「デイビット、こんなところにいたの?」
軽いノックの音と共に顔を出したのは友人で、デイビットは回転椅子で振り返ると、オレの部屋だろう、と彼に答えた。
「オレの部屋だし、今日はシミュレーションの予定もないと思っていたが」
「ま、そうよね。でも、今日って日は流石にいつもと違うじゃない?」
入っていいよ、と言うと、ペペロンチーノは入口から数歩くらい部屋の方に動く。風貌や喋り方が特徴的な男だとデイビットは思っているが、人となりとしては、さほど奇抜なことはしない、というのがこの友人へのデイビットの率直な評価である。むしろ距離を取る性質のようだ。さほど思い出せはしないようなパーソナルなことを思い出しながら、デイビットは手元の書類を机に置いた。
「オレに何か用が?」
「あらヤだ。もしかして、何も分からない?」
「……何か忘れていたか?」
デイビットは眉間に皺を寄せながら、今日に意味が、或いは彼との間で今日という日に意味付けはあっただろうかと考える。
「今日はバレンタインデーじゃない」
「ああ、そうか、そういう日か……」
「一応、知ってはいるみたいね」
デイビットは肩を上げた。
「知ってはいる。その日に意味があったことはないが」
何だそんなことの伝達を? とデイビットは不思議に思う。
「恋人でもいるのか?」
「えっ私? いないわよ、デイビットも……そうでしょ?」
デイビットは怪訝な顔で首を傾げた。彼に聞いた手前ではあるが、そういう人がいて、この南極のカルデアに赴任するような人間がいるのだろうか。それとも、魔術師であれば――選ばれた名誉だけを胸にそうした行動を取るのか。
バレンタインデーという日のことは知っているが、それは配偶者や恋人がいなければ、いつもと変わらない一日だろう。
「であれば、オレたちにはどちらも縁のない日だと思うが」
「そうでもないのよ」
「どういう意味だ?」
デイビットがまた首を傾げると、ペペロンチーノは「私の故郷ではね」と話し始めた。この場合、彼の言う故郷とは本当はどこなのかを聞いておくべきなのだろうか、とデイビットは思う。少なくともこれまで会話した中に答えはなかった、或いは、必要な情報として記憶していない。
「お世話になっている人にチョコレートを贈ったりするのよ。はい、デイビット」
「オレに?」
ペペロンチーノが近付いてきて手渡したのは、華奢な箱だった。深いバーガンディーの色は選んだ彼らしさが強く感じられる。右上に貼ってあるパープルのリボンのシールも主張しすぎずに良いデザインだとデイビットは感じた。
「嫌いじゃないわよね、チョコレート」
「ああ、別に」
プレゼントを貰う機会などこれまでになかったので、デイビットは受け取ってから、開封した方が良いのかを思案して、箱を開けた。
「あら? すぐに開けるの?」
「何か問題があったか?」
「そういうことはないけど……」
デイビットが蓋を取り上げると、中には小粒のチョコレートが並んでいた。
「これは?」
その一つをデイビットは摘まみ上げる。ホワイトチョコレートだ。形状は、下端が尖り上部は半円が二つ並んだ――所謂、ハートの形に近いように見える。
「ほ、ほら、可愛い形でしょ?」
なるほど、ペペロンチーノはそう感じるのか、とデイビットは考えた。彼はそういう形状をどうやら好んでいるらしいのだ。それで、チョコレートもこの形状なんだな、と思う。
デイビットがそうした形状には拘らずにチョコレートを口に入れるのを、ペペロンチーノはじっと見ていた。
「美味いな。ありがとう、ペペロンチーノ。ちょうど書類を見ていて脳を使っていたから、貰うよ」
「いいえ、私の方こそよ」
彼がそう言った意味が、デイビットには分からなかった。チョコレートを貰ったのは自分であって、彼は何も貰ってはいないのに。
(世話になっている人に、か)
彼は、世話になっているからデイビットに、と言うが、デイビットが彼に何かをしてやったような記憶はない。チームの中では他よりも親しく話しているとは思うが、それはデイビットの方から見ればのことであって、誰とでも打ち解けて話すペペロンチーノの方が思うことではないだろう。
デイビットは少し考えて、机の上に置いてある箱を開いた。中身をナプキンで包んで掴む。
「ペペロンチーノ、良ければこれを持っていってくれ」
「これって、ドーナツ……よね?」
「ああ。チョコレートでなくて悪いが――」
恐らく感謝の意を贈物に込めるということに、ペペロンチーノの言うようなバレンタインデーの意義があるとするのであれば、それは必ずしもチョコレートでなくとも良いのではないか、とデイビットは推測した。ちょうどチョコレートドーナツは食べてしまったのだ。グレーズドドーナツしか残っていない。
「いいの……貰って?」
「まだ十分にあるからな。問題はない」
「それじゃあ、遠慮なく」
ペペロンチーノはそう言って、ドーナツを受け取った。白く砂糖の掛かったそれを見つめている。
「コーヒーでもいるか?」
「ありがとう、デイビット。でも、いいわ。帰って食べるから」
「そうか。オレの方こそ、気を使ってくれて感謝している。ありがとう、ペペロンチーノ」
*
「――と、いうようなことがあって」
「なるほど、なるほどな……」
バレンタインデーという行事について、デイビットはまるで縁がないのだが、唯一残っていたその微かな記憶――無論五分の範囲でしか憶えていない為、思い出のとおりにデイビット自身が記憶しているという訳ではない――が、それである。ペペロンチーノがチョコレートをくれたこと、そして、その礼にドーナツを渡したことだ。
「しかしな、オマエ。ハート型のチョコレートを貰うって」
「? ペペロンチーノがそういう意匠を好んでいたというだけだろう? ヤツの令呪をおまえは見たことがあるか?」
今更だが、あのカルデアでチョコレートをわざわざ用意したのだろうか、とデイビットは考えた。どうやって、と聞いたのだろうか。デイビットは憶えていない。それは、憶えていないことだ。思い出そうとしても、自分の中にもう何も存在しないことが分かっている。
デイビットは空になった皿を見つめながら、その時のチョコレートの味すら自分は憶えていない、と思った。そうやって考えているのに、テスカトリポカは思案するデイビットの額を指で弾いた。
「何をするんだ」
「そういう話をオレが聞きたかったとオマエが思っているのかという話だ」
「聞かれたから話しただけだ。バレンタインデーにおまえにも思い出があるのかと。聞いたのはおまえだろう? それくらいしかないが……」
デイビットは軽く目を瞑って、あとヴォーダイムにも、と言った。
「またあの男か?」
「そんなこと初めて言われたよ」
デイビットは肩を上げて、じゃあいい、と首を振った。何だか、言ってもいいことがなさそうだとしか思えない。
「言え」
「……言ってもいいことがない」
「Say it to me.」
「……オレはただ、その後珍しくオレの部屋に来たヴォーダイムにも同じようにドーナツをやったということを言おうかと思っただけで」
やっぱりテスカトリポカの目付きが怖ろしいものに変わったので、デイビットはまた首を振った。
「特別にやったんじゃないんだって話だよ。ああそうだ、ヴォーダイムにも世話になっているなと思って、もし良かったら食ってくれ、と渡した。ヴォーダイムは驚いたようだったが――」
やりとりは詳密に憶えていない。デイビットは、その時のその男の表情が思い出せないことにため息を吐いた。落胆した。
その――何と薄情なことか。
そういった物思いを抱けるようになったのは、明らかにミクトランパに来たお陰だ。喪ったものについては普段あまり考えないようにしているが、ふと取りこぼしてしまった多くの物事について考えることがある。それは決して悪い兆候ではないだろうと神は言う。
ぽん、と頭の上に手が置かれた。
「オレの狭量さを詫びるつもりはない。が、オマエにとってもソレは、取っておくような記憶だったんだな」
「……渡したものと貰ったものは忘れないようにしていただけだ。話が大きく食い違うと困るだろう? だから」
頭を撫でる手が温かい。初めは、居心地が悪い手付きだと思ったのに、今では何よりも安心する温かさだと感じている。
喪ったものの大切さを知らなかった。考えることはなかった。ミクトランでも、憶えておきたいと思う物事で溢れていたのに――。それは、永遠に気づかなければ、そうやって生きていられたのだろう。愛しさも、慈しみも、全てを捨て置いて。
「ありがとう、神様」
「オレは、何もしていないがね」
「あとおまえの機嫌が悪くならなくてよかった」
「……オマエな」
もしかするとあの時ペペロンチーノが礼を言ったのはそういうことだったのかも知れない、と思った。
そしてデイビットがそれを話すと、「いや、オマエは鈍いだけだ」とテスカトリポカは言った。まるであのチョコレートの味を知っているかのように。
ペペロンチーノさんならチョコあげてたんじゃ!? と急に思い立ってしまい……。
キリシュタリア様の話がいつも出てくるのは私がキリシュタリア様好きだからです。