Wachet auf, ruft uns die Stimme

 美しい賛美歌が教会を満たす。
 常より集会では心を込めて祈り、朗読や説教を行うようにしているが、この歌声の満ちる空間をレンドールは最も好んでいた。

 その日は晴天で、集会を終えて窓を開けると、外から鳥の鳴き声が聞こえてくる。まるで彼らも歌っているかのようだ。
 その声に誘われるように、馴染みの曲をレンドールはオルガンで弾き始めた。コラールのカンタータ――BWV140、Wachet auf, ruft uns die Stimme目覚めよと呼ぶ声が聞こえ
 この曲を弾くと、いつも思い出す歌声がある。

「――la, la…」

(えっ……?)

 自分のオルガンの音に合わせるようなか細い歌声が聞こえた気がして、レンドールは控え室から外庭へと抜けるドアを開いた。そこには春になると真っ白なマーガレットが咲き誇る美しい花畑が広がっている。教会でも手入れを怠ることのないその庭に、ひとりの少年の姿があった。

「――青い鳥!」
「……レン、ドール……? どうして」
「無事でいたんだね」

 蹲る彼をレンドールが慌てて助け起こすと、彼は「中央区に行ったんじゃないの?」と弱弱しい表情で訊いた。

「どうして? 僕はずっとここにいたよ、Q・P」

 彼の身体はすっかり衰弱してしまっていた。レンドールは慌てて自分の指先の皮を噛んで、血を一滴彼の口元に垂らしてあげた。
 ぽたりとそれが口内に落ちると、弱弱しかったアイスブルーの瞳に光が戻ってくる。

「キミはどうやって暮らしていたんだい? キミがいなくなって、ずっと心配していたんだ……無事に会えて良かったよ、青い鳥」
「レンドール……」

 ――12年前。
 神父ケン・レンドールが中央区での研修を終えて、地方の教区にやってきて2年が経過した頃のことだった。その日の空は青々と冴え渡っていて、白い花畑は煌めくような陽光によって照らし出されていた。
 レンドールはこの場所が好きだった。午前中の太陽に照らし出されるこの花畑はいつも穏やかで、鳥の声が絶えず聞こえてくる。控室のドアを開けてすぐ傍にある憩いの場だった。

 レンドールは良くオルガンで賛美歌を弾いていた。集会で披露することもあれば、他にも心を落ち着かせるために弾くこともある。あまり弾いてばかりいると、書類が溜まっているとシスターから言われてしまうのだが。
 その晴れ渡った日にも、レンドールはオルガンを弾いていた。教会の中は静かで、オルガンの音は外庭にも良く響いてただろう。

「――la, la…」

 その旋律に合わせるようにか細い声が聞こえてきた。レンドールは驚いて窓の外を見た。けれども花畑の一部が切り取られて見えただけで、人の姿はない。外に出てみると、少年が――か細い少年が指先を花びらに伸ばしていた。少年は花畑の花をひとつも潰さずに倒れていた。
 レンドールは慌てて少年を抱き起した。

「どうしたんだい? 大丈夫かい? キミは、どこから来たんだ?」

 氷のような虚ろな瞳を持つ少年は、微かに唇を開いて答えた。棄てられたんだ、と。

「血が……」

 血が足りないから、と少年は途切れ途切れにレンドールに伝えた。

「血? もしかして、キミは吸血鬼なのかな?」

 少年は小さく頷いた。なるほど、とレンドールは頷き、自分の指の皮を歯で千切った。血が指先から滴る。それを少年の唇に触れさせてあげると、少年の舌がレンドールの指を舐めた。
 吸血鬼という存在は、広く認知されている。人と同じ姿をした人ならざる者たち。
 古くは、人間の血を吸う怪物として恐れられ、人間とのあいだに戦争のようなものが起こったようだが、遥かに昔の出来事だ。現代では繁殖力の低い吸血鬼は個体数をかなり減らしており、人とも共存する生き方を選ぶ者がほとんどである。レンドールも吸血鬼に怖れを抱かない。もしも怖れがあったとしても、このような小さな少年を見捨てて良いという道理はないだろう。
 教会では吸血鬼を悪魔と同視し排除すべきだと叫ぶ者もいるようだが、慈悲深き神様がこのような行いを罰することがあろうはずもない。

「大丈夫かい?」

 レンドールの血を飲んだ少年は、ぱちぱちと瞳をまばたきさせた。光が戻っている。

「――どうしてボクを助けたの?」
「困っている子を助けないはずがないよ。僕は神父だからね。放ってはおけないよ。僕は神父のレンドールと言うのだけど、キミの名前は?」

 少年は首を横に振った。

「Q・P、クヴァルク・プッペのQ・Pと呼ばれていたよ」
「……Q・P……」

 ――いらない人形。
 とても厭な響きだ。少年の顔はきれいだったが、表情の変化に乏しい。或いはそれが人形的に見えるということなのだろうか。

「身体は大丈夫?」
「大丈夫。血が足りなかっただけだから」
「そう。でも、まだ顔色は良くないみたいだね」
「一度も人間から血を貰ったことがなかったから、弱ってるんだ」

 吸血鬼は血を貰わないと死んじゃうから、とQ・Pは呟いた。

「だから、ボクももうここで死ぬんだと思って……」

 冷たくか細い手をレンドールは握ってあげた。

「大変な思いをしてきたんだね。そうだ、温かいシチューはいる?」
「……いらない……」
「お腹は空いていない?」

 Q・Pはしんと黙った。これだけ痩せていて、満足な食事を行えているとは思えない。警戒しているのだろうか。

「僕と一緒に食べよう。それを食べたら……」

 Q・Pは首を横に振ると、立ち上がって背を向けた。そのまま走り出す。

「Q・P! また――明日もおいで! 待ってるからね!」

 少年は一度だけ立ち止まり、こちらを振り返った。レンドールは彼にひらひらと手を振る。Q・Pはくるりと背を向けて駆けて行った。

「大丈夫かなぁ……」

 帰る場所はあるんだろうか。きちんとした寝床は?
 レンドールは吸血鬼の存在を知っているが、そのコミュニティについては詳しくは知らない。人血が種族として必要であるため、人間から完全に切り離されて生きることは不可能なはずだ。
 だから、彼らは自分たちが生きるために、人を襲い、その血を啜った。
 無論これもまた昔、御伽噺のように遠い過去に語られるだけで、現代ではそのような蛮行は罪人しか行わない。人間にも罪人がいるし、吸血鬼にも罪人がいる。それだけだ。多くの吸血鬼は人から少量の血を分けてもらったり、買い取ったりして過ごしている。そのため、昔のように、多くの人血を吸い、人より圧倒的に優れた戦闘能力を持つ吸血鬼というのはほとんどいないのだ。
 人間は吸血鬼をまったく怖れないとは言わないが、より直接的な脅威は人間社会に溶け込む『悪魔』の方だ。彼らは人間の魂を奪う怖ろしき存在。吸血鬼は人間とともに『悪魔狩り』を行うハンターもいて、その見返りに人間から血を貰うということも少なくはないようである。

 レンドールが彼に血を分けてあげた指先を見ると、傷跡がなくなっていた。まるでキツネにつままれたようだ、とレンドールは不思議に思いながら、風に吹かれる花畑をじっと見ていた。

 翌日もQ・Pは現れてくれた。
 レンドールがオルガンを弾いていると、庭から歌声が聞こえたので、慌てて外に出たところ――今のもう少し聞いていたかったのに、と花畑の傍に座るQ・Pは言った。

「良く来てくれたね、Q・P」

 『いらない人形』という響きは好きになれなかったが、他に彼を呼称する呼び名がないし、レンドールが勝手に名前を付けるわけにもいかないだろう。Q・Pは頷いて「レンドール」と名前を呼んだ。彼が覚えていてくれて、レンドールはうれしく思う。

「今度こそシチューを食べていかない? それとも、また血を分けた方がいいかな? ちょっと待ってね」

 レンドールは懐に入れていたペーパーナイフでぷつりと人差し指の腹を切った。流れる血にQ・Pの視線が向く。どうぞ、と指を差し出すと、昨日よりも遠慮がちにQ・Pは指先を舐めた。何だか猫が舐めているようでくすぐったい。

「昨日、指の傷がすぐに治っていたんだけど、あれは吸血鬼の力?」
「うん。吸血鬼は傷が治るのが速いから」
「それは僕も聞いたことがあるよ。再生能力が人間より速いんだよね」
「血の力なんだ」

 Q・Pが話してくれたことによると、吸血鬼を吸血鬼たらしめる人の血に由来する力があり、それは、身体の再生能力を速めてくれる。便宜的に『生命力』と呼ばれているそうだ。
 しかし、その『生命力』が身体を再生してくれる代わりに、『生命力』を失うと、吸血鬼としては死ぬ。精神が目覚めなくなってしまうということらしい。そうして肉体は徐々に朽ちていく。吸血鬼の死とはそういうもので、人間のように、脳や心臓の機能停止では死なずに再生することが可能であるらしい。
 吸血鬼は不老だが不死ではない、と言われるのはそのためである。

「『生命力』をレンドールの指に分けてあげたから、傷がすぐに治ったんだよ」
「そうだったんだね。ありがとう、Q・P」
「血を分けてくれた人にはボクたちが当然するべきことだから」

 ありがとう、とQ・Pは呟いた。

「シチューは?」

 Q・Pは首を横に振る。まだ完全に信頼は得られていない、ということだろうか。

「明日もおいで」
「いいの?」
「もちろんだ。待ってるよ、Q・P」

 それからQ・Pは毎日お昼になると白い花畑に現れてくれた。オルガンの音色を気に入って聞いてくれているようだったので、一曲を弾き終えてから――いつも『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』だ――、レンドールは庭に出ていくようになった。

 彼に血を分けるようになって一週間。瞳に力強さを宿すようになったQ・Pは、レンドールの招きに従って、室内でパンとシチューを食べてくれるようになった。
 どうやら彼は吸血鬼のコミュニティの端っこで過ごしているらしく、一日一食は何とか食べていて、一応雨風を凌げる場所で寝泊まりをしているらしいということを、レンドールはやっと彼から聞き出せた。

「ボクは生まれてすぐに棄てられたから、名前もないんだ。ボクを助けてくれたのはレンドールだけだよ。ありがとう」
「僕は人として当然のことをしただけだよ。明日もおいで。お昼の休憩の時間ならいつでも来て大丈夫だからね」

 最初に指に触れた身体は冷え切っていた。けれど、今は人と同じような体温を感じられる。そんな些細なことも、レンドールはうれしいと感じていた。

「レンドール、いつも弾いてる曲は何?」
「賛美歌だよ。『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』と言うんだ」
「歌……」
「歌ってみるかい? キミは最初に旋律に合わせて歌っていたね」

 Q・Pははっきりとは頷かなかったが、気になっているのだろうとレンドールは思い、翌日には楽譜を用意しておいた。まだ幼い彼に楽譜を読むことは難しいのかも知れないが、話してみて非常に聡明な子だと感じていたので、教えればすぐに覚えられるのではないかと思ったのだ。

 それからQ・Pは歌を覚えた。レンドールのオルガンに合わせて賛美歌を歌ってくれるようになった。吸血鬼に賛美歌は似合わないのだろうかと心配していたが、伸びやかな歌声はとても美しく、彼を聖歌隊に加えられないのは残念なことだとレンドールは思った。
 その美しい歌声に、レンドールは『Quality of Perfect』と言った。ずっと、『いらない人形』という響きが厭だと思っていたので、もしもQ・Pという名前をこれから先も使うのであれば、その意味は、『完璧な品質』であってほしいと願ってのことだ。

 そして、あまり教育を受ける機会もなかったかも知れないと思い、教会の青空教室で使っていた教科書を渡してあげると、Q・Pはすぐに習得した。レンドールが集会や説教でいないときには教会に置いてある本を読むようにもなっていた。
 彼がここにやって来るときにはいつも鳥の鳴き声がしていたので、『青い鳥』の本を渡してあげると、それを気に入ったようだった。青い鳥の少年、とレンドールも彼のことを認識するようになっていた。自分の心を豊かにしてくれる素敵な存在だ。

 その頃には、教会に寝泊まりするほどではないが、Q・Pが教会で過ごす時間は少しずつ長くなっていた。レンドールが仕事をしていても、大人しく本を読んでいたり、歌ったり、オルガンを触ってみたり、決して人目に付かないようにと静かに過ごしているらしい。
 彼は警戒心が強かった。レンドール以外の人の気配があるとすぐに外の庭に出て行ってしまう。レンドールも彼の存在を殊更に隠そうとは思っていなかったのだが、逃げるように去るQ・Pを見ていると、彼のことは口外しない方がよさそうだと思うようになった。
 小さな教会なので、神父も自分ともう一人の補佐を置いているだけで、しかも補佐の神父は同じ教区の隣の教会補佐との兼任ということもあって、不在の日が多い。あえて彼の存在を主張しなければ、気付くことはないだろう。

 毎日レンドールの血を飲み、二人で昼食を食べて、歌い、本を読み、温かな陽ざしに照らされたベッドでうたた寝をして。
 そういう日々が三年ほど続いた。
 レンドールも、もうすっかりそんな生活に慣れたある日――レンドールが中央教会の神父を出迎えて戻った部屋のテーブルに「今までありがとう、さようなら Q・P」と書かれたメモが置かれていて、それ以来、Q・Pは姿を現すことがなくなってしまったのだ。

 それから、9年も経過してしまった。

「ずっと心配していたんだよ。何があったんだい?」

 抱き起こしてもQ・Pの顔色は蒼白だったので、レンドールは教会の控室にあるベッドに彼を運んであげた。もう少し血を渡した方がいいのだろうかと、すでに治癒されている指に目を向けると、平気だよ、とQ・Pはレンドールの手を掴んで言った。

「大丈夫だよ。さっきくれたので、平気だから」
「もしかして、今まであまり血を飲んでいなかったのかい?」

 Q・Pは頷いた。もしかすると、最初に出会ったときのように、ずっと飲んでいないのではないか、と考えて、自分の指先まで冷えたように感じた。
 吸血鬼にとって、人の血は、生きるために必要なものだ。その是非を今さら説くようなことはない。人間が生きるために肉を喰らわなければならないことを罪悪だと言っても仕方のないことだ――それと同じ。
 けれど人を襲うべからず。それは罪人だ。血を手に入れるためには、人と交わっていく必要がある。けれど極端に人を嫌う――いや、ある種怯えているQ・Pは、これまでに誰かから、血を分け与えてもらっていないのではないだろうか。

「レンドールに毎日血を分けてもらってたから、今まで何とか生きてこられたんだ」
「……ッ、どうして、ここに来なくなったんだい?」
「レンドールが……ボクがいると中央区に行けないんだと思って」

 ハッとする。レンドールはあの日、どのような会話をしていたのか覚えていた。やってきた中央教会の神父は、レンドールに、中央教区への移動及び昇進して教区長補佐にならないかと打診したのだ。
 それに対してレンドールは首を横に振った。

『僕にはここに留まる理由があるので――』

 それは、決して、Q・Pだけが理由ではなかった。
 当時、中央教会より離れたこの辺境の教区において、学校が新しく建設される目途がようやく立ったのだ。それまでは休日にレンドールが集会を終えてから片手間に教えるだけだった子供たちにもきちんとした教育の機会を与えられる学校の建設計画を、レンドールも街と協力して推し進めていた。
 それを見届けるまで、この場所を離れることはできない。

 そして、ここにはQ・Pがいる。
 吸血鬼である彼を中央区に連れて行くなんてことはできないから――。
 彼だけが理由ではない。けれど、彼は理由の一つに数えられていた。だからQ・Pは、それを気にして……。

「だから、ボクはここを離れたのに。どうしてレンドールはまだここにいるの?」
「Q・P、誤解だよ。キミがいなくなってしまって、むしろ、僕はここから離れない方がいいと思ったんだ。キミがいつか帰ってきたら――その居場所をなくしてしまわないようにと思って」

 Q・Pは目を丸くした。

「じゃあ、ボクの所為で……?」
「でもそれはキミの所為じゃない。少なくとも、あのときの僕はまだここを離れるつもりはなかったんだ。せっかく教区に馴染んできたところだったし、新しくできた学校を見守っていきたいと思っていたからね。それにここには歌声のきれいな青い鳥もいたから。僕はここにずっといるつもりだった。ただそれだけなんだよ」

 Q・Pがぽろりと涙を零したので、レンドールは彼の肩を優しく抱いてあげた。

「本当に良かったよ、また会えて。ここに戻ってきてくれて。さ、またシチューでも食べよう? 今はどうやって暮らしているんだい?」
「隣の区のコミュニティで暮らしていたんだ。ボクも、レンドールのおかげで『生命力』がちゃんとあったから、そこで受け入れてもらえたんだよ。でも、数か月前から、血が足りなくなっちゃって……」

 『生命力』の枯渇しかけたQ・Pを心配してくれる仲間もいたようだが、Q・Pはコミュニティを出て、ふらふらと彷徨い、ふたたび教会に辿り着いたのだと言う。

「最期にここでもう一度あの音楽を聴きたいと思って、ここまで来たんだ。でも、本当に聴けるとは思わなかった……」

 つまり、Q・Pは相当危険な状態だったということになる。最初に出会ったときのように――。
 レンドールは机の上のペーパーナイフで人差し指をふたたび切った。こうすることに、もはや躊躇いはなくなっている。

「もう少し飲んでおいた方がいい、Q・P」
「大丈夫だよ、レンドール」
「ダメだよ。それから、シチューを飲んで、ベッドで寝ていないとダメだからね」
「……大丈夫なのに」

 血が一滴でもあれば違うらしい、ということは、以前のQ・Pから見ても分かる。だが、もう9年も、という思いがレンドールを苛んだ。Q・Pは悪くないし、レンドールに非があったのでもない。単にすれ違ってしまっただけだ。けれど、もっと正しい交流をしていれば、Q・Pは苦しい思いをせずに済んだのではないだろうか。
 Q・Pは目の前に差し出された血に逡巡しているようだったが、そのまま血がぽたりと床に滴ったのを見て、意を決したようにもう一度指を舐めた。舌が離れると、指の傷がするりと消えていく。まるで魔法のようだ。

「ありがとう、レンドール。お礼に、今日はボクがシチューを作っても平気?」
「キミが?」
「うん。料理は得意になったんだ」
「それじゃあ、お願いしようかな。身体は大丈夫なんだよね?」
「平気だよ。今レンドールに貰った血のおかげで、虚弱状態もすっかり解消してきてるからね」

 しゃんと立ち上がったQ・Pの瞳には、かつてのような力強さが溢れていた。それからレンドールは彼をちゃんと見て、立派に、そして美しく成長したと感嘆した。美しいプラチナの髪にアイスブルーの瞳。昔と同じように、そしてそれ以上に美しい『青い鳥』だ。

 レンドールは彼を台所に案内して、彼が料理をする姿を見守ってから、二人で昔のようにシチューとパンを食べた。

「とっても美味しいね、Q・P! すっかり料理上手になっていたなんて、驚いたよ」
「――うん。いつか、レンドールに作ってあげたいと思ってたんだ。夢が叶って良かったよ」

 Q・Pは、中央の教会に足を運ぼうか悩んでいたとレンドールに話した。

「中央教会は吸血鬼嫌いで有名だから、迂闊に近付くと危ないって、ミハエルに言われたから諦めたんだけど」
「ミハエルくんというのは、キミの友人?」
「……ボクにもいろいろ教えてくれるいい人」

 コミュニティにおいてのQ・Pの先輩にあたるミハエルという子には、人間の恋人がいて、彼女から血を分けてもらっているらしい。血が不足してきたQ・Pを心配して、彼女の血を分けると言ってくれたそうだが、彼女が同意していても、Q・Pは、その好意を受け取ることまではできなかった。ミハエルの恋人は病で歩行能力を失っている。そのような状態の人の身を危険に晒す行為はできないと思ったらしい。
 もし自分が死ぬとしたら、それは自業自得。Q・Pはミハエルらにも迷惑を掛けないようにとコミュニティを出てきたらしい。そして死に場所を求めるように、教会に辿り着いた。
 本当に自分がここにいて良かったとレンドールは心から思った。今のQ・Pは、分けた血のおかげで、心配はなさそうだ。

 食事を終えて、レンドールはふたたびQ・Pに、ベッドに戻るように言った。

「キミはまだ万全な状態ではないから、ここで休んでいった方がいい。キミのコミュニティは隣の区の方だと言っていたね? 住む場所もそっちなのかい?」
「……うん。ここからは、ちょっと遠いかな」
「――もし、キミさえ良かったら、今度は教会の余っている部屋を使うのはどうかな? 住む場所や食事は提供できるよ」
「えっ、それって、ここに住むってこと?」

 それは、ここ数年のあいだに何度もレンドールが考えていたことだった。
 住む場所はあるとQ・Pは言っていたけれど、教会の空き部屋を提供して、そこで暮らさせてあげれば良かったのではないか、と思っていたのだ。そうすれば、離れ離れになってしまうこともなかったはずなのに。

「キミさえ良ければ。ここにはキミの仲間はいないから、キミにとっても大切な吸血鬼としての繋がりを、僕が提供してあげることはできないけど」

 あの頃のレンドールにとって、Q・Pは、すでに大切な存在になっていた。Q・Pにとっても、自分が特別な相手であるだろうとは思っていた。
 けれど、二人はどうしても他人同士で、種族すらも違う。住む場所を、生活の拠点を提供するということは、そんな彼の人生を自分が一方的に決めてしまうことになるのではないだろうかと怖れていたのだ。彼に適切なアドバイスをしてくれる保護者がいないようだったから、尚更に。
 自分がその役目を買って出てあげたいという気持ちと、それすら大人の身勝手な自己満足になるだけなのではないかという葛藤があった。
 その躊躇いが、長い別れに繋がってしまったのなら、もう躊躇わずに手を伸ばそうとレンドールは決めた。彼ももう、一方的に与えられるだけの子供ではない。レンドールに何かを返そうと願うような、意思を持つ一人の人だ。

 Q・Pは首を横に振った。

「ボクは吸血鬼なのに、教会にいていいの?」
「もちろんだよ。神様はきっと、人間同士だけではなく、吸血鬼とも手を取り合って生きなさいと言ってくれるはずさ」
「ここにいて、いいの? レンドール……」

 レンドールがしっかりと頷くと、Q・Pは潤んだ瞳で頷いた。

「まずはここでゆっくり休んで。夕方になったら、キミの部屋に案内してあげるからね」
「うん。ありがとう、レンドール」

 こうしてQ・Pは、教会の一室で暮らすことになった。
 彼は中央で資格を認められた神父ではないので、レンドールや数名所属する他の神父のように教会で何らかの活動を行うことも、聖歌隊の列に加わるようなこともできないが、宿舎の掃除をしてくれたり、食事を作ってくれたり、身の回りのことをいろいろとやってくれるようになった。
 教会で過ごすあいだは、用意した神父服を着るようになったので、礼拝に訪れる人からは、新しい神父さんと認知されてしまったようだが、告解や説教に加わらなければ、咎められるようなことはないだろう。もちろんQ・Pも、自分で神父だと名乗るようなことはしない。ただ訪れる人々が、きれいな神父さんが増えた、と認識しただけだ。

 長い別れを経てしまったけれど、ようやくQ・Pに落ち着く居場所を作ってあげることができて良かった。レンドールは心から彼を歓迎したのだった。

 庭のマーガレットに水をあげていると、オルガンの音が聞こえてきた。いつもレンドールが弾いている賛美歌だ。教会で集会のときに歌っている曲ではないようだけれど、いつも気に入って弾いているらしい。
 オルガンの音色に合わせて歌うとレンドールは喜ぶけれど、歌を聞こうとする所為か、鍵盤が疎かになる。今日は音色を聞いていたい気分だったので、Q・Pは口を開かなかった。

「レンドール、そろそろ昼ごはんにする?」

 音が途切れたタイミングでQ・Pがドアを開くと、レンドールがにこにこと笑って「青い鳥」と呼んでくれた。

「外で聞いていたんだね」
「うん。何か食べたいものはある?」
「キミの作るものはなんでも美味しいからね。僕からのリクエストは保留にして、ボルクとクニミツにも聞いてきてくれるかい?」
「わかったよ、聞いてくるね」

 ボルクという若い神父と、彼のお付きの見習い神父のクニミツは、Q・Pが教会に戻ってくる半年前にやってきた二人組だとレンドールから聞いていた。年齢的にはQ・Pに多分近く、その年齢で教区長補佐としての赴任は異例とのことだ。寡黙なボルクは非常に優秀な神父であるらしい。
 ゲーテの詩集をこよなく愛しそれを諳んじるその神父に、Q・Pは昔読んでずっと覚えていた聖書を諳んじ、さらに賛美歌を披露したところ、二人から感心され、無事に教会に住まうことを認められたのであった。
 認めた、と本人たちは言うけれど、この教会の長にして、現在は教区の長――司教であるレンドールの決定に反することは、二人の立場ではできないのだろうとは思われる。
 ただそれだけでなく、ボルクの弟が吸血鬼と組んで『悪魔狩り』をしているらしいので、彼は吸血鬼に関して、中央区の教会出身でありながら、理解があるようだった。

「ボルク、クニミツ、今日は何が食べたい?」

 二人は昼の礼拝を終えたところだった。昔通っていただけのQ・Pは知らなかったが、教会という場所は、厳格な時間の定めがあるらしい。朝の礼拝、昼の礼拝、それから夜の礼拝。レンドールがオルガンを弾いていたのは、大体昼の礼拝の後のことだったようだ。
 神父であれば誰彼オルガンを弾くことができる、というようではなさそうだ。ボルクは一応弾けると言うが、クニミツは弾けないらしい。教会にはレンドールがいつも使う小さなオルガンだけでなく、荘厳なパイプオルガンも備えられていて、それを鳴らすのは、本職のオルガン奏者ばかりのようだ。それも、大きなセレモニーのときに限定されている。

「司教はどう言っているんだ?」
「保留。先に二人の意見を聞いてって」
「俺も特に希望はないが」
「じゃあまたグラッシュでいいの?」
「昨日もグラッシュでしたよね」
「レンズ豆のスープがいい? それともパスタ? ケーゼシュペッツレにしようか」

 クニミツが頷いたので、メニューはそれにしようとQ・Pはレンドールのところに報告に向かった。ボルクはあまりそうでもないが、よその国から来たと言うクニミツは、結構グルメなのだ。作り甲斐があって良いことだとQ・Pは思っている。

 教会に住むようになって一か月。ここでの暮らしにも慣れてきた。吸血鬼の暮らしだって、人間とさほど変わらないだろうけれど、まだ吸血鬼は怖ろしいものだと思う人もいるし、人間を襲う吸血鬼がいるのも確かなので、完全には彼らと同じように暮らせない。
 そう思っていた。けれど、ここでのQ・Pの暮らしは、レンドールやボルクたちと何も変わらない。

 朝早く起きて、朝の礼拝を行い、食事を済ませたら教会の掃除を行う。
 掃除はQ・P一人の作業ではない。神への敬虔なる祈り場である教会を清潔に保つのは、神父全員の務めであり、司教であろうと見習いであろうと変わらずに、皆で教会内の清掃を行う。その間、Q・Pはみんなの宿舎や控室、庭などを掃除しているのだ。
 彼らは清掃を終えると、教会へやってくる人の対応役、教会に関する事務作業、告解室担当などに分かれて勤めを行う。Q・Pは掃除や簡単な書類の作業の手伝いの他に、すべきこともないので、本を読んだり、歌を歌ったりと自由に過ごしていられる。届けられる食材を見ながら新しい料理のレシピを考えてみたり、花に水やりをしたり。
 そうして昼の礼拝、食事、仕事、夜(と言っても夕方のことだが)の礼拝、また食事をしたら――シャワーを浴びて就寝する。日曜日には集会があるので、土曜日にはその準備。教会で行うセレモニーや儀式があればその手配、と少々変わるが、日々の生活はほとんど同じだ。
 とても穏やかで、とても幸福な暮らし。

「Q・P、おいで。今日も血をちゃんと取らないとね」

 人と少しだけ違うのは、眠る前にベッドに座って、レンドールの指から血を分け与えてもらっていることだけだ。このことは、わざわざボルクやクニミツにも言ってはいない。でも、吸血鬼の生態を知る彼らにも、察しは付いているだろう。
 悪いことをしているわけではないのだけれど……。
 以前からそうだが、合意の上で少量の血液を分けてもらっているだけで、彼の生命活動には絶対に問題にならないことだ。傷もすぐに癒やしている。
 とは言え、レンドールの人差し指の腹を舐めているというのが、首筋に噛み付くほどのインパクトはなくとも、むしろそういうインパクトではないからこそ、目に映る光景として、やや、アブノーマルな気がする、のである。少し言いにくい。
 首筋に噛み付いて摂取する方がいいのかとレンドールに昔聞かれたことがあるが、啜るような大量の血を必要としないことと、人を襲い血を飲む悪しきイメージになるため、現在では首筋からの吸血は推奨されていない。指先がどの吸血鬼でも妥当なラインだろう。誰にも聞いたことがないのでQ・Pも知らないが。

 指先の血が乾くと同時に、ペーパーナイフで裂けた肉も元通りに戻る。何度見ても不思議なことだとレンドールは言った。

「こないだ割れた花瓶の破片が僕の膝に刺さったときに――キミが治してくれただろう?」
「大きな怪我じゃなかったからね。血の一滴分で十分治せる怪我だったからだよ」
「やっぱりあれもキミの『生命力』を使うんだね」
「うん。再生能力を速める源は、みんな血だよ。レンドールが毎日分けてくれるから、ボクはとても『生命力』に満ち溢れてるんだ。少しくらいの怪我なら治してあげられるよ」
「それは良かった。でも、枯渇すると危ないんだよね」
「うん。二度と目覚めなくなっちゃうからね。でも今のボクなら大丈夫。建物に押し潰されちゃったとしても、ちゃんと回復できるよ」
「……想像が、ちょっとグロテスクだね。治せると言っても、怪我はしないように、キミも十分気を付けてほしいな」

 レンドールは苦笑いした。
 実際にやったことではないが、最初にボルクに会ったときに「お前は本当に吸血鬼なのか」と聞かれたので、手首でも切り落として再生したら信じるの? と聞いたことがある。返答は、そこまでする必要はないと首を横に振るだけだったので、そのようなことはしていない。

 吸血鬼の人間と異なる身体的特徴はほとんどない。同族同士であれば血の匂いでわかるが、人間にはわからないらしい。ただ血液の成分が違うので、検査をすればわかるようだ。
 或いは、必要な血が減った代わりに、そういった特徴も薄れたのだろうか。
 朝日に溶けない。十字架も聖水も賛美歌も怖くない。
 自分の血を飲ませることで、相手を吸血鬼にすることはできるが、そのためには多量の血が必要なので、種族を増やす目的として用いるべきではないと言われている。自分の血を明け渡すことも、『生命力』を削ることだ。血が枯渇してしまえば自分は死に至るため、相手を吸血鬼にしたところで意味がないだろう。

 似たような例としては生体の変化がある。Q・Pは昔、自分を『青い鳥』と呼んでくれたレンドールを喜ばせようと、自分の姿を鳥に変化させてみたことがある。レンドールの肩に乗って歌ってあげた。レンドールは驚き、喜んでくれたものの、人間の姿で歌ってくれた方がいい、と言ったので、以降は姿を変化させることはなかった。
 これも、『生命力』を用いた身体の変化だ。血が貴重な現代では、ほとんど誰も変化しない。人間と近いこの姿以外に変化するメリットはないだろう。

「吸血鬼の再生能力の源もこの血なら、キミが大きな怪我を回復するためには大量の血液が必要になるんじゃないのかい?」
「自分の再生に関しては、ちゃんと『生命力』がプールしてあれば多くは必要ないんだよ。人間の再生速度を上げるためには、とても多くの『生命力』が必要になっちゃうけど」

 たとえば瀕死の自分なら容易く回復させられるとしても、目の前の瀕死の人を救えるかどうかはわからない。そもそも、血を利用した再生速度の上昇が、どの程度人間の身体を回復させられるのか不明だ。数分で死に至るような怪我をする人をどこまで救えるのか。おそらく、ほとんどの場合で無理なのだろう。吸血鬼の『生命力』には、死にゆく人を救うような力はない。
 或いはそれを可能とするだけの『生命力』を、自分のすべてを捧げれば――。けれど、仮にそれが可能だとして、その人は回復しても、自分が帰らなくなるだろう。いずれにしても禁じ手と言わざるを得ない。

「吸血鬼のことは知ったつもりでいても、確認してみないとわからないことが多いね」
「参考になった?」
「そうだね。キミたちの特徴をいちいち上げる必要もないとは思うけど――」

 若き名司教レンドールは、教会での仕事の傍ら、これまでに数多くの論文を発表していて、その多くは吸血鬼との共存共栄に関わるものである、らしい。Q・Pも部屋にある資料をいくつか読んでいた。中央教会の反吸血鬼主義――と、声高に叫ぶことはないが実態としてはそうなっている――体制と真っ向から対立する意見ではあるが、その知見は非常に深く、政治的、文化的、そして経済面からの洞察を踏まえた指摘は鋭い。
 中央区以外においては吸血鬼との共存はいわば当然の前提(実際中央区も教会以外の場所での吸血鬼への弾圧はないに等しい)となっていることから、緩和政策を推し進めるべきとのレンドールへの賛同が多く、そうした声に後押しされる形で、レンドールは地位を上げて、現在は司教待遇となっているのである。
 そういった事情はボルクやクニミツからQ・Pは聞いた。何だか知らないうちにすごい人になってしまっている。しかも、吸血鬼との共存を考えて……。

(レンドールはボクのことを大切に思ってくれているんだ……)

 死に掛けたQ・Pがふたたび見た光と呼び声。レンドールは心から、再会を喜んでくれた。怯えて逃げてしまったQ・Pの手をもう一度握ってくれた。
 生まれてすぐに棄てられていたQ・Pは、これまで、自分がこうして生きる意味が何なのかわからないままだった。こうしてレンドールが生かしてくれた命の価値とは何だろうかと考えていた。彼のために、何かを為すことができたら。今はそう思っている。たとえば論文の手伝いでもいいし、日々の掃除や食事だって構わない。歌が好きだと言ってくれるなら歌おう。
 このところQ・Pもひそかにオルガンを少し練習していた。物事を理解する能力は高いとQ・Pは自認しているが、指先に関しては、言うことを聞かせるのが難しい。こればかりは経験の蓄積を待つほかないのだろう。早く弾けるようになって、レンドールを驚かせてあげたい。

「それじゃあ、おやすみ。ゆっくり休むんだよ」
「うん。おやすみ、レンドール」

 穏やかな安寧の日々はさらに数か月続いた。
 Q・Pは完全に教会での生活に慣れて、レンドールのみならず、ボルクやクニミツとも楽しく過ごせるようになっていた。楽しく、と言っても、寡黙で実直な二人なので、談笑をすることが多いというわけではないが、距離感が縮まっていることはQ・Pもちゃんと理解していた。
 レンドールは変わらず、朝早くに起きて教会での仕事を行い、夜遅くまで論文を書いている。心配して、夜に簡単な食事を持って行ってあげたりすると、喜んで受け取ってくれた。
 Q・Pのオルガンもかなり上達していて、通して弾いて聞かせられる日も近いだろう。

 そんなある日のことだった。
 三人がおやつにQ・Pが作ったマカロンを食べていたところに、レンドールは難しい顔をしてやってきた。

「厄介な話が近付いてきたんだ。『吸血鬼狩り』の件で」
「『吸血鬼狩り』? 『悪魔狩り』じゃなくて?」
「『悪魔狩り』は直接的に悪魔を斃すハンターを指すが、『吸血鬼狩り』というのは、実際に襲うこと自体は少ない。『反吸血鬼主義集団』の一部がそう名乗っているだけだ」
「集団の、過激な一部ですね。ですが、吸血鬼を襲う暴徒化している者もいると聞きますので、Q・Pも気を付けてください」
「……吸血鬼を襲うの? 人間が?」

 コミュニティにいた頃に、そういう話を聞かないこともなかったが、逆ならともかく、人間が吸血鬼を襲うことは非常に稀だ。
 なぜなら吸血鬼は身体を回復してしまう。腕や足を切られても再生する。驚異的な再生能力だ。人間の致命傷が致命傷にならない。そんな吸血に危害を加えたとしても徒労だ。多くの人はそう考える。
 まぁ、殴られれば、吸血鬼だって痛いけど。

「お前は吸血鬼にしてはひ弱な方だろう。気を付けた方がいい」
「そうだね、Q・P。不審な人がいたら、必ず僕たちに言うんだよ? ボルクもクニミツもとても腕が立つ子たちだから安心していい」

 と言うか、ボルクとクニミツが人間にしては強すぎるだけなんだとQ・Pは思う。レンドールも、大柄だと思うボルクよりさらに体格が良い人だ。
 そもそも吸血鬼は肉体的にあまり大きな種族ということではない。腕力を鍛えている者が多いということもないのだから。
 再生能力があるからそもそも心配はない。ましてボルクとクニミツは強い。特にボルクは教会を守護する神聖騎士団とも互角にやりあう剣の達人で、神父より騎士団の推薦を受けていたくらいだとレンドールが話していた。クニミツもそのボルクの指導を受けた腕利きだとのこと。

 けれど。
 その話の翌週、隣の区の『吸血鬼狩り』集団が暴徒化し、教会への破壊活動があったため、とても強い二人は、その対応に向かうことになってしまった。

「こちらの教会のことも心配なのですが……」
「暴動は鎮圧されただろう? 中央教会からの監督官もやってくるし、到着するまでの数日のあいだ、彼らの助けになってあげればいいだけのことさ。僕は教区を離れるわけにはいかないから、キミたちに頼むしかないんだ。頼んだよ、ボルク、クニミツ」

 一人は教会に残る方が良いのではないかと彼らは言ったが、隣の教会はステンドグラスが叩き割られ、塔の崩落により負傷者が多数出ていると聞いていたので、レンドールはその救護を優先すべきだと考えたようだった。

 その日の日曜集会は、隣の区での出来事に怯える市民が多数やってきていた。

 ――まさかあんなひどい行いをするなんて。
 ――吸血鬼狩りではなく、人間狩りではないの?
 ――中央教会の見解はどうなっているの? あんなものを野放しにしておくなんて……。
 ――ああ、レンドール司教様、どうか我らをお救いください。

「皆さん、ご安心ください。中央教会からの使者はまもなく到着します。隣の教会の暴徒も捕まっています。神は、我らの行いを見守ってくださいます――」

 Q・Pはレンドールのいつもの説教をじっと聞いていた。不安な心へと真っすぐに届く誠実な声。この声が好きだと思う。

(好き――)

 その言葉は複雑なものだと思う。とても、多義的で。
 例えば初めて出会った頃に。彼の元から逃げるように去っているあいだに。再会して救ってくれたときに。それは、ゆっくりと膨らんでいったように思う。
 こんな自分を大切に扱ってくれる人。身を案じて、心配してくれる人。完璧な品質と言ってくれた人。青い鳥と呼んでくれる人。自分にとってたった一人の――掛け替えのない、大事な。

 ――パリン!

 物思いに耽りそうになったQ・Pの目を覚ましたのはガラスが割れるような音だった。後方からの音にQ・Pは振り返る。西側の窓が割れて風が吹き込んでいた。床に紅いものが転がっている。それが、ぼうっと、木の床に炎を燃え上がらせた。

(火炎瓶……!)

 音はそれだけでは止まない。壁の向こう側から何かを叩き壊すような音。
 壁の向こうから何かが叫んでいる。明瞭には聞こえないけれど。

「レンドール!」

 誰かの叫び声が、すぐに全体へと広まっていった。

「皆さん! 焦らずに外に出てください! Q・P!」
「ボクは火を消すよ。それから奥を見てくるね」
「ああ、頼んだよ。燃え広がったら大変だ。僕はみんなを外へ避難させるから」

 きゃあきゃあとか、わぁわぁとか、さまざまな声が響く。Q・Pは思わず顔を顰めた。つんざくような響きが苦手だ。頭痛がする。だがそれ以上に、教会に非道を行う人間に腹が立っていた。
 火炎瓶は数本投げ込まれただけだったので、広がらないうちに火を消すことはできた。だが、壁の向こうからの何かを破壊しようとするような音は止まない。

(もしかして、最初から狙いはこの教会だったの……?)

 教会にいる吸血鬼。吸血鬼との共存を願う司教。彼らが標的にするには条件が揃いすぎているのではないだろうか。
 最初の教会の襲撃はフェイクで、本命がここなら――。

「……Q・P!」
「ッ、壁が……」

 崩落する。ズシリと音がして、天井の一部が落下した。一体どうして? Q・Pは砂埃が上がる中で目を凝らした。
 レンドールは奥の方にも人がいないか確認しているようだった。ふと控室の方を見ると、オルガンが瓦礫に埋もれずに残っていたので安堵する。花畑は無事だろうか。建物が徐々に倒壊していく。

「レンドール、危ない――!」

 二人を分断するように天井からふたたび剥がれ落ちてきた。

 子供とはぐれてしまったとパニックになっていた女性に、大切な子供の手を握らせてあげて、建物の中にいる人はいなくなった、はずだ。

(最後に確認を……)

 火を消し止めてくれたQ・Pは、レンドールと逆側に目を光らせていた。あちらには、人は入り込んでいないだろう。レンドールも内陣まで戻り、人がいないことを確認する。
 まったく予想外の事態だったわけではない。だから、住民たちも慌てつつ、すぐに建物の外に出るという判断ができたのだ。誰も残っていないことが確認できれば、Q・Pを連れて自分たちも外に逃げよう。

 そう思った矢先に天井が剥落した。ステンドグラスがばらばらと降り注ぐ。避けようもない。死が目前に迫っている、と思った。

(Q・P――)

 彼は、無事だろうか。足を瓦礫に潰されて動けないレンドールの頭上から、ガラスの破片が雨のように突き刺さる。ああ、これは、自分はもう助からないだろう。
 最後に一目だけでも無事を確認してあげたかった、と思った瞬間、消えそうな視界に青い羽がひらりと舞い落ちた。

 砂埃の向こうで、建物が完全に崩壊していく音を聞いた。あの先にレンドールの姿があった。瓦礫を超えていくのが人の身体では不可能だと悟ったQ・Pは、身体を小さな鳥の姿に変えて、レンドールの元に急ぐ。
 レンドールは、崩れた瓦礫に足を押し潰されて、ガラス片にあちこちを傷付けられて倒れていた。

「……レンドールッ!」
「ああ、Q・P……良かった、キミが、無事で……」
「ボクは吸血鬼だから、こんなの平気だよ。そんなことより!」

 血が床を濡らす。血だまりが。いつも見ているレンドールの紅い血が、生命と共に流れ落ちていく。

「最期に、キミに会えて……」
「ダメだよ、レンドール! 死んじゃダメ……死なないで……!」

 ぱらぱらと涙が溢れて落ちる。死なないで。お願い、死なないで。
 ――ううん、死なせたりしない。

(ボクが、助けるから)

 掛け替えのない、人。好きな人。この世界の誰よりも自分にとって大事な――人。
 きっと、自分が生きてきたのはこのためだ。この日のために。彼の命をこの世界に繋ぎ止めることこそが、あの日彼に助けられたこの命の価値。

 まだ生きているのならこの傷を癒すことはできる。自分の生命のすべてを使っても、必ず。レンドールをここで死なせたりしない。
 神様、どうか、この善き人を助けて。祈ったことのない神様にQ・Pは縋るように願った。

(かみ、さま――)

 その、祈りが通じたのかはわからない。けれど、Q・Pが握る手のひらの無数の傷が消えた。それが広がるように、全身へと続く。刺さる破片は溶けて消え、脚に圧し掛かる瓦礫は砂と化し風に吹き飛ばされた。
 血だまりが消えていく。生命の息吹が戻る。彼の鼓動を感じる。
 それなのに。
 自分の視界は徐々に消えていく。意識がほどかれていく。自分自身の手で、自分がばらばらにされていくような感覚がある。
 消える。消えてしまう。

 きっと、これは奇跡だ。
 薄れゆく意識の中で思った。死にゆく人は戻らないのが摂理。だから、これは。

 ある一つの生命を代償として起こす――最高の奇跡だ。

 身体の上に温かな感覚があった。瞳を開いたレンドールは、自分の身体に倒れ込んでいるQ・Pの姿を見た。そして、すぐに事態を把握する。
 自分の死が目前に迫っていたことは明らかだった。そのことは、自分でもわかっていたのだ。
 だから、自分を助けるために、Q・Pが蓄えていた『生命力』を利用したのだろうということも――。

「だ、ダメだ、Q・P! 起きて! 目を覚ますんだ!」

 『生命力』を失った吸血鬼は目覚めなくなる。永劫の眠りのなかで、ゆるやかに肉体が朽ちていく。

(ダメだ!)

 そんなことを自分は望んでいない。彼の命を奪うような形で生き永らえたいなんて、思うはずがない。
 それでは自分は何のために彼を助けたというんだろうか。

(キミと、生きたいから)

 そのために手を掴んだんだ。こんな場所で命を失わせたくない。
 レンドールが指で触れると、Q・Pの頬はもう冷え切っていた。身体から温度が、温もりが消えていく。
 死なないで。目を覚まして。

「目を覚ましてくれ、Q・P――」

 抱き起こして唇を重ねたのは、明確な意図に基づくものではなかった。
 昔読んだ童話の白雪姫、いばら姫のような目覚めを期待して。或いは、真摯に祈りを込めるときの神聖な儀式のように――。

(神よ、どうか)

 奪い去らないで、と。

 風が、通り抜けた。
 彼の長い睫毛がぴくりと揺れる。単なる風の羽ばたきではない。これは……。

「Q・P!」

 まぶたが動く。ゆっくりと瞳が開く。

「レンドール……」
「Q・P! ああ、良かった――! 良かったよ、Q・P……」

 レンドールがきつく身体を抱き締めると、Q・Pはゆっくりと腕を伸ばして、ぎゅっとレンドールの身体を抱き締めた。

 真っ暗な闇の中に落ちていくような中で、耳の中で鳴る音楽があった。
 それは、カンタータ『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』。
 やわらかな感触。それから目覚めよと歌が呼んだ。

 ――目を覚まして、Q・P。

 あの歌が、あの音が、あの声が、Q・Pをもう一度呼び戻してくれたのだ。

 ――半年後。

 崩壊した教会の代わりに昔使われていた修道院を直して作った仮設教会の前を掃いていたレンドールの元に、聞き慣れた声が飛び込んできた。

「ただいま、レンドール」
「おかえり、Q・P! どうだったかい?」
「大丈夫だったよ。今日からボクも神父として認められたんだよ、レンドール」
「キミはさすがだね、Q・P。こんなに早く、神父として中央教会から認められたんだから」

 半年前、レンドールの命を救うために『生命力』をすべて使った『吸血鬼のQ・P』は、あのときに死んでしまったらしい。目覚めたQ・Pは、完全に『生命力』をなくし、吸血鬼の力を失っていた。普通の人間になっていたのだ。
 このような例は他に聞いたことがない。文献の記録にもない。さまざまな検査を受けてみたが、彼は完全に普通の人間で、吸血鬼が人間になったことどころか、彼が吸血鬼であったことすら実証されなかった。

 自分のために吸血鬼ではなくなってしまったQ・Pに、レンドールは申し訳なさを感じていたが、Q・Pは、これからはレンドールと一緒に時を重ねていける、とうれしそうにしていた。
 吸血鬼は完全に不死ではないが、不老だ。肉体の年齢は全盛期で止まる。Q・Pも、あと数年で成長はなくなるだろうと言っていたのだ。

 ――長命のさだめも、不死に近い再生能力も何もいらない。レンドールといられる方がいい。

 Q・Pは、身体に異常がないことを確認すると、すぐに、自分も教会で働けるように神父になると言って猛勉強し、中央教会の認定を受けに行った。そうして今日無事に帰ってきたのである。彼はとても聡明な子だ。成し遂げられるだろうとは思っていたが、こんなに早く、とその優秀さには感心してしまう。
 吸血鬼であった彼は、そのままでは中央教会に認定される神父になることはできなかった。だが、教会に置いてある書物を読み込んでおり、聖書の暗唱や教義理解は十分であった。だからこれは得るべくして得た結果だ。とても喜ばしい。

 本来、神父としての認定を受けたばかりのQ・Pは、これから中央教会での研修を受けて、神父の付き人ととして働き始めるのだが――。

「それじゃあ、キミの準備も整ったから、改めて中央教会に向かおう、青い鳥」

 レンドールは新しく中央教会への赴任が決定しており、Q・Pはレンドールの付き人として働くことが決まっているのだ。

 半年前の教会襲撃事件。レンドールを狙った『反吸血鬼主義』の『吸血鬼狩り』集団は、隣の区から教会襲撃の報を受けてすぐに戻ってきたボルクとクニミツや中央からの監察が招集した神聖騎士団の手で捕えられて、背後に中央教会幹部の『反吸血鬼主義』強硬派がいることが判明した。どうやらボルクやクニミツはそれらの調査の任務も行っていたようで、すべての事情が明らかになるまでに時間は要さなかったのだ。
 それにより、強硬派幹部は責任を問われて失脚し、代わって吸血鬼との協和を望む協和派の幹部が力を付けた。
 レンドールは兼ねてより協和派の幹部と関係を密にしており、今回その大司教より、今こそ『緩和政策』を推し進めるタイミングだと中央教会に招聘されたのだ。

 レンドールも12年あまりを過ごした教区から離れがたい気持ちはあった。だが、それ以上に、このまま手をこまねいているばかりでは、同じような事件がふたたび起こされるのではないか、と危惧していた。教会を安全な人々の心の拠り所とするためにも――、今の自分は、中央教会の改革に加わるべきであると考えたのだ。
 それに、Q・Pは、もはやこの場所に縛られることはなくなった、という理由もあった。

『中央に赴任するから、キミも一緒においで』

 そうレンドールが言うと、Q・Pは喜んで頷いてくれた。そして、自分も神父としてレンドールを手伝えるようにしたい、と認定試験に挑んでくれたのである。試験は中央教会で行うので、向こうで合流しても良かったのだが、Q・Pは一度帰ってきて、教会に別れを言いたいと言ったので、彼が戻るのを待って、二人で向かうことにした。
 ボルクとクニミツは、新しい司教への引継ぎが完了したら、中央教会に戻る予定だ。なので、仲良くなった彼らとも別れずに済む。Q・Pにとっては良い話ばかりだ。

「レンドール、教会のオルガンを弾いてからでもいい? オルガンも向こうに持っていくんだよね」
「その予定だよ。大荷物だからちょっと気が引けるけど、仮設教会では置く場所に困っていたみたいだからね」

 マーガレットの花畑は、建物の倒壊に巻き込まれなかったが、大部分を土足で踏み荒らされてしまっていた。けれど、野生の花は逞しく再生している。手入れなどしなくても、ずっと美しく咲き誇ってくれるのだろう。
 半壊した教会のなかから、賛美歌が聞こえてきた。

「――Q・P、いつのまにその曲を練習したんだい?」

 『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』。
 彼がオルガンに触れているのは何度か見ていたが、曲を練習しているとは思わなかった。

「まだレンドールのようには弾けないけど――」

 弾きながら、歌声が響く。
 賛美歌が空間を、心を満たしていく。
 この瞬間が、好きだ、と堪らなくレンドールは思った。

fin.


エピローグ

「最後にミハエルに聞いておきたいことがあって」
「オイオイ、最後って何だよ」

 えらく真剣に自分を見つめるQ・Pの刺さるようなまなざしに、ミハエルはややたじろいだ。
 自分より少し年下のこの少年と出会ったのは、もう随分と前の話なのだが、彼は何一つ変わらない。凛とした表情とまなざしで、背筋を伸ばして生きている。まったく表情が変わらないので彫像の如き麗しさだ。

 半年前に身を寄せていた教会が破壊活動に遭い倒壊、それに巻き込まれて瀕死の重傷を負った司教様を助けるために力のすべてを明け渡し、目覚めたら自分は人間になっていた。

 で、その久しぶりに会ったQ・Pが語った近況がこれである。何だそりゃ、とミハエルは思った。聞いたことがない。吸血鬼が、人間になるなんて。
 吸血鬼と人間は見た目が似ているが、それから体組織体組成も同じで違うのは血液だけ――らしいが、何もかも良く似ているが、同じ種族ではない。人間と吸血鬼はまったく別の存在だ。
 だから、Q・Pが何を言っているのか理解できなかったが、吸血鬼特有の血のなかにある匂いがなくなっていたのは事実だった。たしかに仲間だったはずの彼は今や、人間だった。

 そもそも、瀕死の重傷を負った人間をほぼ生き返らせるという話だって聞いたこともない。吸血鬼が人間の再生能力を速めるのは、血を貰う際に自傷と伴う必要があるのでそれを治癒するためだ。もしそんなことが可能になるのなら、人間の病院には吸血鬼を常駐させるようになってしまうだろう。
 だからこれは奇跡であって、本来ありえないことなのだ。

「それで、ボクが目覚めたときのことなんだけど」

 Q・P自身、それが奇跡的な出来事だと考えているようで、あまり口外しないでとミハエルにもあらかじめ言っていた。もちろん本人を知っていなければ信じがたいこんな出来事を、ミハエルは他に語る気はない。せいぜい嘘を言ったように冗談で話すくらいだろうか。知り合いの吸血鬼が人間になったんだって!(嘘)
 いや、本当にQ・Pって吸血鬼だったんだよな? ミハエルは今でも人間になったという話を信じられない。
 だがQ・Pはそんなこと気にしていないようだった。

「……されたような気がしたんだ、レンドールから」
「何を?」
「キス」

 ミハエルは、はぁと首を捻った。今そういう規模の小さな話をしていたんだったか? 己の身に起きた奇跡よりもそれは重要なことか?

「どう思う?」

(ま、重要なんだよな)

 あっさりとミハエルは納得した。
 Q・Pから『レンドール神父』の話をミハエルは聞いたことがある。それは大切にしている宝石を取り出すようにQ・Pが語る、憧れの、美しく尊い思い出のようだった。
 自分を助けてくれた人。温かな時間をくれた人。大事な大事な特別な記憶。
 ひとりきりで生きてきたQ・Pは、その特別を握り締めて生きてきたのだろう。死にそうになったQ・Pがいなくなったのを知ったときにミハエルは、きっと彼の語る教会に行ったんだ、と思った。そこから一か月ほどして、ぺらりと一枚一言『元気にしてるよ Q・P』と紙が送られてきたときには、さすがにこの一枚きりは薄情だろ、と笑った。そしてとても安堵した。良く覚えている。
 どうやら恋焦がれる神父様のところに辿り着けたらしいなと思っていた。

 Q・Pが救った瀕死の重傷の司教様というのは、その彼の尊い思い出の人なのだろう。
 若いけれどとても優秀な人で、とQ・Pは言っていた。そんな憧れの人から、目覚めの口づけを――それが事実にしてもそうでないにしても、Q・Pも浮足立つことがあるんだなとミハエルは感動した。いや、ちょっと表情が変わらな過ぎて情動がどこにあるのか見定められていなかったものだから。

(つってもな)

「Q・Pは意識がなかったんだろ?」
「うん。多分死んでたと思う」
「サラッと言うなよ。なら、何でわかったんだ?」
「起きる前に、そういう感触があったような気がしたから。それで目を覚ませたような気がして……」

 ミハエルは両腕を組む。Q・Pの想い人は、Q・Pの語話を聞く限り、かなりQ・Pを大事にしているようだ。
 表情こそ変わらないがQ・Pは綺麗な顔立ちをしている。クールな雰囲気も異性には受けるだろうし、そこそこモテるだろう。そういうことを言ってるとジークフリートあたりがまた「俺も彼女が欲しい!」とか喚くような気がするが。ジークももう少しあのクールさは見習った方がいいな。
 レンドール神父も、そうなのかも知れない。Q・Pが惚れてるのは確実として、結局のところ両想いなんじゃないかと思う。
 ミハエルは多くの人間との恋愛経験はないが恋愛経験自体は豊富にある。アストリットは世界一可愛い。

「お前はそういうことで誤解するタイプじゃないだろ、Q・P。なら自分の直感に従えばいいと俺は思うぜ」
「……! うん、ありがとう、ミハエル」
「どういたしまして、っと。だが、何だって最後なんだ?」
「ボクはこれから中央区に行く予定だから。もうミハエルとも会えなくなると思って。今までありがとう」
「Q・P、そりゃ……」
「――Q・P! そろそろ話は終わったかい?」

 急に大柄な神父服の男性がQ・Pの元にやってきた。

「レンドール」

(ん? レンドール神父って……男なのか?)

 しかも、自分よりも結構年上の男だ。ミハエルは驚いた。Q・Pがあれほど憧れるようすを見て、恋焦がれているのを見て、何となく頭が勝手に、美しい女性司教を思い浮かべていたのである。
 大分想像と違った。そうか、神父ってやっぱり基本男になるのか。教会のことは良く知らないから、何となく女性でも役職名は神父になるのかくらいの感覚でいた。それに若い神父と聞いていたから、もう少し自分たちにも近しい年齢を浮かべていた(後で聞いたところによると司教としては相当若いのだそうだ)。
 つまりこの大柄な(ミハエルも大きいので大差はない)男が、Q・Pをこれまで助けてくれて、Q・Pに、目覚めの……。

(それは、もしかすると、違うのかもな……)

 Q・Pが浮かれた勘違い的誤解をするようなタイプじゃないことは間違いないんだけどな。

「あーっと、Q・P。お前に言ってなかったが、アストリットがいるのは中央なんだ」
「そうだったの?」
「ああ。中央に行くのは心配するヤツが多いから、あまり公言してなかったんだが、たまに消えてるときはそっちに行ってた。つまり、最後じゃなく、またそのうち会えるだろってことだ」

 それから、とミハエルは会ったばかりのレンドール神父の肩を掴んで耳元で囁いた。

「Q・Pをよろしくな。アイツはアンタに惚れてるから」
「……え?」

 ミハエルは笑って二人に手を振った。

「レンドール? ミハエルは何を言ってたの?」
「え? あぁ、えーっと、キミをよろしくって」
「ミハエルが? 変なの」

 レンドールとやってきた中央教会――正確には中央大聖堂は、かなり広い建物だったが、神父の活動は変わらない。朝昼晩の礼拝、聖堂の掃除、食事、集会、説教、告解、就寝。
 司教は地方教区の長となるが、中央教会の所属する中央区は他の教区よりも重要が高いため、司教ではなく中央大司教が教区長を務めている。その他の教区は複数の地方教区をまとめて西方大司教の西方教区、東方大司教の東方教区、北方、南方と各大司教下にある。
 教区を統括していた司教のレンドールは、所属する教会以外の教区教会を管轄していたので、他の教会の報告書等を確認する多忙な立場にあった。中央教会に来たことで、その統括業務はなくなったのだが、代わりに幹部会やら研修会、政策協議などに関与していくこととなり、当然ながら忙しさは増していた。
 彼の付き人であるQ・Pは、スケジュール管理とか、身の回りの世話だとか、代わりに雑務をこなすのが日課だ。

 中央教会の司教ともなれば、他の神父との宿舎での共同生活ではなく、家が与えられているので、Q・Pもそこに住んでいる。持ってきたオルガンは日の当たる温かい吹き抜けに置かれているのだが、陽ざしが当たると日焼けして悪くなるかも知れないとの懸念があった。
 オルガンを弾きながらQ・Pは考える。

(やっぱり勘違いかも知れないし)

 半年も頭を悩ませていた。いや、常に考え込んでいるということではない。ただふとした瞬間に頭を過るのだ。本当はどうだったのだろうか、と。
 Q・Pはレンドールを慕っている。尊敬している。憧れている。深く心を寄せている。多分――愛してる。
 曖昧になってしまうのは、自分が今までそれを経験したことがないからで。
 でも、時折彼を見ていると、胸が苦しくなって、あのときみたいに強く抱き締めてほしいと思うようなことがあるから。
 多分それは愛なのではないかと推測することしかできない。

 そして口づけは、愛する人にするものだ、と。
 だからそういうことが本当にあったのなら、それは多分、レンドールもそう思ってくれている、つまりは、愛し合っているということになるのでは、と。

 思い悩んでいると運指をミスしたのでため息をこぼす。
 楽譜や指を見ずに弾けるようになったのはいいけれど、今度は鍵盤を叩いているときに頭が余計なことを考えてしまう。実際Q・Pが思い悩むのはオルガンの前にいるときが多いのかも知れない。仕事中にまで思い耽っているようなことはない。

「Q・P? まだ寝ないのかい?」
「そろそろ寝るよ。……おやすみ、レンドール」
「おやすみ、Q・P」

 二人は日々を穏やかに過ごしている。仕事は忙しいが、プライベートの時間がないというほどではないし、食事も睡眠も規則正しく生活をしている。
 でも、何というか、それだけなので、やっぱり。

(ボクが勘違いしてるだけかも知れないよね)

 どうなりたいと願っていたつもりはなかったのに。でも。もしかしたら。と期待を抱いてしまうのはなぜなのだろうか。
 二度、いや三度死に掛けた自分をレンドールは救ってくれた。居場所をくれた。傍にいていいと言ってくれた。ただそれだけで十分だと思いたい。Q・Pはふるふると首を振って、電気を消した。

 会議が長引いているのだろうか。
 今日の予定はこれで終わりなので、Q・Pはレンドールを待って帰るつもりでいたのだが、一向に会議室のドアが開かない。すでに何人か出て行ったのは、すでに会議が終わったということなのだろうかと考える。

 会議室のドアは薄っすらと開いていた。遠くから人の声が聞こえる。レンドールの姿ももちろん見える。

(穏健派の教会幹部……)

 協和派のレンドールは、穏健派とのわだかまりを解消して、教会の意志をできる限り統一していくべきだという話を、協和派の幹部としていた。
 もともと強硬派や穏健派というのは、吸血鬼政策の問題に限っての立場の違いではなく、教会政策全般のことだったようだが、強硬派の幹部が『反吸血鬼主義』の教義に傾倒してから、その思想の仲間が増えてしまい、今ではその立場の違いばかりが俎上に上がるのだが、本来はそうではないはずだ、とレンドールは語っている。
 要するに目先の話に囚われて、本質の議論が進まなくなることが問題なのだろう。

「ですからね、ウチの娘はどうかなと思いましてね。いやこれが、なかなかの美人なんですよ。ハッハッハ、親馬鹿と良く言われますが、レンドールさんのお眼鏡にも適うんじゃないかなと。もちろん、レンドールさんほどの人格者であれば、娘の結婚相手として申し分ありませんからね」
「いえ、僕は、そういうつもりは」
「何を仰います! あなたも中央に戻ってきて、そろそろ頃合いでしょう? 今は付き人がいるそうですが、まぁ、あんなのはいつまでも置いておくものではないでしょう? そうなれば、広い司教邸をひとりで維持するのは大変ですからね。そういうのは、うちのにやらせましょう。いや家事も得意なんですよ、本当に。我々穏健派とそちらの協和派との結びつきを、ここで強化しようじゃありませんか――」

 Q・Pはきゅっと手を握った。
 それから扉に背を向けて、走って家に戻った。

 何だかまた自分がとてもレンドールの邪魔をしているような気がしたのだ。
 本当は、この広い家には、彼とその家族が住まうべきなのに。

(やっぱり、勘違いしただけだ――)

 それでいいんだ、とQ・Pは小さなトランクに洋服を詰め込んだ。ほとんど私物のない部屋は、すぐに、やってきたときの状態に戻っていった。

 なかったことにしておこう、と積極的に思っていたわけでもないが、積極的に思い出さないようにしていた。
 テンションが上がって隣の人に抱き着いてしまったとか、人目を憚らずに泣いてしまったとか、そういう……。
 日頃からそういうことをしたいと思っていたのではない。あのときは必死だったのだ。Q・Pが、また、自分の前から消え去ってしまうのではないかと思って。

「ご提案はありがたいと思います。ですが、僕には――、心に決めた人がいるんです」

 そう口にしたときに、その言葉は嘘ではないとレンドールは思った。縁談の話なんてひとつも必要ない。ただ、自分は――。

(僕は……)

 それと同時に、話を終えてから、何だかものすごく、嫌な予感がした。いわゆるひとつの既視感とでも言うような。いや既視感は実際にあったことではないので、本当にあったことを思い出すのは既視感ではない。
 何だか、同じようなことが、以前にもあったような――。

 それでレンドールが慌てて家に戻ると、トランクを抱えて家を飛び出そうとするQ・Pと出くわした。

「どこに行くんだい、Q・P!」
「……! レンドール……」

 レンドールはトランクを掴むQ・Pの手首をぎゅっと握った。所在なさそうなQ・Pのアイスブルーの瞳には影が落ちている。
 ――予感が当たって良かった。
 いや、当たらない方が良いのだが、とりあえず最悪の事態を免れたのは良いことだ。
 それにしたって、どうしてQ・Pは聞かなくていい話ばかり聞いてしまうのだろう。

「どうして、出ていこうとしたんだい」
「ボクの所為で……ボクがいると、レンドールの邪魔になると思ったから」
「さっきの話を聞いていたんだね?」

 Q・Pは小さく頷いた。

「縁談はもう断ったよ。最初から受ける気はなかった。キミが気にすることじゃないし、キミがここに住んでいるからでもないんだ」

 Q・Pは、首を横に振った。

「……ボクは宿舎を借りるから。大丈夫だよ」
「Q・P」

 ――アイツはアンタに惚れてるから。

 受け流した言葉がつと蘇る。

 ――僕には心に決めた人が……。

(僕は――)

 細い身体を抱き締めると、トランクが指先から落ちる音が響いた。Q・Pの腕が、求めるようにレンドールの身体を抱き締める。

「キミがいるから断ったんだ。僕はキミの他に家族が欲しいと思ったことはないよ。キミに、ずっと傍にいてほしいと思ってる」
「レンドール、ボクも……」

 Q・Pは背を伸ばして顔を上げて、レンドールの唇に触れた。自分の感情をその瞬間に込めるように。
 そのとき、あの日口づけたのは――やっぱり、キミが好きだからだ、とレンドールは思った。その思いが、腕のなかのお姫様を目覚めさせてくれたのだ。
 それなら。

「――キミが好きだよ」

 それなら、王子様とお姫様はそれからずっと幸せに暮らしました、でいいのだろう。
 それこそが、求めていたハッピーエンドだ。
 温かな口づけを交わしながら、そんなことをレンドールは思った。


趣味でいつもよく書く吸血鬼パロです。

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