冬の湯けむり指輪盗難事件

~作中で何気なく2人が結婚してますが大きな意味はないです。~

 その指輪を萩原が恋人から渡されたのは何でもない日のことだった。
「何でもないってことねぇだろ、お前忘れてんのか」
 曰く、今日は付き合って5年目の大切な記念日であるということらしい。そういうことはあまり覚えていない性質の萩原は、「たしかにそうだったなぁ、俺もよく覚えてるぜ」とにっこり笑って答えたが、「いや全然忘れてただろ」と言われた。見透かされていることも承知しての会話なのでいずれにしても茶番だ。
「だからアプリに書いておいてくれよって言ったじゃん」
「うっせぇ……」
 見た目ではあまりそうと取られないようであるが、その外見より遙かに精緻な作業を得意とする松田ならば、逐一自分の気に入っている記念日と呼ぶものを登録することはさしたる手間でもないだろう。家電の点検だの、料理だの、とかく彼はこまこまとした作業が好きなのだ。それで、カレンダー共有アプリ等の通称カップルアプリに入れておいてくれれば把握すると萩原が言っても、それをあまり使わない。通常のスケジュール共有には使っているのに。
(なんかそういうプライドっつうのかなぁ。俺に覚えとかせたい、的な)
 萩原の方にも言いたいことくらいはある。恋人になる前の所謂記念日共有的なことに積極的だったのはむしろこちらの方だ。それを、関係性が変わった如きで自分ばっかりが覚えていると言われても困る。というかはっきり言って、付き合った記念日ってマジで重要? と。
(重要、なんだろうなぁ)
 だがそれは誕生日に匹敵するほどだろうか。正直わからない。どうも恋人になるということは、彼の中では親友から単にスライド移行しただけではないらしい。
 こういった互いの認識のズレに対して、この5年、萩原は積極的に認識を合わせるべきとして彼と対話をしたようなことはない。何となく折り合いを付ける感じで日々やっている。日々の生活は住まいこそ微妙に違うとしても離れて暮らしていないのでほぼ一緒だし、どこかに出かけたいと言えば付き合うし、デートだってたまにしているし、合コンにはあんまり顔を出さないようにしているし、ひとりで出る飲み会にもそこそこの時間で帰っているし、ヤりたいと言われればそれに不満はないし、何も困ったことはない。返事がないとメールを連発するのはやめてほしいとか、記念日がやたら増えてて困惑するとか、多少の細かい不満感はあるが、やはり些細なものでしかない。
 話を指輪に戻して、萩原は渡された赤いケースを、意を決して、ぱかりと開けた。
(Cartier……プラチナのリング……ダイヤの石……!)
 細身の指輪は純プラチナの色合いで、中央には慎ましく1石のダイヤがはめ込まれている。萩原はそれを注意深く取り上げた。豪華な指輪ケース内部には『Cartier』の文字。そして内側には『J to K Forever in Love』と書かれていた。
(重い)
 なんかやたらと重いボディーブローを食らった気分だ。イニシャルは100歩譲ってもフォーエバーラブはかなり重たい。
「す……すごいな、陣平ちゃん」
「付けてやるから左手出せ」
「あ、あぁ、悪いな」
 特にヒいているということもないが、かといって女の子ように目を輝かせて喜べるというわけでもない。しかし男としては、これ贈られて喜ばなかったら120%傷つくわな、ということがよくわかる。
 松田はその器用な指先で、萩原の左薬指にゆっくりと指輪をはめて頷いた。萩原は極めて慎重になりながら、はめてもらった指輪をじっくりと見た。素直な気持ちで、金額や刻印などをあまり考慮せずに言うならば、それはもちろん嬉しい。例えば、ゴールドよりプラチナがいいと思ってくれたのかな、とか、どういう気持ちでアクセサリーを選んでくれただろうかと思うとすごく嬉しい。嬉しいが、背後に付随する問題から目を背けることはできない。
(これめちゃくちゃプロポーズのつもりの指輪なんだよなぁ)
 松田は特に何とは言わなかった。どのみち同性で結婚できるという法案は今の日本では発布されていないし。結婚すると職場も移らなくてはならないのでそれはそれで少し困るし。というか独身寮も追い出されるし。本人からそれとなく別の道を歩く気はないということをよく聞かされているのでめちゃくちゃ驚きはしないけど。

「どう思う? ……とおるクン」
「透くんはやめてくださいお客様」
 喫茶ポアロはいつものように昼時を越えた居心地のよいアイドルタイムを迎えており、店員である旧友の降谷零、もとい安室透氏は、サービスに萩原にチーズケーキをご馳走してくれた。
「わざわざ会いに来たかと思ったら惚気かい?」
「惚気っつか惚気じゃねぇんだよ」
 潜入捜査中なのであまり来ないでほしいと言われているが、緊急事態なのでやむを得ない。この店員の状態でない方の降谷は忙しい人で、捕まえて話を聞いてもらうのも儘ならないのだ。
 降谷とは連絡が付く状態である方が珍しい。同じく同期である伊達もそう言うが、同じ公安に属する諸伏と比べても、降谷は相当連絡が取りにくい男だった。諸伏が言うところによると「ゼロは俺より忙しいんだ。腕が利くからね」とのことである。どこか穏やかな諸伏が、聞くところによるとかなり苛烈そうな公安に所属していることについては降谷が傍にいるから安心とまでは言えない。最近は諸伏とも連絡がほとんど付かないし、どうも潜入捜査中のようだが心配は尽きない。そう言うと、降谷からは「むしろ君たちの仕事だって危険だ」と言うが。松田がいて、解体できない爆弾もないので萩原はあまり不安には思っていない。ひとりきりで作業する時でさえ、松田からしばしば解体の極意を教わっているので、その言葉を思い出せばさほど心配はなかった。
 そんな絶賛多忙真っ只中の降谷と、萩原と松田が喫茶店で出会ったのは偶然のことだった。偶然、近くで起こった事件と関わった折に、疲れたからと入った喫茶店にその男がいたのだ。にこにこと愛想よくハムサンドを作る安室透氏が。そして、口外するな、本名で呼ぶなと言われて、「安室チャン」と呼んでみたものの、往年の人気歌手がふと頭を過り、何となく浅黒い肌の雰囲気はちょっとそれらしさがあるがどうにもしっくりこないので、「透クン」と呼ぶことに萩原は決めた。「透ちゃん」にすると多分「陣平ちゃん」が機嫌を損ねるので。
「諸伏ちゃんならもっと優しく聞いてくれたのに」
「ヒロに変な話をしないでくれ」
「してないって。てか最近全然連絡取れてねぇ! だからさ、とおるクンが聞いてくれたらいいだけなんだって」
「だから、透くんはやめてくれ。僕が松田に叱られるんだ」
 わかったよ、ちょっと待ってくれ、と言うと、カウンターで何か話を付けてくれたのか、安室はエプロンを外して萩原の席の前に座った。
「それで? 君が恋人からエンゲージリングを貰って困っているという話でいいんだね?」
「困ってるってわけでもねぇけど」
「じゃあ何だって来たんだ」
「ちょっとくらい話聞いてもらおうかなって思って」
「何を。だから惚気を?」
「ライフプランニング」
 はぁ、と安室は首を横に振った。始終傍にいる男の顔がやたらいいので萩原はうっかり忘れるが、目の前の男も顔がいいなと思う。何でも、この喫茶店ではモテモテのちょっとした有名人なのだそうだ。潜入捜査ってそんな感じでもいいんだな、と萩原は思うが、君は目立つから来るな、と彼からは何故か言われる。
 事案を整理すると、一昨日の晩に萩原は恋人から実にプロポーズらしい指輪を貰った。松田はその際にはっきりとした言葉で、「俺と結婚してくれ」のようなことは言わなかったが、流石にお互いに意図は察せているというところで、返事を急かすような真似はしなかった。多分、断られるとは微塵も思っていなかっただろうに。
「それが、今君が左手の薬指にしている指輪だと」
「そ。内側見る?」
「いいよ、僕は、そういうのは」
 友人らの恋愛事情について安室(というか降谷)は、あまり乗り気で聞く気はないが、それは嫌悪感があるということではない、とのことらしい。言うなれば身内の恋愛譚を聞かされているような、そういう何とも言えない居た堪れない気持ちになるから、と言っている。
『大体君たちが臆面もなく夜の事情とか話すのが悪いと思わないのか?』
 と、彼は男同士でも非常に純情なことを言っているのであった。下ネタがダメな男がこの世にいるのか、と萩原は驚いた。しかしそういう話はすこぶる嫌そうにするので、男同士だとしても気を使って、萩原もあまり言わないことにしているつもりだ。諸伏とも多分そういう会話をしてこなかったんだろう。
「君たちっていつもラブラブな恋人同士だろう?」
「んまぁな。別あんま喧嘩とかしないし。いつも一緒にいるし」
 同棲カップルでもそこまで四六時中一緒にいるか? とよく言われる程度には同じ空間で過ごしている。職場が同じなのは、基本的には偶然の産物ではあるが。
「だから何の話なんだ?」
「でも結婚するかって言われるとそう決めてたわけじゃねぇし」
「そうなのか?」
「うん。何で?」
「何でって……松田はそういうつもりだったんだろう?」
「だろうな。だからコレ出てきたわけだし」
「そうなのか……それは不憫だな、松田も」
「えっ何で」
「何でってだから、結婚する気でいた恋人が自分と結婚する気でなかったというのは可哀想だろう?」
「でも別に結婚はできないんだよ、現状。まさか警官の俺らが日本出るような気もないだろ?」
「まぁそれはそうだけど」
「とおるくんが日々命を懸けて守る日本を俺らも愛してんだからさっ」
 ぱちんと萩原が片目を瞑ると、調子いいな君、と安室は肩を上げた。
「だから、する気ないってか、できないって話。ない袖は振れないってね。だからさ、別に、いいかなって思ってて」
「何が?」
「別々に結婚して、それでいいかなーって」
「うわ」
 安室はすこぶる嫌そうな顔をした。
「ほらやっぱり捨てられる松田が可哀想じゃないか」
「いや勘違いしないでくれよ、とおるくん。俺が陣平ちゃんのこと捨てたりなんてするわけねぇじゃん。俺らはズッ友。BFF。一生親友でいるつもりだよ」
 FiLかはともかく、と言うと、何だいそれ、と安室が首を傾げたので「Forever in Love」と萩原は注釈を入れてやった。
「別に恋愛対象が男だけってわけじゃねぇからな。俺も、陣平ちゃんも」
「とは聞いているが」
「だからいいんだよ、それでさ。俺はいつか陣平ちゃんの可愛い娘を見るのが楽しみなんだから」
 女の子は男親に似た方がいいと聞く。松田に似た可愛い娘が「けんじくん!」と呼んで足元にくっついてくるのは素敵な光景だ。もしかしたらお気に入りになって「将来研二くんと結婚するの」とか言われるかも知れない。
「カレカノじゃないか、それ」
「とおるくんの口からでも古い少女漫画の愛称が出るんだ」
「君もいずれ結婚する気でいるのかい?」
「多分な」
「その指輪を捨てて」
 安室に言われて、萩原は指輪を撫でた。気付けばそれをずっと手放したくないと思うようになってしまっていた。

「と、いう話だったんだが」
「お前アイツに何回名前呼ばれたんだ」
「やめてくれそういう嫉妬は」
 頼まれたとおりに情報を教えたのに、と、降谷というか安室は、録音していたデータをUSBで渡してくれた。
「ワリィな、ゼ……あー……安室?」
「呼び慣れないなら次からは来ないでくれ。データくらいいくらでも送れるんだから」
「そういうのは流出が怖いだろ」
「僕と萩原の音声データが流出してどうなるって言うのか知らないが」
 それと、と降谷は腕を組んでこちらを横目で見た。
「その目立つ格好はどうかと思う」
「目立たねぇだろ」
「闇に紛れるって言うならそうだろうけど。どうして黒スーツにサングラスなんて……組織みたいな格好になるんだ」
「いいだろ、俺はアイツの動向を秘密裏に探ってたんだから」
「カップルの痴話喧嘩を大仰に言わないでくれ」
「痴話喧嘩なもんか」
 降谷は松田の肩をぽんと叩くと、まぁ人間というのは他にいくらでもいるんだから、と慰めっぽい言葉を述べた。
「フラれたら酒には付き合うから君が自棄になるなよな」
「……まだフラれてねぇよ」
 そうしてヒラヒラと手を振って、安室透として働いている店に戻っていった。
 松田の手には降谷から大枠は聞いた音声データの入ったUSBが握られている。仕事柄、そういう音声録音等々については慣れているということらしい。公安が本当は一体どういう仕事をしているのかは松田もよく知らないが、たまたま萩原と入った喫茶店で友人が店員として働いているのを最初に見た時には驚いた。口外はしていないが、探す時にはそこにいるかもという考慮が働きやすくなっているのは問題かも知れない。
 萩原が指輪に付随することについて乗り気ではなかったことくらい、渡した時の印象からわかっていた。萩原は相手の顔を立てるとか、メンツを保たせるとか、そういう相手を察した気遣いは異様にうまいのでちゃんと喜んだテイを保っていたが、あの率直な萩原の口からすぐに返答がなかった時点で、薄々察せられる。それでも逆に、すぐにノーとも言わなかったのが自分への優しさか、はたまた、と思っていた。
 結婚する気がないのならそれでもいい。ただ、俺は別れてやる気はさらさらないからな、という言葉を明確に表すのがそれかも知れないと松田が思っただけだ。本気で結婚するなら考慮すべき事実は多すぎるし、多分、男女であれば簡単に結婚できるわけでないという意味と同じだ。そういう意味ではむしろ指輪と言葉だけの方がむしろハードルが低い。永遠の愛を誓ってくれればそれだけでいいのだから。それとも、やはりそれだけでは足りないのだろうか。
 彼との認識の相違について松田も何も思ってこなかったわけではないし、萩原が軽い気持ちで恋人になれる男だということも重々承知している。それでも首根っこ捕まえて雁字搦めにして逃げられないように上手にやってきたつもりだ。それが5年続けばそのぶん情も深まっただろうと。
 今なら、喜んで頷いてくれるような気がした。そういう幻想だ。シンデレラ城の前でフラッシュモブを頼んで行ったプロポーズの失敗でもないのでそれは構わない。
 可哀想なわけでも、強いショックを受けたわけでもないが、それは放置していい問題ではないだろう。なのでわざわざ、萩原が見せに来たら連絡してほしい、できれば話を聞いてやってその内容を教えてほしい、と友人に頭を下げて頼んだのだ。

 店から帰って、松田の部屋のソファに並んで座り、そのUSBのことを話すと、萩原は「降谷ちゃんて昔から陣平ちゃんびいきだからな」と不満げに言った。
「ゼロに贔屓も何もあるかよ。お前が何も言わねぇからこっちは強硬策取ったんだ」
 松田がそう言うと、萩原は叱られる前のような顔をした。
「ごめん」
「別にいいよ。つか別に、したくないんならそう言えばいいってだけだろ? 無理強いしてどうなる話でもねぇんだし」
「でも」
「いいよ。ただ別れるとは言うなよ」
「でも」
「でもでもお前もうっせぇな」
 あぁもういいよ、と松田は萩原の首に腕を回して抱き締めた。
「お前が嫌なら俺はもう変なこと言わねぇよ。結婚とか、そういうアレコレは。二度と言わないって約束する」
「陣平ちゃん……」
「お前がその指輪を俺に返したら、もう二度とそんなことは言わないし、指輪だって渡さねぇから。そう約束するよ」
 約束だとそう口にしたら、きっと誓いを破らないというつもりで松田は言った。別れる気がなくても、結婚するとは言わない。その人生を縛ることを誓約はさせないと。
 腕を離すと、萩原はずっと指にはめている指輪を見つめた。
「萩」
 悠久の時を刻むかのように長い沈黙が流れ、萩原はじっと指輪を見つめたまま、「返さなくてもいい?」と尋ねた。
 はぁ、と大きなため息を吐いて松田が前のめりに項垂れると、「やっぱもう返さないとダメ?」と萩原は慌てたように言った。
「俺の判断が遅いから」
「バカ。鬼滅の刃かよ。ンなわけねぇだろ。こっちは失敗したかもって思ったってのにテメェは……」
「ごめん」
「だからいいけどな! いいけど、返さないってのは、意味ちゃんとわかって言ってんだよな」
「もちろん! 肌身離さず付けて、ずっと大事にするから」
「そうじゃねぇだろ」
 抱き寄せて「結婚してくれ」と言うと、萩原は、喜んで頷いてくれた。
「俺で良かったら」
「他にいるかよ」
「でもホントに俺でいいの、陣平ちゃん……俺だって、結婚って言われたら、そんな簡単に別れらんなくなるけど」
「ハァ? お前結婚する女にも同じこと言う気かよ。言わねぇだろ。俺が幸せにするからっつうだろ。何でそうなんねぇんだよ」
「えっ……あ、じゃあ陣平ちゃんのことは俺が幸せにするからな! 任せろ!」
「違ぇよ。お前のことは俺が幸せにするからお前はそれを信じてろってことだ」
「陣平ちゃんカッケー……! 愛してる!」

 ***

「ってくだりのあった萩の指輪が盗まれたって話だ」
「前フリ長かったなぁ」
「誤解のないように言っとくが」
「誰が誤解すんの、陣平ちゃん?」
「大浴場に貴重品ロッカーも鍵のかかるロッカーもなくて貴重品は部屋で保管しろって書いてあったのに短時間だしまぁ見えないようにしておけばいいだろうって2人で話した所為だから悪いのはコイツだけじゃねぇ。つか萩はちゃんと、部屋に戻って置いてきた方がいいって最初に言ったのを、まぁ平気だろって押し通したのはこっちだ。つまり危機意識が欠けてた俺が悪い」
「陣平ちゃん自分が悪いってこと堂々と言うよなぁ。まぁでも非が認められるってのは大事なことだぜ」
「だからってのうのうと指輪パクられていいって話でもねぇ。つーわけで今から犯人を捜させてもらう。犯人はこの旅館の中にいる」

+++

 萩原と松田は珍しく休暇が取れたので箱根の温泉旅館にやってきていた。旅行に行く予定があったわけではないのだが、萩原がたまには温泉とか行って疲れ取りてぇよなぁと何気なく口にしたために、即刻宿が手配されたのである。
「お前が急に言うから慌てて取っただろ」
「明日行きたいって話じゃねんだよ」
 ともあれせっかくの休暇の温泉旅行を楽しみに思わない萩原でもないので、ったく急なんだよなぁと文句っぽいことを言いつつも、いそいそと準備をして、車を飛ばして宿まで来た。
「ちょっと寒いけど、温泉入るってんならちょうどいいよな」
「だな。悪くねぇ場所だ」
 車を降りて、一泊の荷物が入る程度のボストンを持って旅館のロビーに入ろうとすると、中から慌てて出てきた女の子と萩原はぶつかってしまった。倒れそうになった華奢な身体を抱き留めて、「大丈夫だった?」と尋ねる。
「スミマセン! 私、ボーッとしてて……」
「気にしなくていいよ。ちゃんと前を見てなかったの俺だからね。君もここに泊まってるの? 可愛い子と同じ旅館に泊まれるんなら嬉しいよ」
「は、はい! 私、旅行好きで……この旅館、去年も来たんですけど、気に入っていて」
「そうなんだ。君が気に入るってことは、いいところなんだね。楽しみだなぁ」
「萩、いつまでも喋ってんじゃねぇ」
「ワリィ、ごめん。それじゃあまた時間があったら後でゆっくり話でもできたらいいね。またね」
「ハイ! ぜひ!」
 可愛い子への挨拶を済ませて萩原がロビーに入ると、松田にじとっとした目で見られた。
「そういうのをやめろ」
「ご挨拶だって」
 可愛い女の子との交流は心の栄養だというだけで、全く浮気をする気などない萩原なのだが、松田はそういうことに関して全くいい顔をしない。狭量なのだ。
 松田は急で予約を取るのには苦労したと言っていたが、先ほどぶつかった女の子以外にロビーのソファに座る男性客が1人だけだった。松田が宿帳に記入している間に「静かだね」と萩原がフロントの女の子に言うと、「今ウチって絶賛閑散期なんですよねぇ」と彼女はぼやいた。
「大人数が泊まれる別館が改装中でして。評判の露天風呂付き大浴場が使えないので、暇しちゃってるんです」
「へぇ、そうなんだ。ここもいいところなのにもったいないなぁ。温泉自体はあるんだよね?」
「ありますよ! 当旅館自慢の温泉が! むしろ静かでゆっくりできて本館のお湯の方が好きって方もいるくらいだったんです。24時間いつでもちゃあんと入れますからね。ただ、別館と違って、露天風呂はないんですけど……」
「そっか。景色がいいところだし、露天風呂ないってのは残念だけど、いつでも入れんならさ、早速入ろうぜ、陣平ちゃん」
「部屋行ってすぐか?」
「オウ! いいじゃん、あっあの立札にある『鳳の湯』と、えーっとあっちも『凰の湯』?」
「どっちも読みが同じだな。左の鳳が雄で、右の凰が雌。左が男湯で右が女湯ってとこだろ」
「あっいえ、お風呂は時間で男女入れ替えなんですよー」
「ンだよ。ややこしいな」
「そして、今日は凰が男湯です!」
「あっ今日は男湯が雌の方だ」
「すぐ入れるようでしたら多分誰も入っていないと思うので、おふたりの貸切かも知れないですよ。おふたりはご友人同士でご旅行なんですか? 仲いいんですねぇ」
「いや俺の嫁だ」
 手を止めて松田が言ったので、女の子は「ええっ?」と一瞬固まった。
「陣平ちゃんそれ最近では良くないってさ。燃えるよ? えっとだから、配偶者です。コイツのツレ」
「配偶者、か……」
 松田はなんだかその響きを気に入ってくれたらしい。気に入ってくれて何よりだ。
「そうだ、俺の配偶者だな。ま、親友でもあるが」
 フロントの女の子はやや驚いたようだが、そこは新しい時代らしくすぐ順応してくれたようだった。
「そうでしたか、そうでしたか! それはぜひぜひ寛いでいってくださいね! うちはニューウエーブなんです! 全館禁煙ですし!」
「いや禁煙なのかよ」
「うっ令和だなぁ。吸う時は外出るしかないってことか。とりあえずいろいろ親切にありがとう入月ちゃん。この辺りの景色もとっても綺麗だけど、入月ちゃんも、とっても綺麗だね」
「萩」
「挨拶挨拶」
「いちいちネームプレートを見て話すな」
「ハーイ」
 萩原的スマートな挨拶2回目を終えてフロントから鍵を受け取ると、ケッとわざとらしい舌打ちを聞かせながらソファに座る恰幅のいい男がこちらを睨んできた。スーツケースが横にあるので、男も旅館に来たばかりのようだ。
「何が嫁だよ。どうせ女引っ掛けて遊ぶ気なんだろ、チャラチャラしやがって」
「あぁ?」
 勝手に個人情報に聞き耳を立てていたらしい男に松田がいつもらしく睨み付けたものの、相手の男も体格がそれなりにいいためか、普段よりは効果が薄いようだった。むしろ優男が何睨んでやがるんだやかましいくらいの目つきだ。相手はこの男が喧嘩っ早く手も早くその上やたら腕っぷしが強いとは知らないので恐ろしい。
「そっちの男はさっきも今も色目使ってやがったみたいだしなぁ」
「誰が何だってんだ! つかあれには俺も怒ってんだよ」
(あっなんかもしかしてこれ俺が悪いカンジの流れに?)
 松田にまでじろりと睨まれたのでこれは不穏だと萩原は慌てた。
「それよか陣平ちゃん! 俺らのことが疑われてんならアレ見せてやろうぜ、アレ」
 正直女の子と本当に遊ぶ気なら「嫁だ」とか「配偶者です」とかわざわざ言う必要はないので、因縁の付け方が向こうもちょっとよくわからない。誰にでも(或いは男前には特に!)噛み付きたいだけなのだろうかと萩原も思うのだが、ここで舌戦を繰り広げて途中で取っ組み合いになっても困るし、乱闘騒ぎで警察でも呼ばれたらかなり困る。萩原はクビになりたくない。
「あぁ、アレか。ま、そうだな。そいつが手っ取り早い」
「……な、何だよ」
「ちゃんと俺らが事実婚してるって証明を用意してんだよな。じゃんっ! ほら、婚姻届(未提出)!」
 萩原は旅行鞄の中からぺらりと紙を取り出して見せた。市役所で貰ってきた婚姻届で、ちゃんと記入してあるものだ。
「提出できる日が来たら提出するつもりで署名押印済みな上に証人欄も書いてあるからな」
「あっ証人は俺の母ちゃんと陣平ちゃんの母ちゃんに頼んだんだ。2人とも出せる日が来るといいわねって喜んでくれてる」
「それに冗談だと思われねぇように免許証をコピーしてくっつけて割印も押してある」
「それとこの結婚指輪。中には『J to K Forever in Love』って刻んであるけど中見る?」
「いやそこまでするか普通! わかったよ!」
 因縁男に普通に突っ込まれた。高そうな指輪自慢げに付けやがって、とじろりと指輪を見てぼやいていたが。
「わぁ、すごいですね!」
 気付くとフロントにいた入月も傍に来ていて、婚姻届と萩原の指輪を見ていた。
「婚姻届って、私初めて見ました! それにとっても素敵な指輪! いいなぁ……」
「ありがとう。これは陣平ちゃんがプロポーズする時に買ってくれた物なんだ」
「俺も同じの付けてる」
「あのぅ、プロポーズの指輪って結婚指輪とは違うんじゃないんですか……?」
 そう話し掛けてきたのは、先ほどぶつかった女の子だった。いつの間にかロビーに戻ってきたらしい。あら三日月様、と入月が言った。
「萩原さん……って言うんですね。結婚されてたんですね」
「うん、まぁね」
「そうなんだ……」
「えっと、指輪のことだっけ? 一般的には結婚指輪を婚約指輪は違うんだけど、俺はこれ気に入ってるからさ、わざわざ買い直さないで、俺も陣平ちゃんに同じの買って、2人で付けることにしたんだ。これ、肌身離さず大切に持つって約束したし」
 そういう理由で今は2人とも同じ指輪をはめている。ダイヤも付いているし、名のあるブランドだし、買い足すにしても決して安い買い物ではなかったが、一生付ける物ならばむしろちゃんとした物の方がいいと考えたのだ。指輪のデザインにはこだわりがなかったし、どちらかと言えば思い入れのある方がいい。松田からは『Forever in Love』を刻むように強く要請されたが、今っぽくて略した方がデザイン上もいいからと宥めて『FiL』の刻印にしてある。その理由は断然、やっぱ永遠の愛って刻むのはハズイし、だったが。
「素敵な指輪ですね」
 三日月はじっと指輪を見つめた。
「ありがとう」
 萩原は指輪を肌身離さず持っている。風呂に入る時を除いて、ずっとだ。安価ではない指輪なので、湯船に付けたり、シャワーを浴びせるのは不安なので外すが、それ以外ではいつも左の薬指にはめている。松田も細かい作業をする際の邪魔になる時以外はいつも付けている。
「なくしたら離婚されちゃうかも知んないし」
「……あのな」
 もちろんそこまで狭量な男などではないと萩原も知っているが、それくらいに大事にしなければならない大切な物だという意味だ。女の子2人も、因縁男も、たしかにその時指輪を見ていた。

+++

「って経緯があるからまず指輪が元々存在しないってことはねぇってのは確認済みだし、俺が今付けてんのと同じのだってのも目撃者がちゃんといる。そんで貴重品は自己管理が原則だし、紛失・盗難があったと主張してもホテル側に俺らが弁償してくれと言うことはできない。だから俺らが盗まれたって嘘言う理由がねぇってのもわかるな? まさか指輪に保険掛けてるわけもねぇし。で、大浴場で指輪外したから盗まれたわけだ。しっかしわかんねぇのは何でお前の指輪を盗んだのかだ」
「えーそりゃあ金目当てじゃねぇの? 金庫なかったからパクりやすかっただろうし、一応高い指輪だったんだし」
 しかも他人の永遠の愛が刻まれている指輪を、仮にデザインが気に入って盗んだとしても使いたいとは思わない気がする。
「あ、でも結婚指輪って売れんのかな」
「『結婚指輪 売れる』で、検索してみたが、まぁ売れなくはないみてぇだな」
「あっなんか嫌な検索履歴が……」
「消しとく」
 それから、と松田はフロントの入月に呼んでもらった旅館の支配人に、「俺らは警官だ」と警察手帳を見せた。萩原も同じく自らの身分を証明してくれる手帳を見せる。入月は「えっ警察だったんですか?」と驚いていた。
「つーわけで、捜査は任せてもらうぜ。何、俺らもこういうのには慣れてるから安心しな」
(陣平ちゃん堂々と嘘吐いてる)
 刑事ではない2人が事件捜査などは全くしたこともない、というわけでもないのだが、決して手慣れたことではない。
(しかも窃盗ってなぁ。暴れてる被疑者を大人しくさせる、とかなら俺ら結構やるけど)
 そういう警察官の事情を一般人が知る由もないだろう。手帳からは、どちらも本物の警察官であり巡査部長であるという所属階級程度しか読み取れないのだから仕方がない。
「大丈夫なの陣平ちゃん」
 こそりと萩原は尋ねた。
「知らん。ゼロでも呼んでみっか? アイツこういうの処理すんの得意だろ。今探偵の弟子だとか言ってたしな」
「俺らの個人的事情で降谷ちゃんに迷惑掛けんなよ。降谷ちゃん忙しいんだからさぁ」
「まぁそうだな」
 萩原は腕組みをする。他に探偵の知り合いとかいなかったかなぁと思い浮かべてみるが、心当たりはなかった。いたとして、今突然この場所に召喚するのも難しいだろうが。
「うーん、鑑識作業とかでもちっとはやってればなぁ。科捜研とか。あ、そうだ、窃盗なら指紋取れば一発なんじゃん? あ、いやそういうのでも道具なきゃムズイか」
「指紋な。そらドンピシャでなんかありゃいいが、あそこは男も女も使う共同浴場だしな。とりあえず防犯カメラでもありゃそれ見て容疑者を絞りたいところだが」
「旅館の外に逃げた泥棒だったらどうしよう」
「ロビーから逃げた不審者はいねぇって話だろ」
 松田が支配人に防犯カメラについて尋ねると、初老のスーツ姿の男性は、旅館の見取り図を取り出して指で示した。
「大浴場を通る人の確認ということであれば、このエレベーター前に一つ設置してあるものでしょうね」
「えーっと、エレベーターから来ても、階段から来ても、カメラの前は通るんだな」
「ちょうどいい位置にあるみてぇだな。んじゃとりあえずそれ頼む」
「では従業員控室にモニターがありますので」
 支配人はすんなりと2人を控室に案内してくれた。
 盗難が発生したのは2人が大浴場を利用した30分くらい前のことで、利用時間はかなり長めに見ても精々1時間ほどだ。そこで、2時間前からの映像を確認してみることにした。

+++

 レトロな棒状の部屋番号が書かれたアクリルの付いたルームキーを受け取り、ロビーを離れた2人は客室の様子を確認して、すぐに大浴場へと向かうことにした。
「内風呂も綺麗っぽくていいけどな。あ、今度温泉行くんならさ、俺、露天風呂付きの客室がいーな」
「へーへー。相変わらず高い男だな、お前」
「えーいいじゃん。客室の露天風呂ならイチャつけんぜ?」
 まぁそれはいいな、と松田は頷いた。
「だろ! よーし着替えてとっとと風呂入んぞ!」
 松田はあまり風呂好きではないので、面倒だしパスできるなら入りたくないとまでも言うのだが、俺は風呂も入んねぇ男と並ぶのヤダ、と萩原が言って聞かせているので、ちゃんとシャワーは浴びている。反面萩原はゆっくり浸かって休むのがかなり好きな方だ。小一時間くらい浴室にいることもある。今は防水でスマホもいじれるしテレビだって見られるのだからのんびり満喫していた。
 午前中には軽く観光もしたので、今から部屋を出る予定もない。夕食までテレビを見て、スマホを弄って、だけの予定になるよりは、早めに湯船に浸かってゆっくりするのがベストだ。何せここには、温泉で疲れを癒すために来たのだから。食後にもう一度入ってもいいかも知れない。
「貸切だから陣平ちゃんも泳げんぜ」
「泳ぐか。ガキじゃねぇんだから」
 中学の時の林間学校で、クラスメイトに乗せられて大浴場で松田が水泳大会をして教師からこっぴどく叱られたことがある。萩原は横で「やれやれ!」とか「陣平ちゃん負けんなよ!」とか言って見守っていただけなので、お叱りから逃れられたし、叱られているのを見た女の子たちの『男ってホントガキよね』という冷たい眼差しからも逃れることができたのだ。後で松田からは「お前も煽ってただろ!」とキレられた。なお結果はもちろん松田が勝利していた。
 そんな微笑ましいエピソードを思い出しつつ、着替え持ってくの面倒だなとササッと浴衣に着替えて、2人はほとんど手ぶらで客室を出た。念のため財布は鍵の掛かるロッカーに入れて、スマホはテーブルに置いたままだ。
 ガチャンと鍵をかけてフロアを見ると、先ほど因縁を付けてきた男がキョロキョロと辺りを見ていた。
「何か探してるんですか?」
「うわっ、何だ、またお前らか……」
「えーっと何さん? 名前聞いてませんでしたよね」
「何でお前に名乗る必要が……まぁいい。上月だ。お前らは……風呂とか言ってたな」
「ええ、今から。あっでも探し物なら俺手伝いますよ」
「いらん! あっち行け!」
「萩、面倒なヤツに関わるな。行くぞ」
「え、でも……困ったことがあったらフロントで聞くといいですよ、上月さーん」
 上月はエレベーターと逆の方向に歩いて行ってしまった。
 客室のフロアは2階で、大浴場は地下にある。乗ってきたエレベーターで降りようとホールに向かうと、三日月が客室から顔を出した。
「あ、三日月ちゃん」
「萩原さん……! あれっもう浴衣に着替えてるんですね」
「うん。俺ら今から風呂入ろうと思っててさ。今なら貸切かもってフロントで聞いたから」
「あっそうなんだ。じゃあ私も早く入っちゃおうかなぁ……。あっあのお風呂、綺麗で、いいお湯でしたよ。前に来た時も私は本館の方に入ったので……」
「そうなんだ。じゃあ期待しちゃうな」
「はい……! 乳白色のお湯で……」
「萩、いつまでも話してんな」
「あっ、す、スミマセン」
「いいよいいよ。陣平ちゃん、急かすなよー。それじゃあまたね、三日月ちゃん!」
 萩原はヒラヒラと左手を振って別れた。
「あの女、お前に気があんじゃねぇの?」
「会ったばっかだっつの。つか陣平ちゃんそういうのばっか言ってんぜ?」
 ヤキモチ焼き、と言うと、うるさい、と顔を背けられてしまった。
 それから2人はエレベーターに乗って地下1階に下りた。地下には宴会場があるが、今のところは静まっており、その横を抜けて大浴場へと向かう。大浴場のふたつの入口にはそれぞれ看板が立てられていた。
「うんうん、たしかに今日は鳳が女湯で、凰が男湯だな」
「弄んなよ」
「わかってるって」
 立札で確認して凰の湯の方の脱衣場に入ると、そこはガランとしていた。人の気配はない。多分貸切と入月が言っていたとおりらしい。
「んじゃすぐ入ろうぜ……ってあれ、ここ、貴重品ロッカーとかねぇの?」
「ないみたいだな。貼紙もあんぞ」
『貴重品は部屋のロッカーで保管してください。ルームキーはフロントにお預けください』
 萩原は貼紙の文字を読み上げた。
「えっ、そうなの?」
「めんどくせぇな……」
「うーんだから入月ちゃんは誰もいないって言ってたのか」
「あぁ、鍵預けた客がいないってことか」
「うん。多分そういうことだろ。仕方ない、一旦戻るか」
「いいよ別に、どうせ誰も来ないだろ、こんな時間。客自体少ねぇし、宴会場使うヤツもいねぇんだから、そのままにしてても平気だ。指輪くらいなら隠しときゃ見えねぇしよ。まぁ鍵は……濡れてもいいんだから持って入りゃいいだけだ」
「うーん大丈夫かなぁ」
「平気だって。誰か風呂入ってくりゃわかんだから」

+++

 そして2人が風呂から出ると、浴衣で覆い隠していた萩原の指輪がなくなっていたわけである。
 防犯カメラの映像によると、大浴場に向かってから戻ってくるまでの間に大浴場に向かって戻ってきたのは3名だけだった。
「俺らが喋った3人じゃん。入月ちゃんと、上月のオジさんと、旅館で最初に喋った三日月ちゃん」
「どういう偶然だ?」
「えー……ってことは、さっき俺らが話してた中に犯人がいるってこと? ヤだなぁ、俺。探偵ってこんな仕事ばっかなの?」
「現代の探偵がしてんのはもっぱら興信所みてぇなことだろ。それか浮気調査だ。もっとやってらんねぇ」
「俺猫探しだけして暮らしたい」
「ペット探偵にでもなれ」
「なるほど?」
 猫探しオンリーの仕事は魅力的だなと思ったが、生憎萩原は定年まで公務員でいるつもりだ。
「状況を確認するぞ。貴重品ロッカーがないんだから、窃盗のプロでなきゃ盗めないって状況じゃなかった。誰でも盗める」
「大浴場にはやっぱり俺らしかいなかったしな」
「風呂に入るにゃ時間も早かったからな。フロントの女が言ってたとおり、誰もいなかった」
 大浴場は24時間誰でも利用可能だが、宿泊客が地下1階にある大浴場に向かうには必ずエレベーターか階段を利用する必要があり、そのどちらも防犯カメラの視界から外れることはできない。また、画像データの加工も短時間では難しいだろう。念のため早送りで朝まで遡って映像を確認したが、大浴場に留まっている不審者といった存在も当然なかった。
「他に考えられるのは外部犯だが、地下に入り込む出口は他にない。大浴場を抜けた向こうに改装中の別館があるが」
「あそこ地下の通路で繋がってるんだよな」
「改装中だから通路に通じるドアには鍵が掛かってた。パクられたって気付いてまず外殻の窃盗犯を疑ってドアを動かしてみたが、鍵がこじ開けられた形跡はなかったし、別館側から侵入するのはムリだ」
 支配人ならば通路の鍵を開けることも可能だが、支配人はこの控室で帳簿作業等を行っていたとのことである。控室に戻るにはフロントを通る必要があり、支配人が部屋から出ていないことは他にフロントにいる従業員が確認していた。そして、外に逃げる不審者も、フロントの従業員は見ていないのであった。
「そういや入月ちゃん、何しに大浴場に来たの? あれっ入月ちゃんがいない」
「さっき部屋から慌てて出てったぞ」
「えっそうなんだ? まぁ、いいや。入月ちゃんは勤務中だから風呂なんか入れないよな」
「たしかにそうだ。それに映像を見ると大浴場まで行って、すぐ戻ってる」
「あーでもそう言うと上月さんも入ってきたの見なかったんだった」
「こっちもすぐ戻ってるな。上月が行って帰って、その後に入月って女がカメラの前を通った」
「その前に来てた三日月ちゃんは、俺らが風呂入ってからすぐ来てたけど、ま、言ってたとおり、普通に風呂入ってっただけっぽいな。小さい鞄持ってるし」
「あそこに指輪を隠して帰ることもできそうだと見えるが」
「そういうこと言うなよ。混浴でもねぇんだし、普通男湯なんて来ねぇよ。出てった時間も俺らの後だし。うん、犯人じゃねぇな、これは!」
「女を贔屓すんな。そういう一見怪しそうじゃないヤツの方がいつも怪しいんだよ」
「陣平ちゃんサスペンスの見過ぎ」
 あのな、と松田は肩を上げた。
「つかどうせお金目当ての犯行なんだろ? もう素直に返したら見逃すからって言えば返してくれんじゃねーの? ぶっちゃけ返してくれたら俺はいいんだけど……」
「いや、金目当ての犯行にしちゃ、おかしなところがあると思うが」
「えっ何が?」
「容疑者の3人は全員俺らの話を聞いて指輪見てんだから、そうなりゃおかしいだろ」
「えーだから何が……そういうのもったいぶんなくていいじゃん。そういう探偵イズムみたいなの、俺好きじゃねぇよ」
「いや普通に考えてみりゃお前もわかんだろって話でな」
「支配人! 萩原さんたち! 上月様と三日月様を連れてきましたよぉ!」
 入月がわたわたと控室にやってきた。
(こんな可愛い、いい子が犯人だったらやだなぁホント)
 俺探偵には向いてないやと萩原は首を振ったが、被疑者が美人だったことくらいあんだろうが、と松田からは普通に言われた。というか、誰が犯人でもいいことなんて1つもないのである。因果な職業だ。
「これで私を含めて、容疑者の3人が揃いましたね! さぁ萩原さんの指輪ちゃんと見付けましょう!」
「陣平ちゃんやっぱ入月ちゃんは違うって」
「ていうか自分が容疑者だってのはいいのか、気楽な女だな」
「えっ……何ですか? 私たちが、容疑者?」
「失礼だな、どういう話なんだ!」
 入月が連れてきた上月は怒った様子で、三日月は困惑している。松田はそれに構うこともなく、入月に尋ねた。
「アンタ、何で大浴場の方に来たんだ?」
「あ、それはですね。何でもイタズラがあったんじゃないかと聞きまして」
「イタズラ?」
「はい。上月様からそのことを聞かされて大浴場に行ったんですけど、イタズラなんてなかったんですよねぇ。あ、上月様は、地下にタバコを買いに行かれたそうですよ」
「そうだよ。探してみても2階には自販機がないからフロントに聞いたら、地下に自販機があると言われたから行っただけだ。全く不便だな……」
「本館は今全面禁煙なんですよ。喫煙室が別館の方にあったもので、その通路の前に1台だけ自販機が残っているだけなんです」
「で、別館の喫煙室とやらに行こうとしたらドアは開かないし、仕方がないから上に戻って旅館の外で煙草を吸ってたんだよ。それだけだ」
「ま、どれも合理的な説明だな」
 犯人の予測は付いた、と松田は言った。
「えっ今ので?」
「今のが決め手ってわけでもねぇが、まぁ、シラを切るのが難しいだろうなってところまでは持ってこれたと思うぜ」
「だから何でもったいぶるんだよ」
「まぁ、こういうのはもったいぶんのが鉄則だろ? 誰が犯人か解けましたか、ってな」
 む、と萩原は唇を尖らせた。
「俺は探偵イズム好きじゃねぇんだって言った」
「ワリィワリィ。別に難しい話はしてねぇよ。問題はいくつかあって、まずは鍵のかかる貴重品ロッカーが備え付けられてなかったってことだ」
 それはすみません、と支配人が頭を下げたので、萩原は松田に代わって首を横に振った。たしかにある方が良さそうではあるが、必須ではないのだ。
「えっと、つまり?」
「そもそも俺らが何で指輪外さないで大浴場に来たのかってことだよ。そりゃ貴重品ロッカーか何か、鍵のかかるロッカーがあるって思ったからだ。こういう温泉旅館なら備え付けられてる可能性は高い。で、鍵がかかってりゃ、素人が盗み出すことなんて無理だ。実際にはそういうものはなかったわけだが、初めて来た客にゃそれはわからない。そこのオッサンも多分知らないだろうさ」
 松田は上月の方に目をやった。
「一体何の話だ? 勝手に呼びつけて、指輪が盗まれたとかどうだとか、それに人をオッサンだのなんだのって、これだから最近の若者は……」
「知らないし、指輪を盗む動機もない。オッサンが単なる嫌がらせに指輪なんかわざわざ盗まないだろうし、仮に目的があるとしたら金だ。こんな指輪でも売りゃ金になる。もしかしたらそういう常習犯かもしんねぇしな、高そうな指輪とか言ってやがったし。だが、もしそうだとしたらおかしなことになる。お前、物取りに偽装した犯行現場ってので、偽装だってバレんのはどういう時かわかるか?」
「いやわかんねぇけど。前提が漠然としすぎだし」
「犯人だったら絶対に盗むはずの物が盗まれてない時だよ」
「えー……あ、テーブルに置いてあった100万円がそのまま残ってたとか?」
「わかりやすく言や、そういうことだな。もし自分が盗みに来たんならな、部屋で見つけた金になりそうなものは片っ端から盗む。リスクに見合ったリターンが絶対に欲しいはずだ。カードだの現金だのアクセサリーだのは何でも盗む。重くて持てねぇとかでもなきゃな。いいか、俺らは同じ指輪をしてるところをコイツらに見せてんだ。金目当てで何で片方だけ見逃す必要がある? ちょっと見りゃ俺の指輪なんて探すのは簡単だったはずだ。どうせ盗みに来たんなら一応探してみよう、くらいは思うはずなんだよ。なのにこっちは手付かずだった。それじゃ筋が通らねぇ」
「うーん……つまり、上月さんが犯人だと考えると目的は多分金銭で、それだと辻褄が合わないってこと?」
「そういうことだ。更に旅館に初めて来たオッサンは貴重品ロッカーがないことも知らない。んならオッサンがエレベーター前を通るまでの短い間に、指輪を付けてるお前を見て衝動的に思い立って犯行に及んだと見るのは難しいことだぜ」
「なるほどなぁ。それじゃあ、入月ちゃんか三日月ちゃんのどっちかになんの? それもわかる?」
「簡単な話だ。フロントの女はイタズラがあったと聞いて慌てて大浴場に行ったんだろ。その話がなきゃ仕事中に地下に降りることはできねぇんだから犯人の可能性はハナっから低い。それにもうひとつ重要なのは、俺らが風呂に行く途中にルームキーを預けなかったってことだ」
「どゆこと?」
「そこにある客室と同じ案内を見てみろ、『貴重品は部屋のロッカーで保管してください』。こう書いてある。大浴場でも同じ張り紙があったよな。貴重品は部屋のロッカーで保管しろって」
「あっじゃあ普通は俺らが指輪をして大浴場に行ったとは、フロントの入月ちゃんは思わないってことか」
「そういうことだな。その上、ルームキーを預けにも来ないんだから、そもそも俺らが大浴場に行ったかどうかも定かじゃなかったはずだ。あの女の犯行である可能性は限りなく低い」
「えっじゃあ残ったのは……」
 萩原は残りの1人――三日月に視線を向けた。
「そうだその女だ」
「ちょ、ちょっと待ってください、私何のことだかさっぱり……」
「フロントの女、お前が聞かされたイタズラってのは何だ?」
「え? イタズラなんてされてませんでしたけど。ですが上月様は、『鳳の湯』に『男湯』の看板が置かれていると仰って……」
「何だね、私が見間違ったとでもその女は言うのか? 雄だの雌だの話していたから気になって見たら、聞いた話と逆になっていたから注意してやっただけだというのに」
「いやオッサンが見たのは間違いない。多分それは、そこの女が逆にしておいたんだ。自分が男湯にいることを見られたら、看板が間違っていたとでも言うための保険のつもりでな」
「し、知りません! 私、そんなこと……」
「看板が間違ってたってこともか?」
「知りませんよ! 私はちゃんと女湯の方に入ってるんです! だから萩原さんたちとも会ってないんですよね!」
「なるほど、書いてあるとおり入っただけだって言うんだな。それならアンタは、当然看板に触るはずはないよな?」
「……! そ、それは」
「多分残ってんだろ、素人の浅知恵なんだから。宿泊客が通常触るはずのない男湯と女湯の立て看板に、その女の指紋がべったりとな。鑑識に頼みゃ、ンなのは多分一発でわかる。そうなりゃ令状でも何でも取って、アンタの泊まってる部屋を探して回れば指輪は見付かるだろうが……だが、そこまで必要か?」
 松田はじっと三日月を見た。
「三日月ちゃん、何でこんなことを?」
「わ、私……あの指輪がなくなったら……2人が別れると思って……」
「えっ? 俺らが? 何の話?」
 たしかに「指輪をなくしたら離婚されるかも」とは言ったけれど、もちろん本気の言葉ではない。もしこのまま指輪が出てこなかったとしても、過失度合いはむしろ自分の方が高いと松田がわざわざ言ってくれたのは、気にするなという意味なのだと萩原もわかっている。
「私だって好きでなくしたわけじゃなかったのに、旅先でどこかに落としてしまって……それで、婚約者に、もう別れるって……」
 うわぁん、と三日月は床に座り込んだ。
「やっぱり私なんてもう生きてても仕方ないんだ! 死んでやる!」
 そして控室の食器棚から果物ナイフを掴むと、自分の喉笛に切っ先を当てた。
「お客様!」
「あわわ。三日月ちゃん落ち着いて……」
「うるせぇ! 死にたきゃとっとと死ね!」
「じ、陣平ちゃん!」
「アンタが俺らを別れさせようって思ったのはコイツのこと多少なりとも好きになったからだ! だったらお前もわかってんだろ、自分を捨てた男なんてのよりもっといい男がいるってことくらい」
 そう言って松田はナイフを持っていた三日月の右腕を掴んだ。
「まだアンタだっていくらでもやり直しが利くだろ。人間なんざ、他にもまだいくらでもいんだからよ」
「……そうだよ、三日月ちゃん。三日月ちゃんはこんなに可愛いんだからさ、もっといい人いっぱいいるって。俺も紹介するよ」
「萩原さん……」
「三日月ちゃん、だから、そのナイフ俺に渡してくれるよね?」
 三日月が頷いたので松田は手を放した。三日月はナイフを差し出した萩原の手に渡した。
「指輪返してくれたら俺はいいからさ。事件にはしないよ。それよりここでゆっくり休んで、美味しいもの食べて、ちゃんと元気になってね」
「萩原さん、ありがとう……ございます……!」
 ぽんぽんと三日月の背を宥めるように叩いて、松田と視線を交わした。
(良かった……みんな無事で)
 三日月もさることながら、松田は自分の身に頓着をしないので、ナイフを回収するまでは萩原はそちらにも心配させられた。
 こうして事件は一件落着となったのだ。

***

「ホンット、指輪見付かってよかったよなぁ」
「別になくしてもまた買ってやるっての。そんなもんなくしたくらいで、大袈裟に言う必要ねぇだろ。いくらでも買ってやる」
「何言ってんだよ! これは大事な思い出の指輪なんだからな……てか、昔、一緒に買ったイニシャルペンダントなくして落ち込んでたの陣平ちゃんだったじゃん」
「あれはな……」
 何が違うんだよと萩原は腕を組んだ。
 あれは高校生の修学旅行の話だ。大阪でUSJとかを楽しんだ帰りに、家族にみやげ買って帰らないと、と探していると、ふと見たイニシャル入りのアクセサリーを萩原は気に入って、一緒に買って帰ろうぜと松田に持ちかけたのだ。
『俺がJを買って、陣平ちゃんがKを買って持つってのは?』
『そんなまどろっこしいことすんなら、JとKのどっちのイニシャルも買って2つとも付けりゃいいだろ』
『なるほど! 陣平ちゃん天才だな!』
 というやりとりがあって2人で買ったアクセサリーは大事に持っていたのだが、ある日それをなくしたと松田が落ち込んだので、「じゃあもっかい新しいの買おうぜ」と慰めて、新しく買い直したのである。もちろん別の物ではあったが。それは今、萩原の実家の机の抽斗に仕舞われている。
「結婚指輪なくしたって、欲しけりゃまた買えるだろ。そんなのは」
 松田の言葉に萩原は首を傾げた。
「別にペンダントだってまた買えんじゃん。つか買ったし。おんなじのじゃあないけどさ」
「あの女の話と同じだよ。なくして、また与えられるものかどうかわかんねぇって物だったんだ、あれは」
「? 俺が怒って『陣平ちゃんとはもう絶交だ!』って言うかもってこと?」
「そうだしそうじゃねぇ。お前がそこまで言うとは考えてねぇよ」
「じゃ俺が『そんなんもうどうでもいいじゃん』って言うかもってことか。なんだ、そんなん怖がってたんだ。カワイーとこあんじゃん、陣平ちゃんも」
 ぷにぷにと頬をつつくと、やめろ、と手を払われた。
「うるせぇ。そういうのはお前にない発想なんだろ」
「なくもねぇけど。まぁでもそうだな、俺なら多分言わなかっただろうと思うよ」
 萩原は肩を竦めた。
「だって、如何にもどうでもいいって言いそうじゃん、お前」
 そう言うと、松田は不服そうな顔をした。
「俺は、ンな」
「言っとくけどな、それ、薄情者って意味じゃねぇからな。だって言ってもいいんだよ、この指輪じゃなきゃさ。多分な。人はみんな同じじゃねーんだから」
 それでも、なくした指輪をまた買ってくれるということは、別に、愛の証明でも何でもないのかも知れない。他人と同じ感情を共有することは難しくて、結婚してもどこまでいっても他人は他人なのかも知れない。それを日々思う。嫌だとは思わない。いつだって自分とはこっぴどく違って、そんなところが好きだと思っているのだから。
 戻ってきた薬指の指輪を萩原はもう一度眺める。なくして以来松田はペンダントを持ち歩かなくなったので、萩原も机の抽斗に仕舞っておくようになった。大切にしていたけれど、そこに、微かな寂しさが残っていたことを思い出す。そしてこの指輪には、それがもう一切ないのだと思った。それはやっぱり愛と呼んでもいいのかも知れないな、と。
「あっそういや三日月ちゃん、新しいカレシできたってさ! こないだLINEで報告してくれたんだけどよ」
「だから女とLINE交換してんじゃねぇよ!」
「アフターフォローじゃん! 陣平ちゃん突き放すばっかなんだから」
「うっせぇ。つかフロントの女とも交換してただろ」
「だから浮気じゃねぇっての。コネクション! 箱根コネ!」
「警官にいるか、ンなモン! 韻踏むな!」

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