異常が起こった、とデイビットがテスカトリポカに言われたのは、デイビットがミクトランパにやってきて、地球上で数週間程度の時間が経過した頃のことだった。
テスカトリポカ神の管理する楽園――ミクトランパ。
異聞帯での戦いを終えたデイビットは、テスカトリポカとの生前の約束のとおり、楽園へやってきた。そこで、役目を終えた戦士として、テスカトリポカ神の庇護の元、次なる戦いに向けての休息を得ているという状態にある。
次なる戦いというものがどのようなものであるのかは、デイビットにも分からない。ただ、遍く戦士を愛する神様が言うことなのだから、恐らく自分にも相応しい場所が存在するのだろうと考えている。休息だとテスカトリポカが言うように、今のところはゆったりと暮らしているが、このまま穏やかに過ごす為にここにいる訳ではないということは理解していた。
ともあれ、いつものようにデイビットは楽園のベッドで目覚め、隣に寝ている神様に、もう起きた方がいいと言って、キッチンに向かい、朝のコーヒーを飲んでいた。
異常について聞いたのは、デイビットのコーヒーが残り半分になってからだ。
「異常?」
「ああ。異常としか言えん。権能が使えない」
「……権能が使えない? この楽園の神としての?」
デイビットが首を傾げると、テスカトリポカは神妙な顔つきで頷いた。デイビットの目には、そのすがたは、いつもと至って変わらないように映る。
「どうして? 神様なのに?」
「神にも異常が起こることはある」
それでいつもよりも起きてくるのに時間が掛かったのだろうかと、デイビットは考えた。
「オレは、神というのは、絶対的な存在だとばかり思っていたよ。完璧で、バグなんて起こらないものだと」
「何にでもバグは付き物だ。オレは特に複雑な神性だからな」
「ああ、黒と赤と青と白という話か?」
「そうだ。そして、全能の神としての権能は多岐に渡るが、その分、どこかでエラーを起こせば全体が詰まる。ラッシュの電車の一つが遅れると全体に遅れが生じるだろう?」
「何だ、その喩えは」
デイビットは軽く肩を上げた。
「言いたいことは分かったが、何が理由なんだ? まさか、このまま権能がなくなるなんてことは……」
デイビットは一瞬、自分のようなよそ者をミクトランパに置いていることが関わっているのではないか、と思った。
「ただのエラーだ。黒と赤と青と白の権限が混線してエラーを起こしたというところだろう。神が神でなくなるハズがない」
「理由として、オレがミクトランパにいる所為、ということは考えられないか?」
「ないな。何だ、デイビット、オマエも随分と自信過剰だな? 自分の存在が神を殺せるとでも思ったか?」
テスカトリポカはデイビットの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
そういうことを彼はよくする。デイビットにだけではなく、彼が妹と呼んでいるトラロックにもしていたのを見たことがある。今のは、安堵させようとしてくれたのだろうとデイビットは感じた。
「そういう心配は不要だ。オレもそういう懸念については最初から考えてある。バケモノだって受け入れるようなこの楽園で――、オマエが心配することなど何一つない」
また、ぽんぽんと頭を叩かれる。
撫でられていると彼に宥められているような気持ちになる。だが、そうされるほどに、これは本当に自分の所為なのではないか、と厭な方にも考えが及んでしまうのだ。
神が、嘘を吐いているとは思わないけれども。
今回のこの現象の裏に、デイビットやその背後にある外宇宙的な事柄が直接関わっているということはないのだろうが、やはり、自分のようなモノは、本来、長居すべきではないのではないだろうか――。
「……じゃあ、どういう状況なんだ? 今までにもこういうことがあったのか? 原因に心当たりはないのか?」
「初めてだ。状況に関しては、オレもよく分からん。だが、原因として考えられることは幾つもある。例えば、オレは今、カルデアにサーヴァントとして登録されているだろう?」
「ああ、向こうで夏頃に召喚されたんだったな。カルデアの話が聞けてオレも良かったと思ってる。藤丸は最近どうだ?」
「ヤツはいつだって元気だ。それこそが、最も重要な事柄だからな。で、向こうにいる霊基はアサシン、そしてこっちにいるのがルーラー」
「そうだな。ミクトランパの管理人であるテスカトリポカはミクトランパに偏在していて、ここでオレと過ごしているが、それはオレが召喚したルーラーの霊基を基盤にしている」
「そのとおり。ま、身体のつくりは結局同じだから、あちらとこちらで違いはないし、記憶や記録は共有、向こうに意識を同期することも出来る。オマエも、たまには向こうに連れていってやってもいいぞ」
「それは楽しみだ。それで?」
「で、霊基があっちとこっちにあり、おまけにトリ公もカルデアにいやがる」
「気になっていたんだが、カルデアにいるというケツァルコアトルのサンバというのは、何だ?」
「んなことはオレが聞きたい。ま、そいつはともかく、テスカトリポカ的なものが分裂した状態で点在していることで、一種のエラーが生じたらしい。混線と最初に言ったが、ま、そう表現するのが妥当だろうな」
「本当に……直るんだよな?」
「ま、すぐにとは行かないがね。混線を直して、ついでにそういうことが今後起こらないように回線を整備する必要がある。明日かそこらには戻るだろうな」
「そうか。それなら問題ないな。なら今日は大人しく……」
「問題大アリだ」
テスカトリポカは、デイビットの額を人差し指で弾いた。
「オレたちは今日キャンプをするという予定があっただろう」
「起きてこないから忘れたのかと思ってたよ」
「いいか、デイビット。神は約束を違えない」
「I see.」
話は昨日に遡る。二人が何気なく見ていた動画で、現代の日本でソロキャンプというのが流行っているらしいと知り、それを眺めている内に、「オレたちもキャンプでもするか」という流れになったのである。
全能神は気軽に、「なら良さそうな山を一つ造るとしよう」などと言い、明日早速キャンプをしようという話になっていたのだ。
「確かにそういう話だったけど、権能に問題があるなら無理をしない方がいいんじゃないか? 今日は家で大人しく……」
「デイビット、神を舐めるなよ」
「舐めてない。たとえおまえの権能が自由でなくとも、そのことで侮ったりはしないが、肝心の山がないんじゃな」
「キャンプ用の山なら用意してある」
「あるのか? てっきり、行く前にポンと用意するんだと思っていた」
「だから、便利機能のように言うなと言っているだろうが」
デイビットが神の権能を便利機能だと思ったことは特にないが、テスカトリポカが、あんまりいつも簡単に言うので、そういう言い方になるだけだ。やれ海を移動させるとか、やれ山を用意するだとか。それらはどうやら彼にとっては簡単な作業らしいので、いつも直前にやっているのだとばかり思っていたというだけだ。
テスカトリポカはガシガシと頭を掻いた。サラサラと長い金髪が揺れて、朝の光に輝いている。
「でも、キャンプの準備が万全じゃないんじゃないか? テントとか、必要な道具は、昨日、確認がてら揃えたけど、食材を買ってないし」
「それならスーパーマーケットで買えばいい」
「スーパーマーケット? そんなのあったか?」
「造ったんだ。オマエがいると言っただろう?」
「……言ってない」
何でも家の戸棚からぽんぽんと出てくると多少は困惑する、というようなことはいつだったかに言ったと思うが、日用品はスーパーマーケットで買うようにしたいという意味ではない。
このような微妙な会話の齟齬に関しては、デイビットは目を瞑ることにしている。多分、お互いにそう感じることがあるのだろうから。
「それに、だ。そもそも、ミクトランでも大きな権能は使えなかったんだ。令呪とオレの腸を使ってやっとだった。そうだろう、デイビット? つまり今のオレは、あの頃と同程度――オマエのサーヴァントであった頃のようなものだというだけで」
「……テスカトリポカ、オレの礼装の機能が変なんだが」
「ああ、オレの権能で再現した部分だから使えないぞ」
デイビットが思わず黙ると、オマエの魔術も使えん、と続けて言われてしまった。
「ソレも、オレの権能で補っていた範囲だからな」
魔術など使えずとも日常生活は困らない――。
デイビットは確かにロンドンの時計塔の学生であったし、一応魔術師であるとは言えるのだろうが、そのような家系に生まれついたのではないので、魔術師であることに誇りを持ったことはなく、危難にでも遭遇しなければ魔術の行使は必須ではない。なのに、使えないと言われて、困惑した。それが何故なのかは分からない。生まれついてもいないことであるのに。
考えながら、デイビットはじっと、ただの掌を眺めた。単なる、ひとの、手。そんな自分が、本当に存在し得るのか?
そのようなことを考えている内に、ふと、テスカトリポカの権能がない今の自分には、以前のように記憶に制限があるのではないか、とデイビットは考えた。
「なら、オレの記憶は?」
「ソイツは問題ない」
テスカトリポカはその問いには即答した。デイビットはミクトランパに来てから、自分と接続する外宇宙の感覚が消えたと感じているが、その状態に変化はないと、自分でも思う。
「今のオマエを護っているのは、ミクトランパの領域全体に掛かっている加護、ま、バリアのようなものだからな。ソレは、外側からのあらゆる干渉を弾く。それについては、オレの権能でカバーしている範囲ではない。領域に備わっているものだ」
「つまり、ここにいる限りは絶対的に外宇宙からの影響は受けないということか?」
「そういうことだ。安全だろう、神の楽園は?」
デイビットはほっと胸を撫で下ろして、もう自分は以前のように一日限りで多くのことを忘れたくないと思っているのではないか、と考えた。考えて、首を横に振る。
135億光年先の宇宙より向こうからの干渉は、ミクトランパにいればデイビットの元に届かない。けれどそれは、ここを出てしまえば違う。まるで神様にずっと守られているかのような楽園から一歩でも外に踏み出せば、また、デイビットの一日は最小の五分に戻るのだ。
その当たり前をデイビットは思い、やっぱり、首を横に振った。それがそもそもの自分なのだから当然のことだ、と。
デイビットは再度、魔術の行使が出来ない状態になっているらしい自分の右手を見た。別に実感は沸かないのだが、重めのレザーコートがいつもよりちょっと重いような気もする。衣服を軽くするような魔術なんて、当然掛けてもいないのに。
「必要なものは食材だけだろう? それさえ買えば問題ない。何、明日には戻る、ただの異常だ。むしろ、これくらいがちょうどいいんじゃないか? キャンプというのは、一種の原始的な生活に戻るという活動だろう。温かい部屋もない、風呂もない、便利な機械もない、そういう不便な場所で過ごす、というものであるハズだ。ならば神が何かを準備するべきではない」
「いつも思うが現代の文化に詳しいな。まぁ、別にいいと思うよ。じゃあ買い出しに行こうか。それで、スーパーマーケットはどこにあるんだ? ウォルマートか? コストコか?」
「通りを真っ直ぐに行った先だ。まぁ、五キロだか十キロだかはあったと思うが……」
「どういう大雑把な見立てなんだ? 五キロと十キロとでは、倍も違う」
「何、大差はないだろう」
「神の尺度で物を語らないでくれ」
「宇宙の尺度とは違うって?」
「そういう話じゃない」
テスカトリポカは、その存在してきた年月が人間とは比較にならないので、時間の感覚についてかなり尺度が違うのだろうとは思っているが、それ以外もかなり違う。そもそものスケールがまるで違うらしいのだ。
三マイルでも、六マイルでも、歩くのに支障がある訳ではない。確かにそうではあるのだが、案外自分だって、神様よりは人間らしいな、とデイビットは痛感するばかりである。
「でも、そんなに遠いなら、車を用意しておいてもらった方が良かったな」
「ああ、確かに。オマエのスリリングな運転はオレも好きだったさ、デイビット。また乗せてくれ」
「それは勿論構わないが」
「オレに権能が戻ったら、だな」
結局のところ、今は車がないので徒歩で行くしかない。
買い出し用の大きなバッグを持って、何マイルあるのか分からないスーパーマーケットを目指して二人は歩き出した。
時刻は朝九時。あまり遅いと、今日中にキャンプに出掛けるのは難しいかも知れない。何せ今のテスカトリポカは、このミクトランパの諸々を弄る術がないのだから。
サラサラと金髪が横で揺れている。よく見慣れた明るい色のサングラスを掛けた神様は、ミクトランパの太陽を仰ぎ見ていた。じわりと太陽の熱で身体が熱くなっていく。
「……暑いな」
「礼装の温度調節機能とやらも死んでいるからな」
「まぁ、常時快適な体温を保つような機能という訳でもないけどな。極端な温度を避けるだけで。おまえは?」
「暑い。だがオマエほどじゃあない。脱いだらどうだ、そんな野暮ったい服は。礼装として機能しないんだ、脱げばいい。好きな服を買ってやるよ。オレが見繕って――」
「いい」
「アァ? 何だって?」
「結構だと言っている。オレはコレでいい」
「デイビット、何を頑なになる必要がある? 確かに、いつものようにオマエの服を一瞬で取り換えてやることは今のオレには出来ん。が、服を買う施設くらいは多分ある。スーパーマーケットの近くにでもあるハズだ。そこで好きなのを選べばいいだろう。オレがイケてる服をオマエに見立ててやる」
「結構だ。オレは、コレでいいと言っているんだ」
「さっきから同じことしか言ってないぞ、オマエ?」
「逆に聞くが、何で着替えさせようとするんだ、おまえは」
テスカトリポカは、それがまるで初めて聞いた言葉であるかのように、サングラスの奥の瞳を丸くした。
「何で? 何でだって? そんな野暮ったい服を永遠に着ていたいのかよ、オマエ」
「人の服装に口を出さないでくれ」
「それがオマエのセンスなのか? オマエのファッションセンスってのなのか、デイビット?」
似たようなことをミクトランでも言われた、と眉間に皺を寄せてデイビットは思った。
以前、ペペロンチーノに「私が服を選んであげるわよ」と言われたことがあって丁重に断ったのだが、それはデイビットが友人のセンスを信頼していないからなどではない。デイビットはこの服に一切の不満がないのだ。
というか何なんだ一体、とデイビットは思う。この服は、宇宙的関与のある妙なものでも何でもなく、デイビットがただ自分で選んだだけだ。似合わないと鏡を見て思ったことはない。
腹部やらの防御のやたら弱そうな服を着ている神様の方が信じられない。何度見てもあんな薄着で密林を歩くなど、正気の沙汰とは思えなかったが、多分サーヴァントなのだから何らかの仕組みがあるのだろうと思ったし、気になってもこちらは一度もそんな指摘をしたことはないと言うのに。
「拗ねるなよ、デイビット」
デイビットが割とむすっとしていると、端整な顔が目の前に近づいてきた。くしゃりと右手がいつものようにデイビットの頭頂を撫ぜる。
「まぁ、そうだな。服のセンスをアレコレと言うのは、些か行儀が悪かっただろう。そういうのが気に入りなら、ま、それでもいいさ」
そう言って、テスカトリポカはデイビットの肩を抱いた。
神様だと言うのに、いつも距離が近いとデイビットは思う。いつもだ。いつもと同じなのに、触れられたところがじわりと熱いような気がする。
今までにそんなことを思ったことはなかった。礼装の機能が壊れている所為かも知れない――。或いは自分の感情が、機能の調節を上手に出来ていないからなのか。
分からないな、とデイビットは思った。やたらと距離の近い神というのは、闘争が好きだが、まずもって人間が好きなだけなのだろうと思う。そんな感想をいつも抱く。特定者への感情でないのだろうと言うことは理解しているつもりだ。
「今オレたちに大事なのはキャンプの買い出しだけさ。服は何だっていい」
「じゃあ、言うなよ」
「オマエが頑なに礼装を手放そうとしないのは、概ね利便性に因るものだろうと思っていたんでね。今日はいい機会じゃないかと思ったのさ」
「それもあるが、着慣れた物の方がいいんだ」
昨日着た服がなんだったか、なんて余計な記憶を増やさなくてもいいのは、デイビットには明確な利点だった。ここでは逆にそのメリットがなくなったのは事実だが。
心地良い風が頬を撫でる。ひゅうひゅうと、風の鳴く音が響いている。眩しい太陽を見上げて、結構歩いたな、とデイビットは思った。
「テスカトリポカ、スーパーマーケットは? まだなのか?」
「ある。この先には」
「いつか?」
「そう、いつかな」
「この果てに?」
「かも知れん」
何だかデイビットは、それを聞いて笑ってしまった。今日は知らない街の冒険でもしているかのようだ。
――楽しいな。
こうして彼の傍で過ごしているのは心地良くて、幸せだと思う。本当に、この日々を手放すのが惜しくなってしまう。
デイビットは、視線を前へと向ける。そうであって良い筈がない、と思った。
テスカトリポカがここへデイビットをいざなったのは、穏やかな幸せを享受させるためではない。次の戦いへ向けて休息させるためだ。このままでいるということは、彼の期待に応えることではない。次の戦場へと自分は向かわなければならない。
――戦場に、戻ろうと思う。ここを出たいんだ。
デイビットが、少し前にテスカトリポカにそう告げたのは、彼に相応しい戦士であろうとしたためだった。ここで勿体ないくらいの時間を過ごした自分の休息は、もう、十分だ。これ以上ここにいては、本当に帰り道を見失ってしまう。そうなることをデイビットは恐れていた。
だから――。
だが、テスカトリポカはそんなデイビットを引き留めた。『まだやることがあるだろう』と言って。
確かに、彼とやろうと話していたことがまだ残っていた。それらを消化するだけの時間は取ってもいいのではないかとデイビットも思った。
(――言い訳だな)
このままここにいてもいいのかも知れない、と、その時、少しだけデイビットも思ってしまったのだ。
例えばそれで自分の戦士性が摩耗していったとしても――、ここにいることくらいは許されるのかも、と。
いやそれではダメだな、と思う。そんな自分を、神はどう見るだろうか。ただ漫然と生きるような自分を――。それを良しとするなんてありえない。テスカトリポカが大事にしているのは戦士だ。彼の勇敢な戦士であるデイビットだ。だからその期待だけは裏切ることが出来ない。それは、自分の矜持だ。
それに、自分がここに留まることで、致命的なエラーを発生させてしまう可能性があるということにも考えが及んだ。むしろそれは、デイビットがどういう存在であるかということよりも、よっぽど深刻な問題かも知れない。
――ああ、やはりここを去らないと。
デイビットは、改めてそう思った。だからそのためにも、今日のキャンプも楽しんだ方がいい。たとえそれが自分の記憶からは消えるとしても、それが無駄ではないのだということを、今のデイビットは知っている。こうやってスーパーマーケットまで歩く道すら、大切な思い出になってくれるのだろう。
「デイビット、見えてきたぞ」
「本当だ。良かった、歩き続けることにならなくって」
様々なことを考えながら歩き続けて、テスカトリポカが指差した先に、ようやく看板が見付かった。
その看板の文字は、デイビットには明確に読めなかったが、ウォルマートかコストコか、はたまたトレジョのような、そんな感じのスーパーマーケットだ。
恐らくこれは、ステイツにある平均的なスーパーマーケットの総体とでも言うようなもので、特定のモデルはなく、地上とよく似通ってはいるが同じものではない、という不思議な形態をした――つまり、それらしい施設があるというだけなのだ。
そんな店の自動ドアが開くと、中はひんやりとした空気を漂わせていた。カートを引いて、無人の店内を二人は歩き出す。
「キャンプ場には何があるんだ? 焚火とか?」
「ま、そうだな。入口にあるのとは違うが」
「そうか。じゃあマシュマロを買って、スモアにするからビスケットとチョコレートも……」
「オイオイ、まずはメインじゃないのか?」
「もちろん肉もいる。ただ、どの程度の設備なのか分からないからな、判断を保留したんだ」
「通常のキャンプ場の設備だ。その程度は用意してある」
「じゃあ、電源なんかもあるんだな?」
デイビットは、キャンプへ行くということへのイメージを頭に浮かべた。デイビット自身はキャンプをしたことがない。父に連れて行ってもらったという事情もないので、イメージだ。
だが、標準的なキャンプというものがどういうものであるかは分かっている。大きい車でキャンプ場まで移動して、その中で過ごしたり、前にテントを張ったりしてもいい。それが一般的なキャンプだ。
デイビットは腕を組んだ。
「やっぱり、車……キャンピングカーが必要だったか?」
「寝泊りが出来るという車か。そういうのも悪くないな」
「荷物だって載せて行けた」
二人が見ていたsolo campingの動画は、日本で撮られた映像だったので、デイビットが今イメージしたようなキャンプとは違い、一人で荷物を持ってキャンプ地へと徒歩で向かい、テントを張っていた。その動画の影響を受けて、目的地まではまず車で動くということを考えていなかったが、普通、キャンプをすると言えば、荷物も多いし、車で向かうものだっただろう。
「残念だったな、デイビット。そういうオプションサービスがない状態で」
「……いや、まぁ、いいんだが」
しかし、今、車が瞬時に目の前に現れることはない。
ほんの一週間をここで過ごしたくらいだと言うのに、それを不便だと感じることにデイビットは驚いた。頼んだら何でも用立ててくれる全能神との生活にすっかり慣れてしまっている。
それが普通である筈もないのに、人間の身体というものは、便利さに慣れてしまうと元に戻るのが難しくなるらしい。
これは困ったことだとデイビットはため息を吐いた。
「さて、デイビット、肉は何がいい? バーベキューのようにちゃんとした物を作るワケではないのだろうが」
「ああ、そうだな。ハンバーガーかホットドッグ……」
「またそれか」
「ブリトーなんかでもいい。ああ、ならフィリーチーズステーキでも作ろうか? うん、それならいいかもな」
「ほう。どういうのだ、それは?」
「パンに焼いた牛肉とチーズを挟んだサンドイッチだ」
「それだけ?」
「ああ、シンプルだろう? 焚火で作れば、チーズが蕩けて熱いまま食えるんだ」
テスカトリポカは、なるほどと頷いた。
「そりゃ美味そうだ」
「じゃあフィリーチーズステーキでいいな。肉を買おう」
キャンプのメニューはそれに決まったので、デイビットはサンドイッチに挟む薄切り肉をカートに入れた。
スーパーマーケットには普通に食材が置かれているが、人はいない。店員も客もいないのに奇妙な空間だ。
「コーンとかもいいかもな。朝食はパンケーキを作るとか」
「ほーう」
頷いてはいるが、テスカトリポカはキャンプ用の食材の調達には興味がないようだった。カラフルなお菓子を見付けて、コイツは食えるのか? とカートに投げ入れるくらいだ。
「オイ、不要なものを買ってどうするんだ。持ってけないぞ」
「家に置いときゃいいだろ。菓子は持ってってもいいが」
「お菓子なら、マシュマロとビスケットは……」
「オマエも好きだな」
「あ」
ドーナツを見かけて思わずデイビットが足を止めると、テスカトリポカはにやりと笑った。デイビットは視線をドーナツから逸らした。
「どうした? 買っていけばいいだろう、オマエの好物の、甘い甘いドーナツだ」
「だから好物じゃない。ただ、最近食べてないから」
「ソイツは悪かった。アイスクリームだけでなく、コーヒーのお供にはドーナツが必要だったか、デイビット?」
デイビットは、まぁ、と呟いた。苦いコーヒーと甘いドーナツの組み合わせを嫌いな人などいるだろうか。あの食べ慣れたダンキンドーナツの味が少しだけ恋しいのもまた事実だ。
テスカトリポカが楽しそうに、にやにやと笑っているので、デイビットは何だかバツが悪かった。
「出掛ける前に食えばいいだろう。今日はこれから、山道を歩くんだからな」
ほら、と半ダースの箱を取り上げてテスカトリポカはカートに躊躇なく入れた。それを見たデイビットが少し考えて、アップルサイダーの方がいいと言うと、テスカトリポカは笑った。
「両方買っておけ。甘い物は、ご褒美にぴったりだからな」
箱をカートに投げ入れて、テスカトリポカはデイビットの頭を撫でた。この神は本当に距離が近いな、とデイビットは再度思う。内心では困ったようなため息が零れた。
「それで、他には?」
「……アモロソのロール」
「サンドイッチ用のパンか。なるほどな。コーラは?」
「ああ、それもいる。それから、チーズ、或いはチーズウィズと、マヨネーズは家にあったかな……パンケーキを作るならパンケーキミックス、水だけで作れるのがいい」
「OK, OK.」
ぐるりと店内を周りながら、食材をひとつずつカートに入れていく。さほど時間も掛からずにスーパーマーケットの周遊は終わった。
二人はチェックアウトに向かったが、そこに店員がいる訳ではないので、ただ素通りをして、カートの中の商品をバッグに詰め込むだけだ。
「コーラ、アップルサイダー、ミルク、チーズ、バナナ……テスカトリポカ、何を入れてるんだ、コレは」
「気になった物を詰め込んだだけだ。冷蔵庫に入れておけ」
「重そうだ……」
「なぁに、コレもまた試練さ」
「おまえ、いつもそう言って誤魔化すだろう」
「全部一人で持てとは言わん。オレも受け持とう」
「そういう話じゃない」
ひょいと様々な重い水物を入れたバッグを掴んだテスカトリポカは、軽々とそれを持ち上げて、スーパーマーケットを出て行った。権能にエラーがあるとは言え、テスカトリポカの身体は、ミクトランでそうであったようなサーヴァントとしての強靭さを維持していることに変わりはないらしい。重さを感じていないようだった。
デイビットも筋力はあるつもりだが、流石にそれは人間の規格から外れていない。あの重さを抱えて何マイルも歩きたい、とは思わないのだった。別段、筋力トレーニングが好きなのでも何でもないからだ。
ずしりと重いもう一つのバッグを手に、デイビットも外へ出た。空は快晴で、キャンプ日和だ。目を細めて太陽を見ていると、テスカトリポカはタバコに火を付けていた。
「眩しいか? サングラスを持ってくりゃ良かっただろう」
「そうだったかもな。まぁ、別に平気だ」
「オレが作ってやったんだから、ちゃんと使っておけよ」
フゥと煙が棚引いた。デイビットは、先日テスカトリポカにサングラスを作ってもらった。それを掛けてトレッキングをしている内に、テスカトリポカが川に落ちて、デイビットも、彼に引き摺られて川に落下させられた。まるっきり人間みたいな幼いアクシデントだ。濡れたまま二人で笑った。太陽からの光が、金色の髪と水飛沫をきらきらと輝かせていた。
あの陽光が煌めく瞬間を、デイビットは憶えている。心に刻んでいる。それは幾つかある、いや――、幾らでもここで見つけた、忘れたくない瞬間の一つだ。
その時にサングラスはどちらも川に落ちて、今ではもう、どちらがテスカトリポカのサングラスで、どちらが、自分が作ってもらったサングラスなのか分からなくなってしまった。
あの日も今も、金色の髪は太陽を浴びていつも輝いている。そんなことを、何となくデイビットは思った。それは永遠に忘れないだろう記憶の中の最大の輝きだ。
テスカトリポカが一服終えてから、二人は帰路に就いた。
彼は持ち方に気を配らないので、瓶がぶつかるような音が何度もして、中身が壊れるんじゃないだろうかとデイビットは些か心配になった。柔らかいブレッドだけでも自分のバッグに入れておいて良かった、と思う。
「瓶を割るなよ」
「まるで子供のお使いへの忠告だなァ、デイビット。こんなもの、割れたって、別に」
「問題あるだろ。おまえ、今戻せないんだから」
「……そういや、そうだったな」
「おまえも変わらないな、異聞帯の時と」
ミクトランで、テスカトリポカとデイビットが過ごすようになった最初の頃、テスカトリポカは、自分が疑似サーヴァントであることや、自在に権能を扱えないということに順応出来ておらず、うっかり武器を破壊して困るというようなアクシデントを頻繁に起こしていた。
ああ、勝手が違うのか、と何度もぼやいていたし、力の加減が出来ずにディノスとやりあった所為で、テスカトリポカのボディの方が膂力に対応できず、腕が一本使えなくなりそうだったところを、デイビットが魔力を供給することで誤魔化すように治す、などということもあった。
デイビットも荷物を持っている右手を見て、自分が魔術を行使できないこと、そして、礼装の機能も停止しているのだということを、また考えた。ここでは宇宙の外側にも繋がらない。まるでただの人間になってしまったようだ。
(ただの、人間……)
自分を人間だとデイビットは考えている。
そうである筈だ、というこの認識は、亡くなった父や、喪われた彼に対しての敬意のようなものに近い。
(……多分)
畢竟そうなのではないだろうか。
考古学者になりたいだとか、フィールドワークを行いたいだとか、そういう諸々は皆、かつてへの弔辞くらいのものであって、今のデイビットがそうありたいと願うものではないのかも知れない。考えても詮無きことではある。その答えは誰からも得られないのだから。
テスカトリポカは手元の袋からアップルサイダーを取り出して一口飲むと、デイビットにも手渡した。暑いからオレにも配慮したのか? とデイビットは考えながら受け取った。
「冷たくて、美味しい」
「ま、今日は暑いからな」
「ああ。コートを脱いできて良かった」
「……デイビット、やっぱりたまには服を変えてみてもいいんじゃないか、とオレは思うワケだが」
テスカトリポカは腕を伸ばして、デイビットの髪に触れた。デイビットは瞬きをする。
「眠る時だって別の服を着る。オマエも、他のを一切着たくないってワケじゃないだろう? どんな服でも似合うと、オレは思うが」
「まさか全能神にそこまで言ってもらえるとはな」
率直に、デイビットは驚いた。たまに、顔が整っているだとか、テスカトリポカが自分に対して言っていたらしいが、あまりよく聞いていなかったのだ。
「そうだな。機会があれば」
(機会が……)
まだ引き延ばせると思っているのか、とデイビットは思う。いや、多分、その機会が訪れることは永遠にないのだ。そう、だから――頷いても何も変わらないとデイビットは思った。
こうして並んでテスカトリポカと歩く機会があとどれだけあるだろうか。本当は、ただ、このままこうしていたいだけなのだと思う。どこまでも果てしなく続く道を歩いて、歩いて、歩いて……その隣に、いつも、彼がいてくれたらいいのに、と思う。人の身には、不釣り合いな願いだ。
二人が家に戻り、冷蔵庫に食材を詰め込んだ頃には、もう午前中が終わっていた。
買ってきたアップルサイダーのドーナツを食べながら、二人は今後の予定を決めた。今夜はテントで寝泊まりして、朝になればテスカトリポカの権能は戻っているだろうから、そうしたら帰りは車を使って戻ってもいいし、同じように歩いて帰ってもいいし、適宜やろうということで話はすぐに纏まった。
遅くならない内に出たかったので、決まってすぐに、キャンピングギアを持って、二人は再び家を出た。
「で、ここからどのくらい歩くんだ?」
「そうだな、ま、十キロか或いは」
「二十キロ?」
「五十キロかも知れん」
「だから、大雑把過ぎる。それに五十キロって……何時間掛かると思ってるんだ」
「オマエのフィールドワークだって、いつも遠くまで行っていただろう?」
「オレは時間管理をちゃんと行ってやっていた。夜になれば危ないし、闇雲に歩いてる訳じゃない」
「いいだろうが、どこまでだって歩けば」
やっぱり時間の感覚に問題があるんだ、とデイビットはため息を吐く。神にそれを説いても仕方がないのは分かっていた。神からすれば、一時間も、一日も、一か月も、一年も、いや、人の一生くらいも――、他愛ない時間に過ぎないのだろう。
だから、まるで無限に付き合わせたって平気なようにいつも言うのだ。まるで、いつまででもここにデイビットが存在しているかのように。
「五十はないさ。ま、十以上はあったかも知れん」
「そうか。急ごう。日が暮れる前にテントを張りたい」
「了解だ。よし行くぞ、デイビット」
太陽はまだ天頂にある。
ミクトランパの時間の間隔は、地球と同じ程度に設定されているのだと神は言う。朝が来て夜が来て一日が切り替わるようになっている。その夜が訪れる前にはキャンプの準備を済ませておきたいとデイビットは考えていた。
平坦な道をひたすら歩いていくと、一時間ほどで山道の入口のような場所に出た。ここが? と、デイビットが無言で聞くと、思っていたより近かったな、とテスカトリポカは答えた。スーパーマーケットよりもよっぽど近い。
「ここから歩いて山中にあるキャンプ場とやらに行くワケだ」
「なるほど、分かった」
山登りをするような高い山ではなく、国立公園のような広い敷地が広がっているように見える。以前、トレッキングをした時と同じような雰囲気だが、ロケーションは違うのだろう。
デイビットは深く息を吸い込んだ。高い山ではないし、高地まで歩いてきたつもりもないのに、どこか冷涼な空気が肺に入り込んでくるので、夜間は冷えるのかも知れない。シュラフも毛布も用意しているが、夜は、持ってきたチョコレートを溶かしてホットチョコレートでも飲みたくなる寒さだろうか。焚火でマシュマロを焼くのにも合う気温だろう。
「ま、ここから先は、今度こそ、そう長くもないとオレも記憶している。行くぞ、デイビット」
ぽんぽんと、デイビットの頭をテスカトリポカは軽く叩いて笑った。いつもと変わらない。彼は優しい神様という存在とは違うと知っているのに、ごく普通の、優しくて頼れる相棒のように、デイビットの目にはいつも映っていた。
山道は車が通れる程度には舗装されていながらも、やけにうねっていた。それでも道の傾斜自体は緩いと思っていたが、歩き続けて一時間も経つ頃には、すっかり崖下が見えないくらいの高さに自分たちが立っていることに気が付いて、デイビットは驚いた。
「こんなに登ってきたのか?」
「どうだったかね。気付けば山頂付近くらいになるように設定しておいたかも知れん。ほら、上からの景色は山登りの醍醐味とか言うだろう」
「相変わらず無茶苦茶な……山登りに来た訳じゃないのに」
ここから落下したら流石に危険だと感じる高さだ。デイビットがそれで足を竦ませることはまるでないが、そこまで高地でキャンプするつもりではなかったので、単純に驚いた。
「だが、眺めはいいだろう?」
「そうだな。ああ、いい場所だ」
その道を登れば登るほど太陽に近づき、じりじりと頭上を焦がしていく。だが、更に歩いていくと、段々、吹く風にどこか冷気が含まれ始めてきたような、そんなひやりとした感触を、デイビットは頬に受けた。ここがどこだがやはり知れないが、高地であればそもそも普段より寒いのも道理だし、少々寒いようだと肌でも感じた。
そのうち今度は傾斜を登るような道ではなく、平坦な場所に辿り着いて、そこを少し歩くと、開けた場所に出た。その中心地辺りには、焚火台やバーベキューグリルが置かれている。
「キャンプ場というのは、ここみたいだな」
「そうらしい。どうだ、広くて良さそうだろう?」
「広すぎて落ち着かないくらいだな。オレたちだけなのに」
その光景にデイビットは肩を竦めた。キャンプ場に人が一人もおらず、完全に自分たちしかいないなんて、あり得ない事態なのではないだろうか。本来このような光景は、オフシーズンでもそうは見られない筈だ。
ともあれ、焚火台の付近に、デイビットは担いできた荷物を下ろして、空を見上げた。ここでも夜になれば満天の星空が見られるのかも知れない。高地になったのがテスカトリポカの気まぐれだとしても、空が近い方が星はよく見えるだろう。デイビットは手を軽く翳して空を眺めながら思った。
「テスカトリポカ、蛇口は? 水はどうするんだ?」
「何だ、不足でもあったか? あっちに川でもあるだろう」
「……汲んでくるか……」
テスカトリポカが、異聞帯のインドで腹を下した例ではないが、知らない地点の川の水が飲用水としてのレベルに達しているかどうかは、目視だけでは分からない。デイビットは普段であれば、まず飲用水は準備しておくし、最低でも魔術を通して人体への影響の有無を確かめるか、持ち込んだ器具で濾過してから飲む。
魔術の行使もそういった器具の利用も不可能な今、川の水は本来であれば、積極的に口にしたいものではないのだが、水がないのであれば川から汲むしかない。
己の準備不足にデイビットは首を振った。普段なら当然、予測して準備している。ただ、ここではテスカトリポカがいるので――大抵のことはどうにでもなってしまうのだ。水がなければエビアンでも出してくれるか、或いは蛇口が生えてくる、くらいのことはあっただろう。キャンプ場なら蛇口が併設されている方が普通だと考えるので、いずれにしても水までは準備しなかったのだろうが。
「確かに、今は色々と必要か。なるほど、なるほど……。やはり、初めてオマエに会った頃のようだな」
ここに来るまでに飲み干して空になっている水筒を摘まみ上げると、テスカトリポカは唇の端を釣り上げた。それは一年前の記憶であり、デイビットにとっては、ほんの一日程度の記憶の回顧だ。ほんの僅かな記憶。でも、懐かしいと思う。
「……ああ、そうだな」
「ま、先に拠点を作ったらどうだ? 暗くなると作業がしにくくなるんだろう?」
「そうだな、まずは、それを済ませてからにしようか」
デイビットは頷いて、テントを張るためにこの地点のロケーションのチェックを始めたが、周りに木が生い茂る広い空間なので、どこでも平気そうだ。突風が吹くと危ないので、出来るだけ木陰に寄せるような場所を選んだだけだった。
デイビットは荷物から緑と黄色のテントの入っているバッグを取り出す。中にはペグ、ロープ、シート、ハンマーと、テントを設置する道具が一通り揃っている。
選んだポイントで、まずはインナーテントを広げた。
「それじゃあ、ポールを通すから、おまえは向こう側に行ってくれ」
「オレが?」
「一人でも出来るが、二人でやった方が早いんだ。そういうのが、今回のキャンプの楽しみ方なんだろう?」
デイビットの言葉に、テスカトリポカは、なるほど、とまた頷いた。
「共同作業か。たまには、そういうのも悪くないだろう」
「納得してくれて何よりだ」
テスカトリポカはデイビットとは逆サイドにしゃがんで、テントを摘まんで眺めた。
「しかし、野営に便利だな、こういう機能性の高いテントは。雨風だって十分凌げる。現代は何だって、こうも便利に進化しているものだ」
「趣味の道具だが、運びやすさと強度が兼ね備えられているから便利だな。そっちにポールを通してくれ」
「こうだな。で、もう片方も」
「そう。クロスさせてからエンドピンに差し込んで……よし、これでいいな。後はフックをポールに引っ掛けてくれ」
テントは、上部にポールを通してそれを四隅で固定したことでピンと立ち上がり、それらしい形が出来上がっている。テント本体に付いているフックをポールに引っ掛けて固定すれば、内部テントは完成だ。
「もう完成か。早いな」
「まだ完成じゃない。フライシートを張るからな」
「フライシート?」
「テントの上に張るんだ。テントだけでも雨風を凌げなくはないが、こっちの方が防水加工がしっかりとされているし、寒さ対策にもなる」
デイビットはフライシート用のポールを設置してから、ペグでテントを固定した。フライシートにもポールを通してからテントの上に覆い被せて固定していく。
テスカトリポカは、段々とこちらを見ているだけになり「手際がいいな」とタバコに火を付けながら言った。
「フィールドワークをしていれば、嫌でもこういう作業は出来るようになる。火だって、木の枝で起こせる」
「そういうものか」
「ああ。それに、どこでも寝られるしな」
「良いことだ。そういうのは戦士にとって重要な資質だ。どこでも寝られる、何でも食える」
デイビットは組み立てながら頷いた。どこでもや、何でもなんて言うのは、デイビットの感情が殆どないから何とも思わない、という程度の理由でしかないが――テスカトリポカが言うように、戦い・戦争には向いた資質なのだろうと思う。その性質は、恐らくデイビットが柔らかな布団や甘いお菓子に慣れたとしても変わらない。ただ、それを、テスカトリポカが良いと言ってくれるのなら悪くはないとデイビットは考えた。
フライシートの固定が終わり、テントの下に厚みのあるシートを敷いたが、それでも寝るには少し固そうだなとデイビットは思った。やはり寝る時にはスリーピングバッグがある方がいいだろう。
これでようやくテントが完成したので、デイビットは背負ってきた荷物をテントの内部に移動させた。
「テントはこれでいいだろう」
「そういやキャンプファイヤーをするんだろう? 薪は切らなくていいのか?」
「その用途に使えるナイフがない。持ってきたのは食材を切るナイフだけだ」
「ンなもん用意すれば……」
いつものように言って、テスカトリポカは付けていたタバコの火を消した。ため息の代わりのように。
「分かったか?」
「ハァ、オレの銃を持ってくりゃ良かったな」
「そもそもアレは斧にして使うものなのか? 斧としても使いにくいようにしか見えないんだが、バレルでも掴んで振り回してるのか?」
「いいだろうが、多用途で使えて。柄がパイプになってるトマホークだってあるんだ」
「パイプも使いにくそうだが、銃よりはまともに見える」
テスカトリポカは首を横に振ったが、アレを斧として扱えるのは、単に怪力でねじ伏せているからであって、殆ど武器としての用を為してもいないようにデイビットには見える。
使いにくい斧を組み合わせたことで的に当たりにくいことこの上ない銃が出来上がっているのだから、テスカトリポカがいくら訓練しても的に当たる確率が上がらないのも当然だ。あれでもまだ昔よりは的中率が上がっているのだ。ミクトランでデイビットも何度か訓練に付き合ったので、憶えている。
「火を付けるのに使う薪は多少持ってきてるんだ。調理をする時にはそちらを使おう。普通のキャンプをする場合、こういう準備を怠ると困るからな」
「全能神とのキャンプでない場合?」
「そういうことだ。水に関しては、流石にオレも抜かったけどな。今度こそ汲みに行こうか。川はどの辺にあるんだ?」
「知らん。オレも細かい地形まで考えたことはないからな。ああ、野生動物とかも配置したかも知れん。リスだの、モモンガだの、ウサギだの」
「小型動物ばかりだな」
「ライオンの方が良かったって? それともトラか?」
「確かにそういう動物がいても困る」
「ああ、鳥も鳴いてるんじゃないか? ま、小動物は水音にゃ敏感だろうさ。探してみるぞ、デイビット」
「分かった」
二人はテントを張った裏手の森に足を踏み入れた。そこは、キャンプ場のロケーションらしく、背の高い木々の合間を、明るく木漏れ日が差し込んでいる。
長閑な場所だとデイビットは感じた。間違っても、ミクトランの森のような、異様なサイズの木がにょきにょきと生え、更に鬱蒼と生い茂っているというような場所ではない。
そんな木の間を動く黒い影を見て、デイビットは指差した。
「テスカトリポカ、リスじゃないか?」
「ああ、早速いたか。すばしっこいな」
「リスが向かう先が川辺ならいいんだが」
足元にドングリが落ちていたので拾い上げると、どこからかリスがやってきて、ぴょんとデイビットの肩に乗った。
「懐っこいな」
「人間に怯えないような小動物をイメージしたからな」
「そういう指向性が?」
「なくはない。が、完全にそうしているワケでもない。そのリスはオマエを気に入ったんだろう」
テスカトリポカがリスに手を伸ばすと、リスは尻尾を立ててデイビットの首の裏から逆の肩にぴょこんと逃げた。思わずデイビットはくすりと笑う。
以前にも釣りをしていて、テスカトリポカの竿にだけ一向に魚が掛からないのを見て、もしかすると、ジャガーだから魚に避けられているんじゃないか、と思ったのだ。
「また逃げられてる」
「だから、オレは取って食わんと言っているんだが、動物ってのは聞く耳を持たん」
「ジャガーの神様でも?」
「ジャガーの神ではない。ジャガーは象徴だ」
テスカトリポカは伸ばした右手をひらひらと払った。
「オマエに懐いたんだろうよ」
「エサをくれると思ったからだろう? それか、人じゃなくて木のようだと思ったのかも知れないよ、オレのことを」
「ソイツはいつもの自虐か、デイビット? 朝も言ったような気がするが、今のオマエはただの人間に過ぎんぞ」
「そんなことは感覚として分からない。オレにも、リスにも」
デイビットは軽く首を振って、持っていたドングリをリスに渡してやった。リスは喜んで肩の上でドングリを齧っている。
「道案内してもらおうか。川はどこにあるか分かるか?」
リスは少し顔を上げて、デイビットが何か言葉を発したのを聞いてくれたようだが、すぐにドングリの殻を剥くのに戻ってしまった。
「オマエ、動物と話せるのか?」
「まさか。そういうのは、神の方が近い領域なんじゃないのか?」
「オレはわざわざ話はしないが、そういうのが出来るのってのなら、まぁ、いるんだろうな」
「おまえもドングリを食い終わったらでいいよ。多分、水が飲みたくなるだろうから」
デイビットがリスの小さな頭を指先で撫でると、リスはかぷりと指先を軽く噛んだ。怒っている様子もないし、じゃれついているだけ、甘噛みだとデイビットは指先を離して考えた。
じっとその様子を見るテスカトリポカの視線を感じて、デイビットは横を見た。
「どうかしたか?」
「そうやってると、オマエもディズニープリンセス的だな、と思ってね」
「ハ?」
「知らんのか? ディズニーってのは、アニメーション映画を配給する会社としては有名だろう?」
「いや、知ってるが、観たことはない。そうではなく、何が、何だって?」
「動物に好かれて周りに寄ってくるモノのことをそう言うんだろう?」
「このリスだけだ。あと、コイツがやけに人懐っこいからで、おまえを避けたのはおまえがジャガーだからだろ?」
「ジャガーではない。オレは蛇の方だといつも言っている」
「蛇でもリスにとっては捕食者だ。プリンセスも何もない」
「強情だな。褒めただけだろう?」
「どの辺が? オレは動物になんか好かれない」
デイビットはため息を吐いた。リスはドングリの中身をようやく食べている。食べ終わるのを待って、デイビットが肩から下ろしてやると、リスは素早い動きで木に登っていった。
「ほら、付いていってみよう」
「リスが案内、ねぇ」
「動物を侮るなよ。彼らは時として人間より義理堅いんだ」
「そりゃ深い話だ。やはりプリンセス様は、動物への考えが一味違うらしい」
言っても無駄そうなので、デイビットは、その言葉にはもうツッコミを入れないことにした。
デイビットは決して与太話としてそういうことを言ったつもりではないが、リスが自分を案内してくれると信じている訳でもなかった。小さくてすばしっこいので、途中で見失うだろうと思ったし、それでも、当て所なく歩くよりは、小動物を追って、そのどこかで水源が分かれば良いと思っていただけだ。
その予想に反して、二人が見失っても、リスはまたひょっこりと顔を出してくれたので、追っていた二人は驚いて顔を見合わせた。本当に川に案内してくれるのかも知れない。
「しかし、テントから結構遠いな。道は覚えたから、帰り道で迷うこともないだろうが」
「帰り道もリスに着いていくってのはどうだ?」
「それはおまえから頼んでくれ」
「リスに神が頭を下げろって? 冗談だろう?」
「シッ。テスカトリポカ、静かに。水音が聞こえる」
リスに付いて歩いた先には、綺麗な川があった。陽光もきらりと差し込んでいて、穏やかで、いい水源に見える。リスが本当に案内してくれたのか、単に水場を探していただけなのか、それともただの偶然なのかは分からないが、少なくともリスの手柄だと言ってやってもいいかも知れない。
デイビットは水を掌で掬い、匂いを嗅いでみた。臭気に異常はない。無色透明で、濁りもない。
「汚染されている様子はないな。一口飲んでみよう」
「待て、デイビット。オマエ、その身体が普通の人間のようになっていると言ったのを忘れたのか。体調に異常があったらどうする」
「そう言われても、水質検査キットは持っていない。こないだ釣りをした時だって、水は綺麗だったし……」
「オレの身体は、厳密にそうではないが、少なくともサーヴァントレベルの肉体ではある。飲料水の確認はオレがやろう」
「おまえだって腹は下すだろう?」
「アレはヤマを食ったからだ。水の汚染程度で下すようなものではない。それともオマエの身体は毒にも耐えられるって?」
一見して綺麗な水ではあるが、病原菌がないとは言い切れない、というのは、あちこちを歩き回ってきたデイビットもよく分かっている。
デイビットは確かに頑丈ではあるが、完全に人並を外れた身体ではない。デイビットの身体組織は人間そのもので、宇宙の彼方の力は敵対生物への防御はするが、水の汚染や毒による身体汚染までは、一々対応してくれない。だから、水質には気を付けていた。
一人きりであれば、それでも飲料水の確保が必要なら躊躇いなく水を飲むだろうが、テスカトリポカがやってくれると言うのに、わざわざ自分が飲む必要もなさそうだった。
「なら、おまえに頼む」
「任せておけ」
テスカトリポカはデイビットの手を掴んで、その掌に掬っていた水を自分の喉に流し込んだ。ぺろりと舌が掌を舐める。
「!」
デイビットは急な行動に驚いて目を丸くした。テスカトリポカは平然としていて、デイビットの手を放すと、舌で唇を舐めている。
「問題ないな。どうした、デイビット?」
テスカトリポカは人間が好きな方の神様だ。本人はそうであるとは微塵も言わないが、恐らくそうなのだろうとデイビットはよく感じている。人の文化、流行、礼儀、色々なものを汲もうとしてくれる。
「……いや……」
つまり、こういうやけに近い距離感になるのも当然――か、どうかは分からないが、少なくとも普通のことらしい。
かなり何度も念入りにデイビットはそう思ってきたが、今でも驚くことがある。そして、それに戸惑うこともある。いっそ自分がまるで感情のないモノだったら楽だっただろうに、と掌を見てデイビットは思った。これが本当に感情というものであるのかも、あやふやな癖に。
そういった懊悩は、デイビットの表情には出てこなかった。デイビットは、あまり気にしないようにと首を軽く振る。
「いや。問題がないなら、汲んで帰ろう」
「しかし小さい水筒だな」
「これしか用意がない。足りなくなったらまた取りに来よう」
おまえがまた案内してくれるのか、とデイビットは、自分の肩に飛び乗ったリスに言ってみたが、リスはドングリの殻を零しながら中身を食べているだけだった。勿論、道順は頭に入れているので、もう案内は必要ない。ただのジョークだ。
降りたそうにしたら降ろせばいいか、とデイビットは肩の上をそのままにしておいた。二人は来た道を歩いて戻っていく。リスはやはり肩の上で揺れているだけで、道案内をしてくれることはなかった。
テントに戻った頃には、少しずつ太陽が沈みつつあったが、まだ暗くなるには遠い時間だ。
「小腹が空いてきたし、何か作るか。ああ、おまえも何か食うか? リスのエサは……リンゴなら食べるかな」
「リンゴか。そんなものを持ってきていたのか?」
「They say an apple a day keeps the doctor away.」
テスカトリポカは、へえ、と言ってリンゴをひと口齧った。いつの間に取り出してきたのだろうか。
デイビットもリンゴを取り出して、折り畳みナイフで小さく切ってリスに与えてやった。リスはしゃりしゃりとリンゴを食べると、もっと欲しいと言うように、デイビットの指を齧る。
「食べ過ぎるなよ。どこかの神のように、腹を下すことになるかも知れない」
「オイ、擦るのはやめろ」
リスは頬袋いっぱいにリンゴを詰め込んでいた。巣に持ち帰るつもりらしいなと観測していると、ぴょんと肩から跳ねるようにして降りたので、「またな」とデイビットは見送った。
「それじゃあオレたちも何か食べよう。夕食には早いから、簡単なものでいいな」
「そうだな。知っているか? 日本じゃ、このくらいの時間をおやつの時間とか言ってるらしい」
「そうなのか。なら、おやつの時間にしよう。パンケーキミックスを持ってきたし、パンケーキを作ろうか。リンゴも一緒に食べよう。キャラメルソースがあれば良かったな」
デイビットはちらりとテスカトリポカを見た。今はそういうチカラのない全能神は、首を横に振る。
「オマエも案外ワガママな男だな、デイビット」
「それは、言われたことはないな」
「ダディにも? ま、オマエはさぞ、いい子だっただろうよ」
ぽすんとテスカトリポカはデイビットの頭に手を置いた。
それも、言われたことはない。父の言葉は印象的なものを残して、あまり憶えていないのだ。その掌の大きさや温かさだって、憶えていない。憶えているのは、この手の温かさばかり。テスカトリポカがあまりにもよくそうするので、そればかりを覚えてしまった。デイビットは、自分がそうされることにすっかり慣れてしまっていることを自覚する。
デイビットは椅子を二脚と折り畳みテーブルを立てて、その上にパンケーキミックスやスキレット、クッカーを準備した。
パンケーキミックスを水と混ぜて、焚き火台に火を付ける。スキレットが温まるのを待っている間にリンゴの皮を剥いて、薄く切って並べた。
「手際がいいな、デイビット。料理も慣れてきたか?」
「パンケーキくらいで言うことでもないと思うが。まぁ、そうだな。自分で食べるくらいなら」
テスカトリポカは椅子に座って、足を組んで見ているばかりだ。調理に慣れてきたデイビットとは異なり、勿論全能神は、普段料理をするようなことはなく、手伝うこともないし、デイビットの調理も、いつも後方で見ているだけだ。
デイビットが黙々と作業をしていると、テスカトリポカはタバコに火を付けていた。いつものように白い煙が棚引く。何となくデイビットは、ノスタルジックな気持ちとはこういうものかも知れない、と思った。それほど記憶にこの白い影があるという訳でもないのに。感傷を呼び起こすその理由が煙にあるのか、それとも隣の男にあるのか、よく分からないままだ。
バターの欠片をよく温まったスキレットに乗せてぐるりと満遍なく伸ばし、そこに生地を流し込む。
火加減と焼き過ぎに気を付けて片面を焼いたところで、フライ返しで軽く持ち上げて確認して、デイビットはスキレットを勢いよく振った。くるりとパンケーキがひっくり返って着地する。見ていたテスカトリポカは、ヒュウと口笛を鳴らした。
「上手いもんだな」
「見様見真似だ」
「オマエは何でもすぐに真似出来るな、デイビット」
ワハハと笑って、テスカトリポカはデイビットの頭をくしゃくしゃと撫ぜた。やはり、そういうことをするのが、テスカトリポカはかなり気に入っているのだ。
ひっくり返したパンケーキの裏面が焼けたのを確認して、デイビットは紙皿に移した。ん、とテスカトリポカに皿を渡す。
「先に食うなよ」
「分かってるさ。お行儀よく、な」
「リンゴなら食べてもいいけど」
テーブルに置いてある皿に、薄く切ったリンゴを並べながらデイビットは言ったが、テスカトリポカはそれには手を伸ばさなかった。さっきのリンゴもひと口齧っただけで、テーブルの隅に置かれている。
「コーヒーもまだだったな。お湯も沸かそう」
「やることが多いな」
テスカトリポカはまた煙を吐き出していた。青い空に白煙が立ち昇っていく。
もう一枚を焼き終えたので、軽くバターでソテーしたリンゴを上に乗せた。パンケーキはこれで完成だ。
洗ったクッカーで湯を沸かしながら、二人はおやつの時間をスタートさせた。
「随分と、キャンプらしくなってきたじゃないか」
「そうだな。天気もいいし、空気も澄んでいて……」
デイビットが空を仰ぐと、微かな影が視界の端を横切った。それはわさわさと動いて、デイビットの肩にパッと飛び乗ってくる。あのリスだ。デイビットは彼の模様も憶えていた。
「おまえ、また来たのか」
「本当に懐かれたらしいな、デイビット」
「本気か? おまえにはオレがどう見えてるんだ」
「人間だろ、普通のな。いい匂いでもしてるかも知れんぞ」
「リンゴとシナモンの匂いのことか?」
急にテスカトリポカがデイビットの首筋に鼻を近付けてきたので、デイビットはギョッとした。
本当に毎度毎度、とにかく異常に距離が近い神だと思うのだが、人間同士の適当な距離感もよく知らないでいるデイビットがそれについて神に意見を述べることは非常に困難だった。精々、ペペロンチーノも割と距離は近い方だったがこれほどではなかっただろうな、と思うくらいだ。
近付かれた時に顔の前では金色の髪がさらりと揺れて、そこからはまた、微かに煙の匂いがした。
「ま、確かに今はパンケーキの匂いだな」
「……いいから、食うぞ」
リスは鼻先を近付けるテスカトリポカを避けるように、デイビットの膝の上に飛び乗った。そこからテーブルによじ登り、どうやらデイビットのパンケーキに乗っているリンゴに目を付けたらしく、デイビットの皿に近づいてくる。
テスカトリポカはリスを払い除けるように手を振った。
「人の物に手を出すな」
「いいだろう、パンケーキのリンゴくらい、別に」
「デイビット。やらせておくと付け上がるぞ、こういうのは」
デイビットは、自分が創った生物なんじゃないのか、と思わず肩を竦めた。
「おまえには後でまたリンゴを切ってやるよ。さっき頬袋に入れていたのはもう巣に持ち帰って、またオレに強請りにきたのか? 賢いな。いい判断だ」
リスはフォークを持つデイビットの手に近づいてきたと思うと、ちょんちょんとつついてきた。少々くすぐったいなと思っていると、テスカトリポカがむんずとリスを捕まえた。
「オイ、さっきから邪魔をするな」
「テスカトリポカ、小動物相手に威嚇するな。怯えて可哀想だろう。おまえにちょっかい出したんじゃないんだから」
首根っこを掴まれて、じたばたとしていたリスが上から落とされたので、デイビットは掌で受け止めた。
「可愛いものだろう?」
「オマエにもそういう感性があるとはね」
「おまえくらいにはある」
テスカトリポカは肩を上げた。テスカトリポカの場合、小動物も人間も、さほど変わらないのかも知れないが。
リスはぴょこぴょこと跳ねるようにデイビットの肩を登り、その上に留まった。
デイビットが視線を向けると、きょろきょろと辺りを見回している。邪魔になることもないのでそのままにして、デイビットはパンケーキとリンゴを口に運んだ。ソテーしたリンゴは甘みが増していて、パンケーキとよく合っている。
「オマエがいいならいいが」
「邪魔にはならないよ。問題ない」
そうしているうちに湯が沸いたので、持ってきたインスタントの粉コーヒーをカップに入れてそこに注いだ。普段デイビットはインスタントを使ってまでわざわざ飲むこともないが、こういう場所で湯を沸かして飲むコーヒーなら、インスタントでも悪くないだろう。
デイビットはコーヒーに口を付けながら、ゆっくりと空を仰いだ。恐らくここは高地に当たるのだろう。やや酸素濃度は低いが、森林に囲まれて空気も澄んだ感じがする。
デイビットのいた英国、生まれた米国と違って、ミクトランパは、何でもあり得るが都会ではないし、排気ガスがある訳でもないので、普段の空気が淀んでいるということはない。なので、気持ちの問題なのかも知れない。或いは森林の豊かな香りがそういう感覚を呼び起こすのだろうか。
そう考えて、これはかなり人間的な感覚なのではないのかとデイビットは考えた。
「デイビット。オマエはフィールドワークの時でもこうやって過ごしているのか?」
「こうやって、と言うのは曖昧だが、椅子に座ってのんびりと空を仰いでいるのかと言われれば、ノーだな。いつも言ってるだろう、調査だ。遺跡を探す、痕跡を探す、足跡を探す。それから、そういうものが見付かれば、合わせて地質の調査や環境の調査もやっている。昼間は歩き回っているし、夜は翌日に備えて寝ている。それだけだよ」
「ってコトは、今は、やはり違うのか」
「今日はキャンプだ。調査で歩き回るのが目的じゃない。拠点を作り、夕飯にはバーベキューでもして、寝る前は星を見て過ごす。そういうことじゃないのか?」
「なるほどね」
テスカトリポカはパンケーキの最後の一切れを口に運んだ。
「つまり、明確にやるべきことはないんだな」
「何か考えが? 夜になったら、本格的にキャンプファイヤーをやろうか?」
「ああ、それでもいい」
「カードを持ってきていれば、カードゲームをしても良かったな。再戦できなくて残念だよ」
ミクトランやミクトランパで、二人でカードゲームをしたこともあったが、テスカトリポカは、あまり幸運の値がよくないようで、デイビットに連敗していた。
「ソイツは帰ってからでもやればいいだろう。次こそは上々の勝負を見せてやる」
カードだけでなく、本やタブレット端末もないので、何かをして時間を潰すことは出来ない。
デイビットもパンケーキを食べ終えて、リスにリンゴをまた切ってやった。リスはもぐもぐとリンゴを食べて、今度はそれを巣に持ち帰る気はないようだった。デイビットの肩の上に、ちょんと座ったままでいる。
二人と一匹は穏やかな時間を過ごした。焚火台の火は付けたままで、暫くそれを眺めて、テスカトリポカの吐き出す白い煙と、ゆっくり暮れていく空を見たりしながら、時折ぽつぽつと雑談をする。
(――穏やかだな)
ミクトランではいつも時間に追われていたようにデイビットは感じていた。一年もの時間があったのに、あの地を本当の意味で識るにはまるで足りなかったし、記憶の容量が常に足りない、と思っていた。テスカトリポカはお構いなしに話すので、ああもう時間《五分》が足りない、と、何度でも思った。それで、困ることもない筈だったのに。
テスカトリポカは万事を自分のしたいようにしていて、それでいて、デイビットの意向のとおりに進めてくれていたので、必要な話は殆どなかった。テスカトリポカが楽しそうに話すのは概ね雑談で、忘れてもいい、憶えなくていい、忘れたら何度でもオレが話してやる、と言ってもらえるのは、とても居心地が良かった。
それでも、忘れがたいと感じていることは多かっただろう。それすらも、デイビットの記憶には残っていない。
今、砂粒のように手から零れていく記憶はないのに。
けれどいずれ漂白される記憶を惜しんでいる。ここを出て、全てが消え去ることを自分は惜しんでいるのだろうか、とデイビットは思う。
揺らめく焚火の色を、彼の吐く煙の色を、匂いを、声を。
――五分だけ見たあの空を。五分だけの、言葉を。
雲が流れていく。時間だけが悠然と過ぎていった。
「暗くなってきたな」
「ま、たまにはこういう時間も悪くないものだろう、デイビット。らしい休息で」
テスカトリポカは、ぽんぽんと、またデイビットの頭を撫でた。リスは膝の上に降りて眠っていた。
「そろそろ夕食の準備をしよう。そうだ、水をもう少し汲んでおいた方が良かったな」
「今から行くか?」
「そうしよう。森の中はもう暗いかな。ランタンを持っていこう。おまえはここで待っていてもいいよ」
デイビットが寝ているリスに呼びかけると、リスはぱっと目を開けた。そうして、スルスルとデイビットの肩に登る。
「オレの言ってることが分かるみたいだ」
「すっかりオマエのペットだな、デイビット」
「コイツはおまえが用意したんじゃないんだよな」
「リスを? ヘビでもジャガーでもなく?」
テスカトリポカは肩を上げた。彼に縁がある動物と言えば、主にその二匹らしいが、連れているのをデイビットが見たことがある訳でもないので、言われてもピンと来ない。ジャガーマンも連鎖召喚されなかったくらいだし。
リスはそこが定位置であるかのように、しっかりとデイビットの肩に留まっている。
「オレのペット、か。じゃあ名前でも付けてやろうか。何がいいかな……、タンクとかどうだ」
「タンク? 水汲み用のリスってか?」
「いいだろ。行くぞ、タンク」
タンクではないが、空っぽのボトルを持って、二人は昼間の水辺に向かった。
歩き始めた時にはまだ端の方は紅い色だった空が、急激に暗くなっていく。手持ちランタンの灯りでは心許なくなってきていた。テスカトリポカがタバコに火を灯したので、光源が三つになったが、足しにはならず、手元もよく見えないような原始的な暗さの中に二人はいる。
それらにもデイビットは慣れていない訳ではない。だが、足元が見えないので歩きにくいことは間違いなかった。昼間の道を思い出せば、特別な障害もないだろうとは思うのだが、舗装された道ではないので、足を取られそうになる。
「デイビット、本当に道を憶えているのか?」
「概ね分かる」
「暗くてよく見えないのにか? 感覚か? それとも空間認知の方か?」
「どの方角にどの程度歩いたかを記憶している。常に憶えている訳でもないが、水汲み場はまた利用するだろうと思って」
「相変わらず人間離れしているな、オマエも」
「人間かどうか分からないからな」
見えない白煙がふわりとデイビットの鼻を掠めた。
「最初の方に、自分は人間という認識だと、オマエは言っていた気がするが」
「まぁ、そうだな。そう信じているのが半分、そうではないんだろうなと思うのが半分くらいだ。今では、どっちでもいいと思ってる。ここにいればな」
「――今は人間だ」
「らしいな」
デイビットは何となく、笑った。
何の実感もないのに、今の自分は、魔術師ですらないらしいのだ。
「デイビット」
「それにしても、結構拠点から遠いな。テントをもう少し水辺に近付けられたら良かったかも――」
ようやく川に辿り着いたと思ったその時、突然、ゴロゴロと聞き慣れない轟音が遠くの方で響いた。ぴょんとデイビットの肩のリスが立ち上がる。ピカリと空に閃光が走った。
「何だ――これは、雷か?」
「チッ! 何だって急に天候が変わった! どうなってるんだか、全く分からん」
「おまえの所為じゃ」
「ない。だから、何でもオレの所為にするんじゃない。今のオレにそういう権能はないと言っただろうが」
「なら、どうして――」
そう言っている内に、ザァッと新しい音が響いた。暗い森の中に大粒の雫が落ちてきて、頭上が一気に濡らされる。
「スコール……!」
「デイビット、川の水が溢れたら厄介なことになる! ここから離れるぞ!」
「ああ、その方が良さそうだ!」
テスカトリポカの言うとおり、穏やかな川ではあるが、増水に巻き込まれれば危険だろうとデイビットも判断して、テスカトリポカと共に走った。
びちゃびちゃと身体を濡らす雫は、思うよりも冷たい。早くテントまで戻らなければと思うが、忽然と降り出した雨と、夜の闇とで、視界が判然としなくなっていた。さっきまで穏やかだった木々も、ざわざわと風に合わせて揺れ動き、行く道を隠しているように感じる。
デイビットは普段、フィールドワークに出る前には、土地の地形、全体像を把握している。徒党を組んで行くことはないので、己の身の安全を守るためには、道具だけでなく知識も肝要だ。地図は頭に叩き込む。危険な生物も事前に調べておく。
だから、ここは場所が悪かった。ここがどこであるのか、デイビットにも、もしかするとテスカトリポカにだって、具体的には分からないのかも知れないのだ。
デイビットは、歩いてきた道は殆ど記憶していたが、増水する危険に追われて走った所為で、先ほどの道から少し逸れてきてしまっていた。それでも明るければリカバリーは容易だろうが、真っ暗な道では、すぐには正解が分からない。
「テスカトリポカ、待ってくれ。一度方角を確認しないと。確か、あっちの方――」
一度立ち止まって考えようと、デイビットは傍の木に手を付いた。
気付けば、肩の上のリスはいなくなっている。
「ッ、デイビット!」
デイビットは頭上でもう一度雷鳴が輝くのを見た。そして、自分の手を付いた木が傾いていくのに気が付いた。振り返るとなだらかな斜面が視界に入る。デイビットの身体は、そこに転がり落ちていった。
「デイビット――!」
自分を呼ぶ声が遠ざかっていく。デイビットは数度回転したが、ともかく滑落の速度を下げようと、右手を伸ばし、一瞬魔術を行使しようとして、それが出来ないことにすぐさま気が付いて――、途中の枝に手を伸ばした。しかし瞬時の反応に遅れた為に機を逃してしまい、何とか体勢を変えて木や岩にぶつからないようにして滑り落ちることしか出来なかった。
「ッ痛……」
滑り落ちて傾斜のない場所までデイビットは辿り着いたが、立ち上がると、右の足首に鋭い痛みが走った。足を捻ったらしい。他にも細かな傷はいくらでもあったが、大きな外傷はないようだと自分の身体をチェックしてデイビットは結論付けた。
それから腕を回したりもしてみたが、幸い、他に痛む箇所はない。ブーツの踵で何とか速度を落とすことが出来たが、代わりに足を捻ったというところだろう。軽く痛みはあるが、立ち上がることは出来る。歩けないような痛みでもないし、無理をしなければ悪化することもないだろう。
デイビットは滑り落ちてきた斜面の上を見た。暗くて、何も見えない――テスカトリポカも見えない、とため息を吐く。ランタンはどこかにやってしまったらしいし、真っ暗で、暗闇に目を慣らしてみても、崖の上まで見ることはできなかった。
それでも足さえ平気だったら、雨でぬかるんでさえいなければ、デイビットは斜面を登っただろうが、豪雨に捻挫では、流石にそれも断念すべきだと考える。
(――ただの人、か)
デイビットはじっと右手を見て、自嘲する。自分の誤りに、また、ため息を吐いた。
――魔術は使えない。
今の自分の身体はただの人と同じようになっている。
テスカトリポカが言っていたとおりだ。
それを理解していたのに、何度か意識もしたのに、やはり、危難に遭遇すると、そうしてしまおうとするのが染み付いているのだと思う。
結局デイビットも、ロンドンの時計塔で過ごし、魔術師として、必要に応じて魔術を行使して生きてきた存在だ。街中ではそうは考えないが、危機に直面すれば自然とそう思考してしまう。身体が自分を守るために、反射のように動く。自分が魔術師であるということを意識して生きてきたつもりはないのに、やっぱり魔術師なのかと思った。
それが厭だということはないけれど――、ただ、不思議な感覚だった。人間であるのかどうかもあやふやなのに、自分は魔術師であるらしいというのだから。
物思いは一分。五分も使うべきでない。このまま身体が冷たい雨に濡れて冷えていくのは危険なので、デイビットはとにかく雨風を凌げる場所に避難することにした。
降り続く雨は激しさを増していくばかり。
テスカトリポカは明日になれば権能が戻ると言ったが、この雨は、その時には止むのだろうか。それまで、止むことがないのだろうか。
(――寒いな)
暗い道を、洞窟でもあってくれたらと思って歩いていると、本当に洞窟のような場所が見えてきたので、デイビットは雨を避けるようにそこに足を踏み入れた。
ミクトランパは、そうであれと望むことが起こるような場所であるとテスカトリポカが言っていたことがあるが、この状態でもその本質は完全には損なわれていないのだろうか。
これは、デイビットの神様の導きなのだろうか。
望んだとおりにそこに在った洞窟の内部で、デイビットは内側にまで水が染み込んでしまったらしく、やたらと重たいコートを脱いだ。中に着ていた物も濡れているが、全部脱げば寒さで凍えそうだったので、上着のニットだけを脱ぐ。目を凝らしてみると小枝があったので、それで火を起こそうと思ったが、湿っている所為で火が付きそうにはない。
座り込んだデイビットは、微かに死のイメージを思い浮かべた。そして、そもそも死の国にいるのに、と思った。
探索、フィールドワークに危険は付き物だ。ミクトランでも平穏無事なばかりだった訳ではない。一応、生命の危険こそなかったが――。
(ここで死んだら人間か、と思ったこともあったな)
それからデイビットは、ブーツの爪先を見ながら、テスカトリポカのことを思い出した。
明日、テスカトリポカの権能が元に戻れば、自分を探しに来るだろう。今日はテスカトリポカにも従前の機能が備わっていないから、ここまで探しに来るのは難しい筈だ。
テスカトリポカは全能神だが万能な存在ではない。デイビットもそれは弁えているつもりだ。
ミクトランパは今イレギュラーな状態になっているから、テスカトリポカも自分を心配してくれているのだろうとは、デイビットも思う。しかし、そのテスカトリポカもまた、今は能力が減衰している以上、豪雨の中でデイビットを探すのは簡単なことではなく、非常にリスクが高い行動になると考えられる。
それに、その必要性が低いということを、テスカトリポカは知っているだろう。少なくともここは、あのミクトランよりも危険な場所ではないのだから。
テスカトリポカは、ミクトランでも、デイビットがどこへ行こうと、ちゃんと帰ってくるものだと信頼していた。だから、フィールドワークに出かけても止められることはなかった。
だから――あの時と同じように、きっと上でデイビットが回復して登ってくるのを待っているのだろう。もしもすぐに登ってこなければ、権能が戻った頃に、様子を見に来てくれる。良い試練になったな、とでも言って。
それは神にとって薄情なことなどではない。
(人間なら……違うのかも知れないが)
人間ではないから、やはり、よく分からない。
どうにも思考が鈍っているように感じる。助けに来て欲しいと思うのではないのに、心のどこかで、彼がここに来て手を差し伸べてくれることを自分は望んでいるのかも知れないと、デイビットは思った。
あの日、自分の手を握ってくれたように。
それは、鈍っているというよりは、寒さで純粋に弱っているというのかも知れないが……。
(――平気なのにな)
いつだってそうだった。自分は一人でも平気で、誰かが傍にいなくても平気で、そうして機能して、居られる。動いていられる。
そして、そうであることを見込まれて彼と巡り会ったのだ。だから、何かもが平気だ。
また寒いと感じてデイビットは目を閉じた。冷たい風が吹き付けてくる。雨音は止まない。あのリスはこの雨から上手に逃げられただろうか。
(もし――)
もし自分が凍えて死ぬのなら、今ここでかも知れない、とデイビットは思った。
***
目の前でデイビットが崖から転落した。
テスカトリポカは慌てて彼が落ちた方に走り寄る。
雨が降り頻っていた。サングラスに水滴が付着して視界が悪い。テスカトリポカはサングラスを投げ捨てて、デイビットが落ちた方を睨み付けた。
(チッ、何も見えねぇ)
暗く、視界が遮られている。デイビットは、どこまで続くのか分からない果てなき闇の中に落ちていったようにも見える。手を伸ばしても届くことはないような、深淵に。
テスカトリポカが深淵を恐れることはないが、今の自分の身体が、自分で思うよりやたらと脆いことも分かっていた。
ミクトランで彼に召喚されてから、テスカトリポカは何度もそういうことを痛感した。人の身体は脆い。仮令、サーヴァントの依代であっても、脆弱過ぎるのだ。腕や脚を折ればそれだけで満足に動けなくなる。身体の損傷は精神に影響する。動けないと感じればやはり動けない。そんな程度の、脆いものだ。
だが、あまり考えている暇はない。テスカトリポカは、デイビットの後を追って、斜面を滑り降りた。
デイビットは頑丈だし、一人でも危難に対処出来る。だがそれは、彼が元々いた地球でのことであって、宇宙の彼方からの天使的な何かの加護があってのことだ。今この異常が起きているミクトランパにおいても確実にそうであるとは言えない。
勿論、彼は優秀な戦士であり、稀に見るほどに優秀な個体ではあるが――それでも神とは違う。
人間だ。
今や、魔術師ですらない普通のひとだ。
『おまえが人間に入れ込もうが、猫に入れ込もうが、何だって好きにやりゃいい。オレの方に振らなきゃな』
青のテスカトリポカの言葉が、耳の奥に蘇った。
デイビットを暫くミクトランパで過ごさせるという話をした時に言われたことだ。その言葉の意味を、黒は、計り兼ねている。分からない。
『だがな、黒のテスカトリポカ。人間なんざ、本当に脆いもんだろうが。ああいう脆いモノに入れ込んで、それに気を付けてやるってのが、おまえに出来んのか?』
――脆い。
人間が――、デイビットが?
黒のテスカトリポカはミクトランパの管理者として、その領域にいる休息すべき戦士を徒に危険に晒すことはしない。
必要があれば、試練を課してやるということはあるが、殆ど入口で判断するだけで、基本的にそもそも身の安全は保障する側だった。
ミクトランパは戦士の休息の場である。それは誰にとっても同じだ。デイビットにとってもそうであるべきだ。
(デイビット――)
デイビットは頑丈な男だが、今の自分も、彼も、真っ当な状態ではない。彼が下で倒れて動けなくなっている可能性は十分にある。不意に後ろから落ちたのだ、頭を打ったかも知れないし、そうでなくともここは寒い。低温は人間の身体には毒だ。
幾つかの可能性を考える。デイビットは崖下で無事にしていて、どこかで雨を凌いでいるだろう。この可能性は一番高い。
だが、今のテスカトリポカには、それを確かめる術がない。いつもならば、彼がどこにいても、何をしていても、このミクトランパにいる限りは絶対に把握出来るのに。
ぬかるんだ道を靴で減速させつつ降りて、テスカトリポカが崖下りを終えてみても、辺りには誰もいなかった。一先ず、頭部を強打してその場で倒れて動けなくなっているという状態ではないことにテスカトリポカは安堵した。
斜面を見上げて、デイビットが無事ならここから登って戻ろうとする可能性はあると考えた。だが。
(雨で分かりにくくなっちゃいるが、コイツは足跡だな。ってコトは、デイビットはどっかに向かって動いたハズだ)
テスカトリポカは真っ暗な地面を注意深く見て、デイビットの痕跡を見付ける。
デイビットが滑り落ちた場所も、恐らくテスカトリポカが降りた場所から遠くはない。彼はミクトランでも一人でフィールドワークに出かけていたくらいだし、滑落に対しての備えもある程度はあっただろう。動けなくなるほどの怪我を負わず、だが万全ではないので登ることを諦めた。そして、雨に濡れ続けることを避けて、どこかに身を隠した。恐らくそれがデイビットの行動だ。
テスカトリポカは推測して、足早にその場を離れた。まだ、遠くには行っていないハズだ。ランタンを手放さず持ってきておけば良かったと後悔しながら、周囲を睨み付ける。やはり暗い。しかも、雨で視界が悪すぎる。
テスカトリポカは、微かなチカラの残滓を引き寄せるようにして、掌に光を灯した。エラーの影響で、今、ファースト・サンと呼べる程の光は持ち得ない。単なるサーヴァント規格として、しかも宝具の出力にも及ばないようなただの光源だ。
――何だ。これがあればランタンなんていらなかったんじゃないか?
まるでいつものようにデイビットが言う声が聞こえた気がした。いつもと変わらない、神に接しているとは思えないような態度で、言いたいことをはっきりと言うように――。
耳の奥に残っている彼の声が反響する。
こういうチカラが残っていたのは、自分を注意深く精査してようやく気が付いたことだ、とテスカトリポカは考えた。
デイビットに、言い訳をするように。
彼のサーヴァントであった頃ならば、宝具として展開することしか考えたこともなかった。非常事態になったから気付いただけだ。
大体、宝具を便利な家電の代わりにするものじゃない。オマエはいつも、ワガママばかり言う男だな? 神の心臓が欲しいとか、サーヴァントを連鎖召喚して欲しかっただとか。
(デイビット――)
ここには答える声もないのに、何故、自分はそんなことを考えているのだろう?
残響がもう一度耳に響く。
テスカトリポカ、と名前を呼ぶ。
雨の降り頻る中、テスカトリポカは顔を上げた。
これは、まるで……、一刻も早く会いたいと思っているかのようだ。
明日になれば――権能は戻る。そうなれば、この雨は止むだろう。テスカトリポカはこのミクトランパにある全てを識り、全てへと遍在する領域の管理者に戻り、当然、デイビットの居場所も掴める。彼が無事でいるかどうかも分かる。そもそも、どこかへと移動しているのだから、デイビットは今のところ無事だ。それは間違いないだろう。
そう思いながら、テスカトリポカは彼のいそうな場所を探して、びちゃびちゃと濡れる音を響かせた。雨が長髪を顔に張り付かせて不愉快だった。
どうして嵐になったんだ、と思う。分からない。ただ、早く見つけてやらないと、まだこの先に何が起こるのかも分からない、と焦燥のように思った。運良く隠れる場所が見つかったとして、その場所が崩落でもしたら? 単なる人の身でしかない今のデイビットが、自分がそのようにしたデイビットが、致命的な怪我をしたら?
鬱陶しく煩わしい雨に打たれながら歩いていると、すぐに空洞は見付かった。
それを洞窟と呼ぶのか何と呼ぶのか正解は分からないが、人間が入れるだけの開けたスペースがあり、濡れた足跡もあったので、テスカトリポカは確信を持ってそこに入った。
「デイビット!」
探していた人物は、膝を抱えて丸くなっていた。すぐ傍に濡れたコートが置かれている。
テスカトリポカが駆け寄ると、デイビットは顔を上げた。
「……テスカトリポカ?」
「無事だったか」
「ああ。悪い、足を挫いたんだ。それで登れそうになくて下に留まっていた。雨宿りできる場所があって良かったよ」
「そうか。他に怪我はなさそうだな」
テスカトリポカは、そっとデイビットの頬に触れた。濡れた所為でかなり冷えている。デイビットが震えていないのは、単に彼がそういう感覚に鈍感なだけなのではないかとテスカトリポカは思った。
テスカトリポカが、自分の着ていたコートを肩に掛けてやると、濡れてないんだな、とまるで温度のないような目をして、デイビットは呟いた。
「簡易的な処置だが、防水コーティングを降りる前に掛けた。オマエ、服も濡れているな?」
「ニットは脱いだ。シャツはまぁ、完全には濡れてないから」
「そうか。この程度なら着ていた方がいいか」
「おまえこそ、サングラスは?」
「濡れたからどこかに投げ捨てた」
「それは防水じゃなかったのか」
デイビットは、くすくすと笑った。血の通わない人形のような表情に、多少は温度が戻ったようで、テスカトリポカも安堵した。
「川に落ちた時なんか、全身が濡れてたのに」
「あれは急に落ちたからだ。さっき崖を降りる前に魔力を張ったんだよ」
「サーヴァントみたいに?」
「今のところ、そのくらいしか出来んからな」
「光っているのは?」
「ま、スキル版の簡易ファースト・サンと言ったところだ。ランタンの代わりくらいにはなる」
「器用だな、そんなことも出来たのか。綺麗だ」
悪かったな、とテスカトリポカが言うと、デイビットはキョトンとした顔になった。
「オレの所為ではないが、オレの領域でのことだからな。オレに責任があるのは事実だろう」
「おまえなら、いつもの試練だとでも言うのかと思ってたよ」
「まぁ、確かに、試練と言ってもいいんだがね。だがオレも、今日は普通にキャンプに来たつもりだったからな。危険な目に遭わせるつもりは、なかった」
「危険というほどじゃない。多少のアクシデントは付き物じゃないか、おまえといると、特にな」
「そりゃタフで結構なことだ」
テスカトリポカが頭を撫でると、デイビットは微笑んだ。
「まぁ……でも少し、死ぬとしたらこういう状態なのかと思ったよ。どこまでも寒くて、視界も暗んで」
言いながらデイビットは軽く目を閉じた。
白色人種ではあるが、普段のデイビットは血行が悪い方ではないので、肌の色はしっかりとしている。そのデイビットの顔色が白んでいるので、テスカトリポカはもう一度頬に手を当てた。まだ肌が冷えている。テスカトリポカの手は、人間のそれのように血の通う本当の温かさではないのに、それで触れても冷たいと感じた。まるで冷え切っているようだ。
死ぬとしたら、と言った薄い唇も血の気がなく、このまま力をなくして本物の人形のようになってしまうのではないかと、テスカトリポカは一瞬、思った。
頬を撫でた指で、今度は唇を撫でる。その弾力を確かめる。それから、冷えた身体をテスカトリポカが抱き締めると、デイビットは小さく声を漏らした。抵抗もなく、黙ってテスカトリポカの腕の中に収まっている。
鼓動の音が揺れる。雨音が煩くて、よく聞こえない。
テスカトリポカ、とデイビットは呼んだ。顔を見ると、紫色の瞳がテスカトリポカを見ている。そして、デイビットは小さく囁いた。
「――Thank you for coming to meet me.」
暗闇の中で何度も耳に反響していた声よりも、その響きは柔らかく、優しかった。
初めてデイビットと出会った時、テスカトリポカは彼に手を差し伸べた。初めて戴いたマスターに。自分たちの新しい計画の為に。その瞬間が頭を過る。
あれからどれくらい経ったのだろうか。
あれから、自分たちは――、どう、変わったのだろう。
「デイビット」
彼は儚くて脆い、ただのひとだ。神とは違う。
もし何かを間違えれば、呆気なく消え去ってしまう。そう、青のテスカトリポカが言ったとおり、繊細で、脆い、人。このままここに一人きりでいたら、本当に温度を失くして消えてしまっていたかも知れないひと。
テスカトリポカは、血の気をなくした頬をもう一度見た。
自分と同じすがたをした、単なるひと。
ただのひとなのに――彼だけは、目の前から消えて欲しくないと思った。
先ほど指で触れた唇に、テスカトリポカは、自分の唇を重ねた。その唇と、頬に、温度を戻してやるように。
「んッ――」
デイビットは虚を突かれたというように、瞳をぱちりと何度か瞬きさせたが、すぐに、身を委ねるように目を閉じた。
舐めたり食んだりしてみると、触れた部分の温度は思っていたよりも温かい。ぬるりと舌を口の中に入れると、口内はむしろ熱を持っているように感じた。触れる舌も熱い。
「ッ、ん……テス……」
上気してきた頬も、触れている指先に、確かな熱を伝えてくる。熱いなと思いながら、口内を舌で遠慮なく探られて戸惑っているデイビットの表情を見た。それを見ていると、生死を賭けた戦いをしているような血の沸騰があって、テスカトリポカは、のめりこむようにデイビットの身体を地面に押し倒した。
デイビットの肩に掛けておいた自分の黒いコートが、その身体の下敷きになる。覆い被さったまま、すっかり熱を帯びた唇をテスカトリポカは更に貪った。
そうする力がないのか、そうする気がないのか、デイビットは抗うこともなく口付けを受け入れていた。頬の色が染まり、時折開く瞳がしっとりと潤んでいる。見たことのない表情に、テスカトリポカは、自分が興奮していくことを自覚した。
――この唇の味を、自分は知っている。
ミクトランで、一度だけ触れたことがある。それは、接触による魔力の供給の為ではなくて、湧き上がる、いや込み上がってくる何かに惹かれて触れた瞬間だった。
その時の行為に明確な理由はなかった。そして、その事実をデイビットは記憶していない。だから、何にもならない、感情とも言えないような何かでしかなかった。
その唇に、もう一度触れたいと思っていた。
――思っていたのだ、と思う。この男の身体を深くまで知って食べ尽くしたいと思う。それは降って沸いたような気持ちであり、ずっと抱え込んでいた感情であるようにも感じられた。
自分だけだ。人ならざる男の傍にいられるのは。
そう。この男は、自分の――モノだ。
どこかでずっとそう思っていた。デイビットは、自分の楽園で生きる自分だけのモノなのだ、と。
(オレのモノだ)
この男は。
(デイビット――)
全て、自分のモノにしたい。
「ッは……、テスカ……」
この男のことが――欲しい。
「デイビット、寒いんだろう?」
返答は聞かずにテスカトリポカは続ける。
「こういう時には良い方法がある。デイビット、オレの身体でオマエの身体を暖めてやるというやり方だ」
「……ッ!」
テスカトリポカが顔を近付けて言うと、デイビットは息を呑んだ。
その反応から、テスカトリポカの言葉の意図は間違いなくデイビットにも伝わっているだろうと思われた。
身体で暖める、互いの肌を触れ合わせる、肉体を重ねる――即ちセックスをする、と言ったのだ。二人で。
「どうだ、デイビット? いい考えだろう?」