――お誕生日おめでとう、可愛い子。私の●●。今日はあなたにとっての素晴らしい日、あなたにとって、最高の幸福な一日になるわよ。
――ありがとう……ママ。
見たことのない夢を見た。見たことのない、聞いたことのない、知ることのない……夢。
――おめでとう、Q・P。
それからやっぱり聞いたことのない声を聞いて、目を覚ます。何かの感傷が自分の胸にあるとはQ・Pは思っていなかった。思っていない。ただ。
(コーチの、声……)
彼にそう言われたことはないけれど、そう言ってくれている声はきっとどこかにあったのだろう、と思う。
16の誕生日の日、いつものようにQ・Pは学校に行って、テニスの練習をして、寮に帰った。
「ほい、Q・P。今日誕生日だろ? いつものプレゼント」
GTAの友人ルイスが部屋にやってきてQ・Pに渡してくれたのは、ヴェルタースオリジナルの3袋だった。
「ありがとう、ルイス。うれしいよ」
「うれしいってのが本気なのは俺もわかるけど、なんか他にねぇの?」
「ないよ」
きっぱりとQ・Pが言うと、ルイスは肩を上げた。ルイスがこれをプレゼントしてくれるようになったのは、いつからだっただろうか。
そして、この飴を見ると、誕生日とあの人のことを思い出すのは――。
(――レンドール)
11年も前に見た顔を、聞いた声を、今もQ・Pは覚えている。忘れたことがない。彼がしてくれたことを。青い鳥のシーソーも、壁に増え続けていた数字も――清掃員姿の彼のことも。
彼が今どうしているのかということを、手元のスマホで調べてみたら出てくるのだろうかと考えたことはあるが、Q・Pは、それをできないままでいる。
怖いと思っていた。彼がコーチの職を降ろされたのが自分の所為だということをQ・Pは知っている。彼は、レンドールコーチは、そのことを恨むような人ではないとわかっているけれど、彼が今をどのように過ごしているのか、もしそれが不幸せだったらきっとそれは自分の所為だ――と。それを突き付けられるのが、怖かったのだ。
Q・Pは甘い飴の袋をじっと見た。10年前の誕生日、青い鳥のシーソーがいつものように傾いている傍に、この飴が6つ置いてあった。あの場所は秘密の場所だったので、二人の他に知る人はいない。だからそれは、レンドールが置いてくれたものだろうと思った。
その頃レンドールからの指導を受けるようになって半年以上が経過していて、Q・Pは、彼は信用してもいいのではないかと感じるようになっていた。誰かのように、拾ったあとになって「いらない人形」などと言って自分を棄てようとしない。自分が彼に話しかけなくとも、信用しなくとも、心を開かなくとも――レンドールは自分を諦めたりはしない。彼はきっとそういう人だろうと考える気持ちはあった。だが、生まれてからずっと「いらない」と周囲から言われてきたことで、Q・Pの心は凝り固まってしまっていて、素直に彼からの指導を受ける気持ちにはなれないという感情が、それを上回ることはなかった。
結局それがレンドールからきちんとした指導を受けられはしなかったのだという今に続く後悔に繋がっている。全部自分の所為だ。レンドールの身の災いも、全部、全部自分の所為。
ただ、その頃のQ・Pも、差し出されたものが好意であると信ずることはできた。だから、その飴を持ち帰って、小さな部屋で、口に入れてコロコロと転がした。そのときに涙を流して感動することはなかったけれど、これまでに嗜好品の類を一度も貰ったことがなかったので、その甘い味を、優しいあの人の好意をずっと忘れられなかった。多分、生涯忘れないだろうと思う。
飴の数は翌年に一つ増えて、また翌年にもう一つ増えて――それで終わり。Q・Pは自分で自由に使えるお金を得られるようになってから、部屋にその飴を置いておくようになった。何の意味もない。食べるたびに思い出すわけでもない。単なる感傷だ。とても、とても、とても、甘い感傷。
もし今の彼がどうなっていたとしても、自分が世界に名前を轟かせるようになったのなら、きっと……。
(喜んでくれるよね、レンドール)
その時こそ、「おめでとう」と彼は言ってくれるのだろう。Q・Pはそう思っていた。
*
その翌年、17の誕生日の朝も、やっぱりいつもと変わらない朝だった。
もう夢も、幻聴も聞こえない。自分自身の手で全部振り切った。全部終わったのだ。やわらかな恋も、切ない愛も、すべて終わり。ひとりでも、これまでのように前を向いてひたむきに走り続けていれば、いつかはどこかに自分は到達できて、きっとそれを、彼は見ていてくれる。それを信じているだけだ。
それだけ――。
――お誕生日おめでとう、Q・P。
そう思っていたその日に、レンドールはまた、Q・Pの元に来てくれた。誕生日を祝ってくれるために。
そして。
――僕の青い鳥。
その日思い焦がれていた人とQ・Pは結ばれて、二人で誕生日を過ごして、誕生日は幸福な一日なのだと初めて知った。初めてそう思った。
だから、レンドールにもそう思ってもらいたいとずっと考えていた。
*
『明日は監督の誕生日だろう?』
「えっ……!」
その日ボルクがさらりと教えてくれた情報にQ・Pは驚愕してしまった。
(あ、明日?)
『……知らなかったのか。たまたま聞き知っているだけだが、話してみて正解だったらしいな』
「ありがとう、ボルク。助かったよ。今度何か作りに行くからね」
『ならばSUSHIがいい』
「了解」
Q・Pは電話を切って愕然としていた。レンドールと恋人になってそれなりに時間が経過しているのに、そのことを初めて知った。Q・Pは恋人の誕生日を知らなかったのだ。
慌てて検索すると、Wikipediaにも載っていたので、Q・Pは肩を落とした。まさかそんなことがあるなんて、思ってもみなかった。
レンドールはQ・Pの誕生日を知っている。
生まれたことに果たして意味があるのか、これまでその日付に意味があるのかもわからないような日であったが、その日にレンドールと結ばれたこともあって、今では大切な日付になった。レンドールはとても素敵な誕生日プレゼントを贈ってくれて、今でも大きなテディベアのレンドールが部屋に戻ればいつも傍にいる。
なおボルクからはなぜか白いエナガのマスコットを貰ったので、青い鳥じゃないんだ? とちょっぴり困惑したが、そのマスコットやレンドールからお土産に貰った青い鳥のマスコットもテディベアの傍にいる。
レンドールの誕生日にも当然素敵なものをプレゼントしたいとQ・Pは考えていた。年齢差を鑑みて、高額なプレゼントを選ぶということは望まれていないと思うのだが、気持ちのこもった品物と、ケーキや食事を振舞うことは絶対に必須だ。
そのために誕生日の日付をちゃんとリサーチしていなかったのは迂闊。あまりにも明確な落ち度だった。恋人になれたことで浮かれていた、と言ってしまえばそうだろう。間違いない。たとえば自分の誕生日に、レンドールはいつ? と聞くだけで良かったのに。
(明日は平日、だけど……)
Q・Pはその日の電話で慌てて翌日のレンドールの予定を抑える必要が出てきてしまったのだった。
「レンドール、明日は誕生日なんだよね?」
『……ああ、そうなんだ』
Q・Pは首を振った。
「用事は?」
『キミを招こうと思っていただけで、他にはないよ。そういえばキミに誕生日を伝えていなかったね』
そうだよ、とQ・Pは心の中で思った。タイミングがなければ誕生日の日付なんてわざわざ確認したりしないものだ。昔は、喋るようなこともなかったのだし……。
(ッ、でも、ボクも聞かれなきゃ言わなかったかも知れない)
たまたまレンドールがそれを知っていたというだけで、多分、彼が知らなければわざわざ「ボクの誕生日は3月4日だよ」なんて、言わない。言うわけもない。ただ恋人になったのなら、ちゃんとリサーチしておけば良かったのだ。
誕生日は? 身長と体重は? 好きな食べ物は? 趣味特技は? 指輪のサイズは――? とか。
「じゃあ、明日は学校が終わったら家に行ってもいい?」
『もちろん』
「ッ、良かった……じゃあ、前にはレンドールが用意してくれたから、ケーキと夕食はボクが作るよ」
『気にしなくてもいいよ。ケーキは僕が』
「ボクに作らせて、レンドール」
Q・Pはふるふると見えないのに首を横に振った。青いスマホをぎゅっと握り締める。
ただの自己満足だ。誕生日のお祝いなら自分で準備するものだとレンドールも思っているだろう。でもQ・Pは、自分のために彼がしてくれたことを返したいとずっと考えていた。そのためには、食事やケーキを自分で作ってあげたい。
『……うん、わかった。早めに伝えておかなくてごめんね』
「ボクも確認すれば良かっただけなのに。……ごめん」
『謝るのはもうナシにしようか。それじゃあ、明日は楽しみにしてるよ』
「うん……」
(でも――)
電話を切って、Q・Pは大きくため息を吐いた。レンドールに、ちゃんとしたプレゼントを渡したいと思っていたのに、急すぎて準備できそうにない。
どういう物が良いか考えてはいた。日常的に使えるもの。たくさん使ってもらえるようなアイテム。レンドールはいつもスーツだから、それに見合う品物を――。
(デパートだってもう開いてないし、明日は……学校を、休むなんて)
Q・Pはワールドカップの関係で不在であった以外で学校を休んだことがない。学生の本分は学業で、それを疎かにしてはならないと思っていた。レンドールはきっと、学生には真面目に勉学に励んでほしいと思う人だろうから。
彼が言ってくれたQuality of Perfectという言葉の意味を、Q・Pは十分に理解している。だからテニスだけではなく、学業でも何でも、そうであろうと常に務めている。もしも欠けてしまったら、自分にはそう名乗る資格がなくなってしまうから。
(どこか、夜でもやっている店があるかも……)
Q・Pは窓を開けて、そこから出ようとして、躊躇った。いや、でもこういうことをするのは、寮の規則に反することで、それをしたらやはり完璧ではいられないのではないだろうか。そんなことをするくらいなら、学校を休んだ方が――でも、そうして用意したプレゼントを、レンドールは喜んでくれるの?
遅れて渡してもレンドールは気にしないだろう。どうせ全部自己満足だ。でも、好きな人の誕生日に、暗澹とした気持ちでいたくはないと思うのに。
「おーい、Q・P。どうしたんだよ」
「……ルイス?」
「窓開けて、じーっと外なんて見て。何? 悩みごと?」
ルイスの部屋はQ・Pの隣だ。彼は窓から顔を出している。
「こっから落ちても死なないけどさぁ」
「死なないよ」
「思いつめた顔してんじゃん。いやまぁ、雰囲気が?」
「悩んでるけど、死にたいって意味じゃないから」
「何? Q・Pの悩みって」
Q・Pは隣の窓から身体を覗かせる友人の顔をじいっと見た。
「……ボクの恋人の誕生日が、明日だって、今さっき聞いて」
「えっ、マジ? ハハッ、急じゃん」
「うん……。聞かなかったボクが悪いんだけど、急すぎて、何も用意できそうにないから、悩んでたんだ」
「それで寮を抜け出して買うつもりだったって? こんな時間じゃどこもやってないよ」
「だからずっと悩んでる」
「こっち来いよ」
「え?」
「俺の部屋。何あげるか決めてんの?」
Q・Pはぱちりとまばたきをした。月の光が友人を照らし出している。
「力になれるかもよ?」
具体的にどういうことかはわからなかったが、ここで真っ暗な外を見ていても致し方がない。Q・Pは部屋を出て隣のドアをノックした。
「で、どういうのがいいん?」
「――カフスボタンとネクタイピン」
それは何度か想像していたアイテムだった。アクセサリーは普段使いしにくいし、時計なら、高級そうなものをいつも付けている。ネクタイもスーツに合わせたものを身に着けているので、そこに合わせるのなら、カフスボタンとネクタイピンだろう、と。
品物にもよるだろうが、基本的には値段も高すぎず、ちょうどいい価格帯のはずだ。
「フーン、なるほどね。どういうのがいいとかある? 画像見てみる?」
ほい、とルイスは商品の画像をタブレットで見せてくれた。
「ルイス、ここで選んでも」
「まあまあ。ほら、どういうのがいいのか選んでみなって」
「それなら――このシンプルな青い石が付いたデザインかな」
「おっ、誕生石か。いいじゃん。んなら、これにするか」
「ルイス、だから」
「大丈夫だって。明日の放課後、出かけるまでに間に合えばいいんだろ?」
「そうだけど」
「平気平気。うちの執事に頼んで届けてもらうからさ」
「えっ……、執事……?」
「おうよ。Q・P、学校サボんのイヤだろ? 俺は別にどうでもいいけど、俺がサボんのも気にするだろうし、別の人に買ってきてもらったら万事解決するじゃん」
「でも」
「代金はお前が払えばいい。そしたら買ったのは間違いなくお前だ。ネットで頼んで届いたものだって、ちゃんと自分が買ったものだろ? ま、執事代は――送料無料ってことで」
「いいの?」
「いいに決まってんだろ! てか俺が言い出したんだぜ? 気にすんなよ、Q・P。なんか、たまには俺の顔が見たいってアイツも言ってるからさ、ちょうどいいと思ってね」
「執事が?」
「おうよ」
世界が、かなり、違う。
Q・Pはあまりそういうことを考えたりはしないのだが、はっきりと、彼は裕福な資産家の家に生まれているのだと実感した。でも、この好意に甘えるのは許されることなのではないか、とも思う。これは緊急の要件なのだし。
「それじゃあ、お願いするね、ルイス」
「おう! 他に見なくてもいい?」
「平気。さっきので決めたから」
「ハハ。お前って、決断力があっていいなぁ。んじゃ放課後に持ってきてもらうから」
「ありがとう、ルイス」
「いーっていーって。俺なんかいつもヴェルタースオリジナルだし」
「ボクの誕生日のこと?」
「あーいや、何でもないない」
ルイスはひらひらと手を振った。
思えばQ・Pは誕生日の祝い方なんて誰かに教わったこともないし、誰かを呼んで祝ったこともない。皆が当然のようにしていることに触れてこなかった。ルイスは自分の誕生日になるとカップケーキをQ・Pにもくれるというのに。
次の誕生日は自分でもカップケーキを用意しようか? とQ・Pは考えていた。
*
翌日の放課後、ルイスに呼ばれて校門に行くと、身長の高い眼鏡の男性が立っていた。
「よーっす! サンキューな、ジョン!」
「ご無沙汰してございます、坊ちゃま」
(坊ちゃま)
住んでいる世界が違う。
「そして、坊ちゃまのご学友のQ・P様ですね」
「『様』はいらないよ。付けないで」
「それではQ・P。こちらがお探しになっていた品物でございます。ご確認くださいませ」
「ありがとう」
Q・Pは受け取った箱を開いた。中には青い石のネクタイピンとカフスがきらきらと輝きを放ちながら収まっている。
これを、本当に? と、Q・Pは少し逡巡した。
「お間違いはございませんか?」
「間違いないよ。だけど……」
「それではこちらに包装したものがございます。どうぞこちらをお渡しください。お代につきましては、後ほどご請求書を送らせていただきますので、本日はお気になさらないでくださいませ」
「えっ? これを渡すんじゃないの?」
「こちらは中身の確認のためにわたくしどもがご用意したものでございます。お渡しする前にご自分の目で確認されたいかと思い、ご用意いたしました。念のため、ご請求金額にも含まれていないことを申し添えさせていただきます」
「こっちだけで十分なのに」
「気にすんなって、Q・P! 間違ってたらご主人にどやされんだから、こういう仕事なの、ジョンはさ」
Q・Pは、非常に困惑した。
「別にジョンのポケットマネーで買ったんじゃないんだから。ちゃんと、どっちもご主人が金出してるわけ」
「左様でございます。わたくしは旦那様を通して坊ちゃまからの命を受けております。その命は、Q・Pにこちらの品物をお相手様にお渡しできる状態で準備することでございます。ですので、品物の確認は当然のことでございます」
「説明をありがとう。でも、それならボクが今確認したものはどうなるの?」
「ま、いらんから捨てるしかないと思うけど」
Q・Pは頭がクラクラしてきた。
「……Q・Pが貰ってもいいぜ、別に。だよな?」
「もちろんでございます。Q・Pにお受け取りいただければ、旦那様も坊ちゃまもお喜びになるかと」
(住む世界が違い過ぎる……)
こんなに話していて気が遠くなりそうになることは初めてだ。
Q・Pは赤ん坊の頃にGTAに引き取られてから、金銭的には不自由な暮らしをしていない。テニスをするのに一切の不自由がないどころか、最先端のトレーニングを受けられている。だから一般に想像されるような孤児よりも恵まれた暮らしができていることを自覚していた。
それでもやはり富裕層とは暮らし向きが違う。まるで違うのだ。
それを羨ましいと思ったのではない。ただそこに横たわる事実に気が付いてしまっただけだ。
「Q・P?」
「ボクにはこれを貰う理由がないよ」
「理由ならある。これはお前へのプレゼントなんだ。コイツは俺の自己満足なんだよ」
Q・Pは手元のネクタイピンとカフスを見た。正直に言えば、レンドールと同じ品物が手元にあるということはうれしい。
ボクはいらないものはいらないから、と最初にルイスに言った。だからヴェルタースオリジナルをくれたら十分だよ、と。
Q・Pは手元に物が増えることを好んでいなかった。ヴェルタースオリジナルのことは、本当に好きで、常備しておくから、貰えればうれしいと思っていた。でも。
(あげたいと思う気持ちがあるんだ)
自分にも。そして、きっとルイスにも。
「ダンケシェーン。受け取るよ、ルイス。それからジョンもありがとう」
「お喜びいただけましたら何よりのことでございます」
「話が早かったけど、ジョンはルイスに会いたがっていたんだよね? 学校でのルイスの話をしようか?」
「えっ、Q・P、ちょっと」
「宜しいのでしょうか? 坊ちゃまより、Q・Pに閑話は厳に慎むべきと伺っておりましたが」
「それですぐに本題に入ってくれたんだ。ありがとう。でも大丈夫、まだ時間はあるから」
目の前の人の誠心誠意という姿勢には、こちらも誠意を持って応えるべきだ。それもQ・Pがレンドールから学んだこと。完璧であるために必要な姿勢だ。
Q・Pは学校や寮での友人について、簡潔に執事に伝えた。ルイスは嫌がっていたが、概ね気恥ずかしさから来ているらしいので、本気で止めようとはしていない。
すらりとした爽やかな執事の青年は、見た目から考えるとレンドールよりも若そうだ。丁寧な言葉づかいで、静かに相槌を打ってくれるので、話しやすい。執事の仕事としては、こういった話しやすさや丁寧な対応も必要なのかも知れない。
「――本当に、ありがとうございました、Q・P。坊ちゃまのこちらでのご様子を知ることができて、わたくしは望外の喜びでございます」
「大袈裟なんだよ、ジョン! ちゃんと電話してんだろ!」
「勿論、坊ちゃまのお話を聞いて日々の暮らしへの想像力をわたくしも働かせてはおりますが、他の方からの客観的なお話をお聞きすることで、さらに坊ちゃまの日々の暮らしへの理解が深まるのでございます」
「あーほら、用事が終わったら帰る帰る。Q・Pだってそろそろ行くだろ?」
「うん、そろそろ迎えに来てくれる時間だから」
「ん。じゃ、また明日な。監督にもよろしく」
「本当にありがとう、ルイス!」
Q・Pは受け取った二つを持って、レンドールと待ち合わせしている駅の方に向かった。ちょうど出かける用事があるから車で寮の近くに寄っていくよ、と言われたので、わざわざ断る理由もなかったのである。
(いろいろあったけど)
こうして無事にプレゼントを手に入れることができた。昨夜は沈んでいた気持ちがすっかり明るくなっている。相談してみて良かった、とQ・Pは思った
*
37歳にもなると、誕生日なんて楽しみではない。
――というほど年齢に悲観してもいないが、少なくとも「誕生日を一緒に過ごそう」なんて、若くて可愛い恋人を家に誘うのに躊躇いが生じてしまうのは事実。皆、誕生日なんだからと気軽に誘っているというのに。
けれどそんな些細な逡巡が原因で、可愛い恋人が自分を祝いたいと思ってくれていた心を傷付けてしまったらしいとレンドールは心配していた。本当に彼と過ごしたいと考えていたのは事実で、でもその日も翌日も平日だから呼び出すのは難しいかなと悩んでいただけだったのだ。
だから、車に乗ったQ・Pの表情がいつもと変わらず(Q・Pの表情はいつも美しく変わらないが)、さらにその雰囲気も落ち着いていたので、レンドールはほっとした。自分の誕生日祝いなんてものより、可愛い恋人がその顔に暗い影を落としていないことの方が重要だったのだ。
「お疲れ様。レンドールは今日も出張だったの?」
「キミも一日お疲れ、青い鳥。僕の方は選抜候補合宿に向けてのリサーチしているところでね。コートを見せてもらったりしてたんだ」
大人になれば、誕生日だからといって、無条件に楽しいことばかりが起こるわけじゃない。平日なら仕事だし、会う人の大半は自分の誕生日なんて知らない。覚えている友人がメールやSNSで連絡をくれて、家族が電話をくれたりする。でも、疲れて帰れば人を誘うのも、一人きりでケーキを食べることもできない。ランチだって、精々今日くらい食べたい物を食べようかなと考える程度だ。
「今年は中学生を入れる条件はないんだよね?」
「そうだね。去年は多様性という観点からルールに縛りが入っていたけれど、去年の活躍を踏まえてみれば、中学生を入れなければならないという制限がなくとも、自ずと必要な選手はチームに入るだろうと判断したようだね。だから去年とはまた違うチームの組み方を検討しなければいけないんだけど」
「大変だね」
「GTAの選手はどうかな? Q・Pは何か知ってる?」
「中学生なら、あまり強いって話は聞かないよ。他の選手のことも、ルイスの方が知ってるかもしれないから、今度聞いておくよ」
「ありがとう。GTAについては、内部に詳しいキミに聞く方が早いから……って頼ってしまってごめんね」
「気にしないで。GTAのことはボクもよくわかってるから」
去年の中学生4名(1名はプロ)は、全員声を掛ける予定ではあるし、ベルティや手塚は既に加入して良いとの返答を貰っている。
彼らが昨年大会において中学生以下の括りとして非常に優秀であったことと、高校生の年齢帯でも同じだけ評価できるかどうかは別の問題ではあるのだが、昨年の経験値があることは大きなアドバンテージだとレンドールは考えていた。強化合宿の状況にもよるが、ほぼ決まりだろう。
去年まではメンバーを選ぶ主体はボルクだった。年齢制限により彼がいなくなったので、次の主将がまったく同じ役目を負うかどうかは決まっておらず、まずは監督として独自にメンバーを考えておくつもりだった。現時点で確定しているのはQ・Pとダンクマール・ベルティのコンビ、そして手塚だけだ。
今年のU-17ワールドカップの話やテニスの話をしていると、すぐに車が家に到着した。
「キミに言われていた材料は買っておいたよ」
「ごめんね、本当はボクが準備するべきだったのに」
「アハハ。謝らなくていいよ。元々、僕が準備するつもりだったんだし。それに、ワクワクしていたからね」
Q・Pから事前に夕食に食べたいものを聞かれていたので、レンドールはハンバーグが食べたいと答えていた。それならひき肉や玉ねぎ、じゃがいもに調味料――と言われた品物をメモして、出かける前に購入しておいてある。ケーキ用の粉や生クリーム、チョコレートも買った。それらがどのようにしてハンバーグやケーキになるのか、わかる材料でもわからない材料でも、レンドールは楽しみだった。
レンドールは料理をしない。ドイツ人はそもそもさほど料理をしない方なのだと思う。どの国と比較して、ということもないが。台所という場所はとかく綺麗に保つためにあるのだ、と思っている人が多い。夕食はカルテスエッセン――調理をしないで出す冷たい食事ばかりだ。レンドールもその例に及ばず、Q・Pは料理にしても家事にしても、かなり真面目に行う少年なのだと思う。
「まずはプレゼントを用意したから、受け取ってくれるよね? 誕生日おめでとう、レンドール」
「うん、ありがとう。キミに祝ってもらえてうれしいよ」
「開けてみて、レンドール」
「それじゃあ遠慮なく」
自分がプレゼントを贈るときにも頭を悩ませた。何がいいだろうか、何なら喜んでくれるだろう。Q・Pもそうやって考えてくれたのだろうか。その気持ちが一番うれしいものだ。
渡された小さな箱の中には、青い石が印象的なシルバーのネクタイピンとカフスボタンが入っていた。
「どうかな? 落ち着いたデザインで使いやすそうだと思って選んだんだけど」
「とても素敵だね! これならいつも付けていられそうだ」
「良かった」
Q・Pは上目遣いでレンドールを見ると、「最初にボクが付けてあげてもいい?」と尋ねた。可愛い恋人の可愛らしいお願いに、レンドールは頬にキスをして頷く。
彼はゆっくりとネクタイピンを取り出して、第一ボタンの少し上にピンを差し込んだ。
「似合ってるよ」
「ふふ、ありがとう」
「カフスボタンの方は、ジャケットを着ていないときに使ってね」
「そうだね。夏はもっと使うかもしれない」
「それじゃあボクはハンバーグとケーキを作るから、レンドールはしばらく待ってて」
レンドールは頷く。彼の「料理を待っていて」は、いつもきっちり30分だが、今日はケーキ作りを含めるので計一時間になるとのこと。そのあいだにレンドールも今日の成果をまとめて、パソコンでメールをチェックしていようと思った。
普段なら家に戻ってしまえばスーツは脱ぐが――。
(夕食までは、このままでいようかな)
青いネクタイとそこに付いているネクタイピンを見ながらレンドールは笑みを浮かべた。
一時間経過したところで、部屋にQ・Pがやってきた。いつも料理のときはエプロンを付けているので、そのまま呼びにきてくれたのだが、クールな表情に家庭的な姿が少しアンバランス。こういうことを言うと近年ではジェンダーの問題が生じがちだが、誤解を恐れずに言えば、奥さんのように甲斐甲斐しく感じてしまう。
こんな少年に自分の家事をさせていて良いはずもないので、いくらQ・Pが料理も掃除も洗濯もなんでもテキパキとこなせる方だとしても、それに頼りきりにならないようにとレンドールは自分を戒めた。料理は彼の特技で、自分で作りたいと言っているから大丈夫なはず。
「仕事の方は大丈夫?」
「問題ないよ。メールは明日返すから。さ、食べようか」
肩を抱きながらテーブルに向かうと、お肉の香りが漂ってくる。
ハンバーグと言えばシンプルなひき肉料理だが、ドイツを離れた場所で似た料理を食べると、こってりとしたデミグラスソースが掛かって出てくることがあるのだ。これがまた美味しい。Q・Pにもそんな話を何気なくしたところ、自分も作ってみると張り切っていた。Q・Pは料理を単に何でも作れるだけのように言うが、意外と、料理の方の研鑽を積むのも嫌いでないらしい。きっと研究家の気質もあるのだろう。
そんな理由で、その日のハンバーグにはとろりとしたデミグラスソースがたっぷりと掛かっていた。
「味見してみたらすごく良かったよ」
「それは楽しみだなぁ」
Q・Pの作る料理はいつも絶品――完璧だ。彼がそうありたいと努力する姿をレンドールはいつも見ている。Q・Pは大変な努力家で、とても真面目で熱心な子なのだ。表情の所為でまだ誤解されてしまうことは多いが。
「さすが、いつもキミの作る料理は美味しいね、Q・P」
「――良かった」
珍しく夕食をたっぷりと楽しんで、Q・Pはケーキと一緒にハーブティーを淹れてくれた。
「シンプルなチョコレートケーキだけど、いいよね?」
「十分だよ! ケーキはいくつになってもうれしいからね」
Q・Pも頷いている。二人で食べるには大きいケーキだけれども、たっぷり食べられると思ってレンドールは笑顔になった。
「でも、本当に急になってしまってごめんね。だからプレゼントはいらないつもりだったんだ」
「そんなことできるわけないよ。ボクはレンドールからいっぱい貰ったんだから。ケーキも準備してもらっちゃったし」
レンドールが美しいプラチナの髪を撫でると、Q・Pは瞳を細めた。
本当に、プレゼントなんてなくとも、祝ってくれる彼の気持ちと、そして可愛い恋人が自分を見つめてくれているだけでも十分だと思う。青い鳥が、自分にとっては一番のプレゼント。
だが、形に残る何かが欲しいと思う気持ちはわかる。自分がというよりも、彼がそう思うという気持ちの方が。誕生日プレゼントは、贈る人にとっても心に残るものだから。
「前から準備していたの? それとも」
「送料無料なんだ」
「送料無料?」
「タダで配達してもらったから」
Q・Pは何だかうれしそうにしていた。
「ルイスが助けてくれたんだ。プレゼントが間に合うように」
どういうことかはわからなかったが、彼自身の交友関係についてのことなら、あんまり根掘り葉掘り聞くべきことではないのかも知れないと思い、レンドールは頷くに留めた。
(ルイスくん、か)
Q・Pが親しくしているGTAでの学友。話にはよく聞いている。Q・Pは人との付き合いよりもテニスの練習を優先してしまうので、彼にとっては、決して人数が多くはないらしい、親しい友人。
レンドールは学校でのQ・Pのことをまったく知らない。彼がほんの少し語ってくれたことと、GTAで資料を読んだ際に、Q・Pは常に優秀な成績を修めていると書かれていたことくらいしか知らなかった。
ふと羨ましいと感じたのは――恋人になって欲が出ているからだろうか、と思う。聞けば何でも話してくれるだろうけれど、同じ学生時間を過ごせて羨ましいなんて考えは馬鹿げているというか、烏滸がましいことなのではないか。
(せめて先生とか)
いや、やっぱりばかばかしい。そもそも何でも欲しいなんて贅沢な考えだ。
レンドールが何を考えたかまではQ・Pにはわからなかっただろうと思うが、何だか気にしているみたいだということは察したのかも知れない。Q・Pは口を開いた。
「ルイスの執事が届けてくれたんだ」
「……執事? おうちにいるの?」
「そうみたい。何だか住んでる世界が違うと思っちゃった。レンドールの家には執事はいないよね?」
「うん。執事は、僕も世界が違うかなぁ」
「そうだよね」
何となくQ・Pは安堵したようだった。
もしかすると、世界が違うと感じる理由は人それぞれなのかも知れない。レンドールは何だか笑った。こうして美味しいケーキを作ってくれる恋人がいて、誕生日を二人で過ごして、何の不満があるのだろうかと。
「来年のボクの誕生日は、ちゃんとボクがレンドールを招待するよ。……寮の部屋には呼べないけど」
「ハハハ。またうちでやろうか。楽しみにしてるよ、青い鳥」
きっと、次の誕生日にはもっと幸せだと思うはずだ。そうなるに違いない。レンドールは確信していた。
なぜなら自分の傍には次もきっと、青い鳥がいてくれるのだから。
Q・Pの誕生日の話はもう本編で書いちゃったのでレンドールの話がメインになりました!
そして翌年の誕生日の話までを今のんびり書いてるところなので翌年も使えなかったのでした。
執事は本当に趣味。