた手順通りに調理するだけだった。だがかなりの凝り性だ。生来の手先の器用さと、その凝り性が噛み合って、かなり上等な料理が作れる。滅多に料理をしないからか材料にも十分な金を掛けるし、言うなれば、『定年後の趣味に蕎麦打ちを始めるから用具一式用意する』みたいな手間の掛け方なのである。うまくないわけもない。
(あ、なんか今めっちゃローストチキン食いたくなってきた)
12月も半ばに入って、もうじきクリスマスだ。恋人と過ごすのは決まっているとして、どうやって過ごすのかまでは、萩原もかっちりとプランを組んでいない。相手が女の子であれば、エスコートするのが当然だと予定を決めるが、松田とであれば、その日の成り行きでもいいし、向こうも何かを考えるかも知れないし、自分が決め打ちしておく必要はなさそうだと考えていた。
「なぁ陣平ちゃん」
「何だ?」
「昔彼女がクリスマスにローストチキンを作ってくれてさぁ」
「萩、お前、すぐバレる嘘吐くんじゃねぇよ」
「えっ、嘘。なんでわかったの?」
「あのな。お前、俺に、んな話したことねぇだろ」
「それはそうだけど」
「いいか、女がパン作って喜ぶようなお前が、クリスマスにローストチキン作ってきたら必ず俺に言うだろ」
「まぁ……、言うかも。でも言わねぇかもよ?」
「それからお前は女に季節事で主導権渡す方じゃねぇ。どっか連れてくタイプだろ。家でメシ食うことはねぇ。それと、クリスマス付近にいた女で凝った料理作れそうな女はいなかった。あとなんかあるか?」
「すげぇ」
そうとしか言いようがなかった。
(俺そんな話してたっけか?)
「何でそう、しょうもねぇ嘘吐くんだよ。食いたきゃ言やいいだろ」
むにっと松田は萩原の頬を横に引っ張って放した。
「え、何かさ、最初みたいに急に出てきてサプライズで驚きてぇってか。クリスマスに一羽の鶏がドーンと出て驚きたいじゃん」
「バカ。言った時点で急でも何でもねぇ。単に思い通りに物事が動いただけになんだよ。普通に言え。っつーか一羽丸ごとかよ……」
「オウ。それを見てテンション上がりてぇなって」
「そういうの強請りたきゃ相応の手段を使え。お前得意なんだから」
「ベッドの上で?」
「そうだよ」
「フーン……。陣平ちゃんのチンポを咥えて、『俺ローストチキンが丸々一羽食いたいなぁ』って言うの? お前のより食いたいな、って?」
「俺のよりは余計だろ」
「あぁじゃあどっちも食いたいって言えばいいのか。なるほどね」
「そうだよ。むしろ俺のが欲しいって言え」
(コイツ好きだなそういうの)
萩原にはあまりそういう趣味はなかった。
「じゃあ、お前とローストチキン、どっちも丸ごと全部欲しい、でどう?」
「……ま、悪くねぇな。いいぜ、どっちもお前にやるから」
(コイツが抵抗すんのもどうせ折れるんだからあんま意味ねぇような。何でおねだりさせんだろ)
それともこれが睦言、或いはピロートークの一種なのだろうか、と指を絡めながら思う。
(好きなのかな……おねだり)
目を閉じる。
翌朝はクイニーアマンが出てきて萩原も驚いた。
「クイニーアマンって作れんの?」
「現に作ってんだろ」
鼻歌まじりの松田は機嫌良さそうで、コイツマジでおねだり好きだったのかな、と萩原は思った。
「俺マカロン食いたいな、ダーリン」
と、萩原が腕に腕をぎゅっと絡めてちょっと上目遣いになるような角度で言ったのは、どうやら恋人がおねだりされるのが好きなようだから、であった。クリスマスには無事一羽のローストチキンというケンチキより豪華なディナーにありつくことができて、萩原は満足したし、立派な料理を作った松田もかなり満足感が高かったようで、しばらくオーブンを使わない日も増えていた。そんな中で、よしたまにはオーブンのおねだりでもしてみるかなと萩原が思ったのは、こないだ見た情報番組で見たマカロンを、いつも女の子たちが食べたいと言っていたのでうまいのかなと興味を得たからである。
で、この『ダーリン』と呼ぶことについて、2人を知る友人から、なぜわざわざダーリンと言うのかと問われたことがあるが、その答えは、萩原的には「勝率を上げるため」である。それ必要あるか、とも言われたが、これは、まぁまぁ重要なことなのである。恋人の機嫌なんてとっておいて損はない。松田はそう呼ばれるのが好きなのだ、多分、ハニーよりは。
「もうすぐバレンタインじゃん」
「マカロンはバレンタイン向けじゃねぇ」
「気にすんなよぉ、そんなの」
それともアレか、凝ったチョコレートケーキかフォンダンショコラでも作る予定があったのだろうか。
「俺はマカロンの気分」
「俺は生きててそんな気分になったことねぇが」
おねだりが足りなかったかなと、萩原がちゅっと唇を軽く吸うと、嫌ってわけじゃねぇけど、と松田は言った。
「チョコは俺が買ってくるから」
「買うのかよ」
「菓子の手作りなんてしたことねっつの。変な期待すんな」
あまりに嬉々として作るものだから、こちらにそういう期待を寄せているとは思わなかった。
「オーブンもねぇし」
「普通にチョコ作るんならオーブンはいらねぇだろ」
「お前……料理好きになってんじゃん……」
謎の進化を遂げさせてしまったことに萩原は責任を一瞬感じた。一瞬くらいは。分解以外に趣味が増えて問題があるわけではないと思う。
「そんじゃ、期待してるぜ」
そういうやりとりをしたのが1月末。
2月から2週間が過ぎた日に松田がテーブルに大皿でドンと乗せてくれたのがマカロンである。
「芸術的なマカロンだな」
「俺は手先が器用だからな。マカロンくれぇ余裕だろと思ったが、料理特に菓子ってのは手先の器用さだけじゃねぇ、スキルが大分いる。てんで膨らまねぇ。んで、俺の器用さが生きんのはデコレーションかと思ったが、こっちには今度は芸術センスが要ったってわけだな」
「うーん今まで料理かパンメインだったからこれは色々と気付かなかったなぁ」
ぺしゃんこ、ひびわれ、空洞のカラフルなマカロンに、チョコペンだろうか、目と口が描かれたスマイルマークのような不思議な表情をしている。自分には十分すぎるくらいに芸術的なセンスが備わっているとは萩原も言えないが、松田もこの分野に関しては残念ながら秀でた部分はない。
「でも案外可愛い」
ぱくっと一つ食べてみると、外側がヘタってしまっているが、中身のクリームは甘くておいしい。
「ん、うまいよ。全然イケる。てかどうせ腹に入ったら一緒だし、これで十分十分。俺のマカロン欲は満たされたよ」
「何だその欲。つうかそれを言われっと作る甲斐がなくなんだろ……」
「いーだろ別に。俺なんてなぁんも作れねぇから、こーんな感じに棒に差したマシュマロに溶かしたチョコくっつけて固めただけだぜ」
ほい、と部屋にあったちょっとオシャレなお菓子の缶に直入れしたハートチョコマシュマロを見せると、松田の目がぱっと輝いた。
「! 何だよ、ちゃんと作ってくれてんじゃねぇか」
「これ『作った』っつう?」
「溶かして固めりゃ立派な料理だよ。ありがとな、萩」
(もしや、褒めて育てるタイプ……?)
嬉しくないわけじゃないけれど。
(まぁ、全然大したことしてねぇけど、コイツが喜んでんならな)
それは作った甲斐があるというものだ。
「……ま、チョコとマシュマロじゃ、甘すぎるけどな」
特別に甘い物が好きなわけでもない恋人の言葉に萩原は笑った。
「それは愛じゃん、陣平ちゃん?」
以前にノリで書いてたオーブンの話をまとめてみました。ラブラブな2人!
ロゴはノリで作った。