April fool’s etude

※現代パロディのような日本暮らしのテスデイです。

 デイビットがやけに毛並の良い黒猫を飼うことになったのは強い雨の日のことだった。その日もデイビットはいつものように大学から自宅へと徒歩で戻り、その住むマンションの敷地の前に、雨に濡れながらもピンと背筋を伸ばして佇む猫を見付けたのだ。
 月のない夜だった。元より暗い空は、昨夜から続く雨で益々濡れたような暗さを纏い、花壇の土は泥濘のように水を含んでいた。舗装されたアスファルトにもぴちゃぴちゃと水音が――いや、ひっきりなしに聞こえる雨音は、最早雨粒の音を一つ一つ響かせてはいない。轟音のような、滝のような音が響くばかりだ。
 猫はマンションに設えられている街灯にぽっかりと照らされていた。普通、雨が降っていれば猫だって軒下に移動するだろうに、とデイビットは一瞥して思った。猫は何の猶予もないかのようにすぐにデイビットの方に近づくと、脚に身体を摺り寄せた。その猫の行動に、デイビットは驚いた。

 デイビットは普通のではない。今よりももう10年以上も前に、宇宙ソラの彼方よりさらに先に連れ去られて、その時に真っ当な人間らしさを喪った。姿かたちこそ、まるで人間のようではあるが――もう、そうではなくなってしまったのだ。暮らしていた父親もその時に死に、今では天涯孤独の身となってしまった。この宇宙に、デイビットの拠り所などはどこにもない。どうにかコミュニティに属して暮らしているが、それも、いつまで続けられるのかは分からない。デイビットは一瞬、新しく呼ばれている研究所、人理保障研究機関というところのことを思い出した。
 生物に好かれたことがない。部屋に虫の一匹も侵入しない自分に近づく猫なんてあるだろうか。デイビットは考えながら猫を持ち上げた。手に持っていた傘が肩から離れて、猫と同じようにデイビットの身体はしたたかに濡れていく。猫を持ち上げたのは、気まぐれというか、何となくというか、直感のような行動だった。
 だが持ち上げてそのまま家に連れて帰ってやったのではない。猫を飼うなというマンションの管理規約はないが、生物を飼うつもりはまるでなかった。デイビットは持ち上げた猫の顔をじっと見つめて、傘がいるなら貸してやろう、と言った。猫はにゃおんとも鳴かないので、エントランスの方まで持ってきて、降ろしてやった。そしてデイビットが傘を回収しようとすると、猫はひょこひょこと付いてきたので、呆れ、濡れることを厭わないといずれこの猫は衰弱して死ぬのではないかと思った。

「悪いが、飼ってやる義理はオレにはないんだ。一人で……おまえも、一匹で生きろ」

 エントランスに戻っても付いてきた猫の頭を撫でてから、デイビットはオートロックのドアをくぐり抜けた。猫には悪いが、あれだけ人懐っこければ、すぐに飼い主が見付かることだろう。いや、もしかすると、飼い猫だったのではないか、とも思った。首輪は付けていないようだったが。
 デイビットが部屋に帰り、予期せぬ事態で身体を濡らしてしまったので、シャワーを浴びた方が良いだろうと考えていると、にゃあんと猫が鳴いた。足元を見ると、先ほどの黒猫がそこにはいた。どうして? オートロックのドアの中に侵入させるようなことはしなかった筈だ。それに、今だって、ドアを開けた時に一緒に入ってきた気配などはなかった筈なのだが……。
 猫は濡れたデイビットのズボンに濡れた身体を擦り付ける。

「……逞しいな、おまえも」

 そういう生き方は、嫌いではない。どういう魔法を使ったのかは知らないが、この猫が生きるために必要な措置を講じた結果がこの家への侵入であるというのなら――自分の敗けだ、とデイビットは思った。

「とりあえず風呂に入ろうか。猫は水が嫌いだと聞くが、おまえはそうでもないんだろう?」

 頭を撫でると、猫はぺろぺろとデイビットの手を舌で舐めた。あまりにもよく懐いているので、まるでこの猫は最初から自分の世話になるつもりでいたかのようだとデイビットは思った。
 その日、一人と一匹は共に風呂に浸かり、デイビットは猫の首に紫色のリボンを結んでやった。それはデイビットが貰った菓子箱を装飾していたリボンだが、猫は存外嫌がらなかったので、一応、これでウチの猫だぞという意味合いを込めて結んだのだ。そうやってふたり暮らし・・・・・・が始まった。

 猫は猫扱い・・・されるのをいつも嫌がった。
 最初の夜は、たまたまデイビットのお弁当に焼き鮭が乗っかっていたのでそれをやったのだが、『猫にはペットフードを与えてやるべきである』と、インターネットで調べたところ書いてあったので、翌日からはドライフード所謂カリカリを買ってエサ入れに入れて出してやった。だがしかし、はそれに一切手を付けなかったのである。ちなみにこの猫は男だった。彼はペットフードを食べず、デイビットの買ってきたマクドナルドのハンバーガーのパテを、目を離した隙に食べていた。それはオレの夕食だと文句を言ってやったが、ようやく食事にありつけたとばかりに済ました様子でいたので、デイビットはペットフードを彼に与えることをすぐに諦めた。彼はそんなものを食べないのだ。
 それで、スーパーマーケットで買った魚や肉を焼いてやったり、野菜を茹でたり、ご飯に乗せてやったりと、自分では出来合いの弁当ばかりを食べていたのに、彼の為にデイビットは料理をしてやることになった。弁当の焼き鮭も、ハンバーガーのパテも、猫が食べるには塩分が多すぎる。そればかりを食事にしてやることは出来なかったのだ。
 そんなことをするようになれば、自然と自分の食事も自分で合わせて作る方が早いとなり、デイビットが大学にも手製の弁当を持参するようになるまでに時間は掛からなかった。空っぽだった冷蔵庫には食材が詰め込まれ、作り置きの総菜を入れたタッパーが並ぶようになった。
 何とも手間が掛かる。そして、何とも自分の甲斐甲斐しいことと言ったらないだろうとデイビットは思った。ただ、彼はデイビットの手料理を残さず食べるので、手を掛けてやる甲斐はあった。塩や玉葱を抜いたお手製のチキンクリームシチューは彼の大のお気に入りらしい。
 彼は夜になるとデイビットのベッドで丸くなって眠る。

「――おやすみ、テスカ」

 彼の名前は彼が自分で決めた、と言ってもいいだろう。デイビットが猫と目覚めた朝、飼うなら名前がいるな、とノートパソコンを開いて検討を始めたところ、彼はとても器用にキーボードを叩いて「tezca」と打ち込んだのだ。

「テヅカ? ……いや、テスカ?」

 そう呼ぶと、猫は満足そうにデイビットの膝の上で鳴いたので、そのような名前に決まった。実際、猫が自分で名前を決められる筈はない。キーボードのことだって、歩いていて偶然に彼の脚がぶつかっただけ。そう思うが、彼――テスカは特別な存在のようにデイビットには思えた。人間のようではない自分と、猫のようではない彼。そういう巡り合わせがあるのかも知れないと思った。
 彼と暮らし始めて半年、その日はまた月のない新月の夜だった。
 その日、デイビットの猫は姿を消した。

「えっ、猫がいなくなった? 折角、先輩を拝み倒してようやく会いに行かせてもらえると思ってたのに?」
「ああ。おまえには悪いんだが……」

 デイビットの一つ下の後輩の藤丸は、ごく普通の人のような姿をしている。普通に日本で生まれて育って、普通に義務教育を受けて、大学まで進学しただけ。本人はそう言っているが、その身に纏う雰囲気は常人ではないとデイビットは最初に出会った時に思った。
 ほんの偶然で同じゼミに所属していて、その数多い人物たちの中で、気が付いたら藤丸はデイビットに懐いていた。その様は、まるで家にいた猫と似ている。他にも親しくする人物は多いらしいが、見掛ければ必ずデイビットに駆け寄ってくる、可愛い後輩という類だ。

「そうなんだー、そうなんだ……。えっ、逃げちゃったの? 確か、ドアを開けておいても出る気配がないって言ってたのに」

 デイビットは藤丸のごく普通の質問を聞いて言葉に詰まった。

「あっ、もしかして……その猫……」
「いや、おまえが考えたような事態にはなっていない」

 いつも明瞭に答えるデイビットが言葉を詰まらせたことで、藤丸は猫と死を結び付けてしまったようだが、デイビットは即座にそれを否定した。そうではない。そうではないのだ。

「藤丸、おまえは……」

 ――飼っていた猫が人間になったと言ったらどう思う?


 デイビットの飼い猫の『テスカ』がいなくなった夜、真っ暗な部屋に青い二つの瞳が光り輝いた。猫が消えたことを知らず、寝入っていたデイビットは、突然部屋に現れた自分以外の気配を感じ取って目を覚ました。その時、いつもならば自分の隣で丸くなって寝ている黒い猫がいなくなっていたことに初めて気が付き、そして同時に、青い瞳と金色の髪が揺れるのを見た。その長い髪の人影は暫く動かなかったが、それが常人の気配ではないことをデイビットはすぐに感じ取った。恐らく、自分が何をしても敵わない・・・・相手だ。
 デイビットは、ただの人とは違う生き方をしてきた。もしもこの人影がただの強盗で、それが銃で武装をしていたとしても、デイビットは敵わないとは感じない。容易に制圧できるだろう。だがその人影は違う。まるで人間ではないようだ。
 ぎらりと青い瞳が輝き、影はデイビットの方に近付いてきた。おそらくソレがデイビットを殺そうとするのなら、抗っても無駄だ。だが交渉の余地があるかも知れない。分からない。ただの強盗ではないにしても、何らかの要求の為に部屋に入り込んだ可能性はあった。
 デイビットはかなり金の融通が利く。死んだ父が遺してくれたというような感動的なエピソードはないが、少なくとも、今住んでいるマンションの一室を購入してしまえる程度には余裕がある。それが分かれば、金で手を打ってくれる可能性もあるのではないか――。

「デイビット」

 そのデイビットの予想は的中しなかった。男が名前を呼んだことで、狙いが明らかに金銭ではなく自分の方だということがデイビットには分かった。いや、デイビットが金を大量に持っているということを知って狙った可能性もないではないが。

「やっと」

 そう言うと、人影はデイビットに素早く近づいて、頭を撫でた。

「やっとこちらのすがたで会えたな、デイビット」
「おまえは誰だ?」
「テスカだ。いや、テスカトリポカ神だ」
「おまえ、テスカなのか?」

 テスカトリポカ神を名乗った男はククッと喉を鳴らして笑い、今そう言っただろう、とデイビットに言った。
 俄には信じがたい出来事だ。さっきまで自分の傍で丸くなっていた黒猫が今は人間の姿をしているなんて――。だが、夜は必ずベッドの上にいてデイビットが目覚めるまで動かない彼がいなくなっていること、ここは七階であり外からの侵入は不可能であること、それに、デイビットの部屋のセキュリティは万全であるということを踏まえれば、猫の不在とその人間の出没は結び付けて考えるべきことなのだとデイビットには分かる。デイビットもただの人・・・・ではない。人知を超えた出来事にはとっくに出くわしている。今更、猫が人間の姿を取ったからと言って――。
 デイビットは、その人の頬に触れた。黒猫の顎を撫でてやったように。

「本当に、猫が……?」
「オマエは誤解していたようだが、オレは猫ではなくジャガーだ」
「テスカトリポカ神、だから?」

 テスカトリポカ神を名乗る男は頷いた。

「猫だと思っていたらジャガーだった。いや、ジャガーを象徴とする神だった、と」
「道理で。猫扱いされるのをやけに嫌がるなと思っていたんだ」

 テスカトリポカは唇の端をニッと上げた。妙な猫だとはデイビットも思っていたのだ。彼は排泄もトイレで自分で済ませていたし、猫というのも存外器用なものなのだなとデイビットは感心していたのである。
 それにしても、黒猫――もとい漆黒のジャガーが人間に成ったというには、それらしい姿をしていないのだなとデイビットは思う。金色の髪はあの黒い毛並とは似ても似つかない。デイビットが惚けて見ていると、金色の髪の神様はデイビットの頬に触れて、あっさりと唇を重ねた。

(え?)

「オレはオマエを迎えにここまで来た。いや、迎えと言ったが、連れて帰る必要があるという意味じゃあない。オマエがここで好きにしているのを横で見ているつもりだ」
「どういう意味だ?」
「平行世界、剪定事象、異聞帯ロストベルト。そういう名称は色々とあるのだろうが、ここが枝葉の世界の一つであることは間違いない。ここでもオマエがいるらしいと知って、その枝葉にいたオレは接触を試みた。オマエは知らないことだろうが、オレたちは恋人同士だったんだよ。いや、だったではなく、今もそうだがね。別の世界、別の時空で」
「別の世界にいる恋人オレに会いに来た?」
「理解が早くて結構。ここのオレとオマエはそうではないが、異なる世界でそうであると知って、こちらでは日本という国にいるオマエに興味を抱いた。すぐにでもこのすがたで会いに来てやりたかったが、この時代に神を降ろす依代を作るまでに時間が掛かった。聖杯戦争でもやっていれば、ソイツを利用して依代の一つでも作れたんだがね。この時代は平和なものさ。仕方なく、このジャガーの形態を取っていたというワケだ」

 突然白煙が舞い上がったと思うと、目の前にはまた紫色のリボンを首に結んだ黒猫がいた。デイビットは彼を撫でて良いのか悩んで見ていたが、猫がすり寄ってきたので、いつものように頭を撫でてやった。今この瞬間にでも、猫が人間に戻ったら自分はどうなるのだろうかと危惧していたが、しっかりと撫で終わるまで彼はその姿のままで、少し離れてから、先ほどのすがた、人間のカタチをした神様に戻った。

「オマエは知らないことだと言ったが、人間は平行する世界とは記憶が同期が出来ないものだからな。神とは違う。オレにとってオマエは、大切に神の楽園ミクトランパで――まぁ、囲っていた男だ。そのオトコが消えたという事実もない。向こうは楽しくやっている。それを見て、この世界でもオマエがいるのならそれはオレのモノだろうと考えたという話だ」
「もしかすると、ココは剪定事象なのか?」
「そうではない。無数の世界の内、あちらとぶつからないので消されるようなこともない世界の一つだ」
「……そうか」

 デイビットは息を吐いた。もうじき消える世界だと言われたとしても動揺しないつもりでいたが、自分の感情に揺らぎが生じたのを感じた。
 テスカトリポカは、ユニヴァース時空みたいなものの一つだ、と言ったが、流石にその言葉の意味はデイビットにもよく分からなかった。分かったのは、別世界で神に愛されている自分がいて、その神が別世界の自分にまで手を伸ばしたらしいということだ。最初、猫の姿をとってまで。

「猫ではなくジャガーだ」

 猫だと思ったら豹だった、といったようなニュースをデイビットも耳にしたことがある気もするが、猫だと思ったらジャガーだったと思ったらジャガーの神だった、は類を見ないだろう。

「――神様」

 デイビットは神というものを信じていない。生まれがアメリカの方で、日本には色々と縁があって流れ着いただけだが、特定の宗教へ傾倒していない。この国で過ごす多くの人と似ている。
 それなのに、この神様のことは信じられた。テスカトリポカ神。アステカ神話の全能神。そういう存在が目の前にいて、自分に愛情を向けているのだということを理解できた。だからと言って、それでは自分たちも恋人のように過ごすのかと言われれば、すぐにそのようなことにはならないのだろうけれども――。

「夜に話すことではないな。デイビット、夜が明けて、太陽が昇ってから話すとしよう。更新・・はもう済んでいるな?」
「それも知っているのか」

 デイビットは頭を軽く振った。デイビットの一日の記憶の更新・・。一日の記憶の内、5分以外を外宇宙と接続して白紙にされる現象のことだ。

「昨日の分は、もう済んでいる。0時を過ぎているからな」

 テスカトリポカはデイビットの額を撫でて、もう少しオレの霊基が馴染めばそういうことも阻止してやれる、と囁いた。

「その辺のノウハウは会得しているからな。ま、上手くやれるだろう。デイビット、今日はもう寝るぞ」
「うちに客用の布団なんてない」
「別にいいだろうが、ここで寝れば」

 テスカトリポカはデイビットの座っているベッドを軽く叩いた。デイビットは眉間に皺を寄せる。

「狭い」
「ダブルだろう?」
「セミダブルだ。広い方が寝やすいと思っただけで、二人で寝る予定は……」
「十分だ。ま、確かに狭いが、くっついて眠れば平気だろう。狭さが気になるならば、いずれは広いベッドを用意してやる」

 テスカトリポカは有無を言わさずに、デイビットの身体をベッドに寝転ばせて、前から抱き締めた。恋人同士であれば、そういうこともあるのだろうが、デイビットにはそう言われても分からないし、どこかの別世界にいる自分がそうされているということも想像が付かない。
 自分はどうあれ自分であって、宇宙の彼方よりも向こう側に転送されて、もう人間と呼べるようなものでもなくなって、感情は無く、何も、無い筈なのに……。

(ああ、温かいな)

 猫が丸まって布団の中にいると温かいと思った。それと、同じように。
 デイビットは目を閉じる。何も知らない、分からない筈なのに、その腕の中は、自分が安心して眠ることの許された場所なのだと思った。人間でもない、自分が。

「この身体はオマエに合わせて作ったものだ。金色の髪の、オマエと揃いの」

 その金色の髪は自分の髪よりも透けて美しい色だった。
 朝目が覚めて、見知らぬ男の腕の中にいたデイビットだが、さほど混乱することはなかった。零時の更新からの記憶は残っているので、テスカトリポカ神との出会いの記憶が頭の中にはちゃんとあった。彼の腕に抱き締められたまま就寝したこともちゃんと憶えている。
 普通、深夜にいきなりやってきた男の腕の中にいるというのは、無防備を通り越して犯罪を誘発し兼ねない危険な行動だろうとは思うのだが、デイビットは彼が依代に降りたテスカトリポカ神であるということを深夜のやり取りで理解していた。

 デイビットはいつものルーティーンとは異なり、まず彼とのやり取りを思い出していた。いつもならば零時の更新前に眠るので、毎朝、更新時に整理した記憶を確認して新しく記憶の底を構築するのが朝の日課になるのだが、まだ瞳を閉じて眠っているテスカトリポカの顔を暫し見つめてから、デイビットはようやくそれを行った。金色の髪、白い肌、青い瞳の神様。うつくしいという言葉が意味するものは多岐に渡るが、その神様のすがたもうつくしいとデイビットは思った。
 神の瞳がぱちりと開いたのは程なくして。デイビットの身体を抱き締めていた腕が片方離れて、するりとデイビットの頬を撫でた。その瞳は、なるほどこういう感じか、と言っているようだった。

「テスカ」
「よく眠れたか?」

 デイビットが頷くと、機嫌良さそうに彼は笑った。

「イイ眠りは、戦士に必要なものだ。その日のコンディションが整うからな」
「戦士?」
「オマエはどのような場所でも寝られる男だな?」

 神様は本当に何でも知っているかのようだ、とデイビットは思った。
 昨日触れた唇がまた重ねられることはあるのだろうかとふと考えたが、特にそのようなことはなく、どこか別の世界ではそのようなことがあるのだろうか、と思う。

「神の……恋人だと言うなら、その存在は神話に出てくるんじゃないか?」
「オマエの存在は隠してるんだよ。オマエという存在は、色々と厄介でね。そもそも、オマエは神話で語られることを望んでいたのか? そういう要望があるなら考慮してやるが、そういうのは向こうで言え」
「向こうって」

 神様はじっとデイビットを見つめて、オマエも神話に語られたいのか? と訊いた。

「……オレは、まだ、何も」
「まだ、ね。まぁいい。オマエがその気になるまでは、オレもそのようには扱わないようにしよう。デイビット、昨日の続きの話をしてやろう。続きと言っても、昨日話したことで全部だがな。オレはオマエに会いに来てやろうとしたが、」
「ボディがなくて猫のすがたをしていた」
「ジャガーだ。オマエ、オレがそう言ったのは憶えているんだろう?」

 デイビットはくすくすと笑った。自分でもそれは珍しいと思った。無表情だ、と言われたことしかないのに。テスカトリポカは、オマエはそういうヤツだったな、と苦笑した。

「オレの家に魔法みたいに入ってきたのにはそういうカラクリがあったんだな」
「魔法か。全能神のチカラをそのように言うのは不敬なことだと思うが」
「これからどうするんだ?」
「どうも何もない。ここで暮らす」
「オレの家だよ」
「同居人がいたって問題ない広さだろう? 相変わらずの暮らしのようだが、何で稼いでいるんだ? デイトレか?」
「FXで利益を上げた。今は余った金を長期運用しているだけだ。それでも暮らすのにはもう困らない」
「ヒュウ、流石だなァ、デイビット。その余った金ってのを、オレに投資してみないか? 倍にして返してやるぞ」
「断る。それは詐欺師の常套句だろう?」

 強盗ではなかったが詐欺師だった、では結局変わらないことになる。デイビットが首を横に振ると、儲かる、オレは未来を視られるも同然の神だ、などとテスカトリポカは言い募った。

「デイビット、オマエは50階以上の億ションに住みたくはないのか?」
「今でも住める。高層マンションは不便だから住まないだけだ」

 デイビットには、やたら高い部屋の窓から夜景を一人見下ろすような趣味はない。部屋は広すぎてもメンテナンスが面倒だから1LDK、共用施設も使わないので不要、セキュリティが十分で静かな立地を選んだだけだ。
 テスカトリポカ神曰く、億ション――一室が一億円を超えるマンションの最上階に本当は迎えてやりたかったが元手がないのでデイビットの金を借りてビジネスを始めたいということらしい。彼がそのように稼がなくともデイビットは十分な貯えがあるので全く不要なのだが、神としては、神らしく、何かをしたいということであるらしい。

「大体、全能神というのに、金がないのか?」
「全能というのは万能ではないからな。それに、魔力が十分にない。サーヴァントでもなし、何でも出来る神としての権能を振りかざすのは容易なことではない」
「何だか分からないが、神は今スケールダウンしているという理解でいいか?」
「相変わらず理解が早くてオマエはいい」

 テスカトリポカはデイビットの頭を撫でた。

「ここへ至る為に少々無茶をしてね。自分の魔力もさほど残っていない。後はオマエに加護を掛けてやるくらいだ」
「加護?」
「言っただろう、オマエの記憶への干渉を遮断してやると。ま、もう少し準備が整ったらになるが」
「よく、分からないが……そこまでしてもらう義理は」
「オレにはある」
「分からない。今日のことだって、5分しか憶えていられないのに」
「いいんだよ、そういうことは」

 ぎゅっとテスカトリポカはデイビットの身体を抱き締めた。

「そういうふうにしてやってきたんだ、1年を。オマエの記憶の中ではほんの1日限りの饗宴を。オレたちの、戦争を。オマエが知らずともオマエの魂と共鳴した。愛し合ったんだ。オマエが知っても、知らなくとも」

 何故だか分からないが、その告白はデイビットの胸を打った。身に覚えのないことであるはずなのに、確かに、その想いを受け取ったのだ。ああ、温かい、とまた思う。自分の探し求めていたモノは、これなのではないだろうかと思った。何かを、求めていたつもりもないのに。

「一先ず何か食べるか。デイビット、オマエ、学校とやらは?」
「春休みだからな。今日は予定がない。明日は出掛けるが」
「そうか。なら、腹ごなしをしたら街でも案内してもらうとしよう」
「……その格好で?」

 昨夜は暗かったので、あまり風貌について意識しなかったが、現代人の身体をしているテスカトリポカは、薄いベストのような形状のトップスにジーンズを着用していて、胸元には金色の大きな丸型のペンダントが光っている。確か、その上に、黒く光るコートを着ていたようだったと思ってダイニングの椅子を見ると、革のコートがそこに掛けられていた。
 金色の髪、青い瞳を隠すような大きいサングラス。これではまるでヤクザのようだ。

「不満か?」
「服を貸してやるから、もう少し普通のにしてくれ」
「オマエの方こそいつも同じ服ばかりだな」
「何の話だ?」

 テスカトリポカは畳んであったデイビットのブラウンボーダーのニットを広げてじろじろと見ている。
 体格が同じとまでは言わないが、それほど相違はない。やや彼の方が筋肉質ではないように見えるが、肩幅は変わらないし、サイズは同じで十分だろうとデイビットは考える。

「朝食はどうする? オレはトーストを焼くけど、いつもならおまえには魚を焼いていたな」
「魚でも構わないが、ま、オマエと同じでいい」
「ピーナッツバターも塗るのか?」
「ソイツはいらん」

 デイビットはキッチンで食パンの枚数を数えた。一人で暮らしているので、食材のストックを考えたこともなかったが、二人で暮らすのなら多少は異なってくるのだろう。そう考えながら、もう、彼のいる生活を考え始めているのか――と、トースターの前で思案してしまった。
 テスカトリポカが言っていることは、一見、荒唐無稽だ。普通の人なら信じないだろう。そういう誇大妄想の人、或いは、精神的に少々具合が悪いのではないか、と思ったはずだ。だが、デイビットは、自分は普通の人ではないと分かっている。あの日、あの彼方に触れたことで、もう普通ではなくなったのだ。それなのに、普通の学生のように暮らしている。その方がよっぽど奇妙なことだと思っていた。
 自分はどうして日本に辿り着いたのだろうか。十歳までの記憶が朧気で、何故父に手を引かれてこの国に来たのかを憶えていないのだ。母がこちらの出身だったのか。父がこちらの文化に傾倒していたのか。分からない。ただデイビットの父は『天使の遺物』と呼ばれるモノを管理していて、それが発動し、デイビットは、ただの人ではいられなくなったということだけが事実としてある。それなのにここまで平凡に生きているだけだった。そんな自分がむしろ、不穏だった。
 だから、テスカトリポカ神がやってきたのなら、それが自分にとっての運命であるのだろうと思った。デイビットはトーストの焼ける音が聞こえるまで目を閉じて考えていた。いずれにしても、自分を呼んでくれるモノがあるなんて、と。

「デイビット」

 いつの間にか背後にいたテスカトリポカは、ごく自然にデイビットの肩を抱いた。もうすぐ焼けるから、とデイビットは言った。

「目玉焼きでも焼こうか? それともスクランブルエッグがいい? おまえは……目玉焼きの黄身を舐めるのが好きだったな」

 ふふ、と笑うと、テスカトリポカはまたデイビットの頭を撫でた。恋人のようには扱わないと言ったのに、十分にそのような甘い雰囲気が彼にはあった。擽ったい。けれども、嫌な気持ちになるものではない。むしろ、手も、雰囲気も、どれも温かいと感じている。

(5分しか……)

 今日を憶えていることは出来ないのに。その時間で憶え切れないことはないと思うが、心配なら、ノートに記録しておこうとデイビットは考えた。日記のようなものを付けてみるのもいいかも知れない。
 トースターが音を鳴らす前にテスカトリポカは勝手に扉を開いて、焦げ目が付き始めているトーストを口に咥えた。

「まだ焼いてる最中だろう」
「いいだろうが、腹が減ってるんだ。オレはこのすがたになって、まだ食事をしていないからな」
「そういうことは早く言え。焼いている途中のトーストを齧るよりマシなものを用意したのに」

 冷蔵庫には朝食用のヨーグルトや6Pチーズも入っている。何も塗らないでトーストを齧るよりは普通に腹に入れられるものだろう。
 程なくして焼き上がりを告げる音が鳴る。自分のトーストにはピーナッツバターを塗って、目玉焼き――ベーコンエッグを二つデイビットは焼いた。ベーコンは塩味が強くて猫には食べさせられなかった食材の一つだ。コーヒーも用意してやりたかったが、マグカップが一つしかなかったので、諦めた。
 テーブルに白いオーバル皿を盛っていくと、テスカトリポカはもうトーストを食べ終えていた。いつの間にかテレビを付けて、朝の天気予報を見ている。今日は一日中晴れだとキャスターが告げていた。

「買い物に行くなら丁度いい天気なんじゃないか?」

 箸を使えるのか分からなかったので、フォークを用意してやると、テスカトリポカは黄身を刺し割ってベーコンと食べていた。
 猫が来てから手料理を始めて、その猫がいなくなってしまって。
 この先どうなるのだろうかとデイビットは思った。この先。本当に黒猫のテスカは目の前の男だったのか。あのやわらかい猫にはもう会えないのか、と。じっとテーブルの向かいにある青い瞳を見つめていると、頬杖を付きながらフォークを運ぶという行儀の悪い神様は、どうした? と首を傾げた。

「この顔に見惚れたか?」
「いや。猫にはもう会えないのかと思って」
「気に入ったのか。会えないということはない。猫――ではなく、ジャガーの形態になってやっても構わないが」
「自由になれるのか?」
「このヒトの形が神にとっての正解でもないからな。ま、人間の神だからな。人間のカタチを取る方が自然だと思うがね」

 デイビットは特別に神話に詳しい訳ではなく、アステカ神話にも詳しくはないが、テスカトリポカ神の名前は知っていた。何故か、その名は自分の中に在ったのだ。どこかの物語で目にしたのかも知れない。或いはどこかの本のタイトルで? はっきりとした理由はデイビットには分からないが、その神が全能であることや、ジャガーを象徴としていることを知っていた。

「……膝の上で丸くなって眠るのが好きだった」
「温かいし落ち着く。あまり離れず、オマエの傍にいる方がいいと思ったからな」

 神様は笑った。デイビットは黒猫を撫でていた時の感触を思い出していた。

 デイビットはあまり買い物には出掛けない。猫を飼ってからは、食材を買う為に駅前のスーパーマーケットに立ち寄るようになったが、それ以外は殆どネット通販で済ませてしまう。目立つのだ。この国で、この金色の髪は。それを藤丸に指摘されて、だからと言って隠すのも面倒だから、これまでよりも外出しなくなった。趣味の映画や登山に出掛けることがあるくらいだ。
 臍が見えているような薄いトップスを着ていた神様に、春とは言えまだ冷えるからと説得をしてワイシャツを着せることに成功したデイビットと、服を変えたテスカトリポカは、トレンチコートを羽織って少し離れた駅のファッションビルにやってきたが、あの金色の長髪と青い瞳が目を惹かない筈がなかった。ひそひそと聞こえてくる話し声からは、「モデル?」や、「撮影?」と言った言葉が聞き取れる。たしかに、陽光を浴びてきらきらと輝くあの金色を見ていれば、そのように思うのも無理はないだろうとデイビットは彼を見ながら思った。

「どうした? オレに見惚れたか?」
「いや、おまえは目立つなと思っただけだ」
「オイオイ、オレだけの所為にするなよ、デイビット。オマエもだ、オマエも」
「確かに、オレの髪の色も目の色も目立つだろうが、単にそれだけだろう」
「分かってねぇなァ、デイビット」

 ぐい、とテスカトリポカに顔を引かれた瞬間、周囲が騒めいたような気がした。黄色い、悲鳴のような声が休日の駅に小さく響く。

「ま、オマエはいつもそうだったな」
「顔が近い」
「いいだろう? こうやっておけば、大抵のヤツらは黙るというモノだ」

 それは異様な雰囲気に声を掛けられなくなるだろう、という意味だろうか?
 昨夜触れた唇はまた重ねられることもなく、テスカトリポカはふっと吐息を零して手を離しただけだった。

「さて、そろそろ行くか。まずは何を見る?」
「今のは何だったんだ?」
「オマエの顔がイイという話だろう」
「そんな話してたか?」

 一瞬の騒めきは既に収まっている。シャッター音のようなものが聞こえたので、或いはSNSに上げられたりするのかも知れないが、多分、それだけだろう。休日の人々の多くは自分の外側に在るものに興味を示さない。目の前の恋人、友人、家族、買い物、予定だけを見ているのだ。そんな中で、少しセンセーショナルなだけの二人組の男のことなど、いつまでも考えてはいないだろう。
 テスカトリポカはデイビットの肩を抱いた。小声で「オマエの顔が可愛いと言っている」と囁いた。デイビットは身に覚えのない言葉に驚いて彼の顔を凝視した。人間離れして、うつくしいのは神の方だろうと思う。言うに事を欠いて、可愛いなんて。そんなこと初めて言われたと言う必要すらないだろう。本当にそんなことを彼は思っているのだろうか。それとも、どこかで自分たちは恋人だったのだと言っていたから、そういった欲目があるのだろうか。
 彼は手を離し、何を買うんだ、ともう一度訊いた。

「とりあえず服があった方がいいと思う。オレのものでも着られるだろうが、あまり服を持っていないからな。後は、日用品が全体的にいる。食器や、歯ブラシだって……」

 言いながら、どうしてこの男と自分はもう暮らす気でいるのだろうかとデイビットは考えた。いや、この先ずっと暮らすのではないとしても、当面の間は自分の部屋に泊めてやるほかない。金があるのか分からないし、家から追い出す程に彼を嫌ってはいないのだから。

「ならついでに、オマエにも服を選んでやろう」
「おまえが?」

 何だか上から目線だな、と思う。彼が本当に神であるのならば、それも致し方のないことなのだろうが。デイビットは、さほどそのことを疑っていない。もし本当はただの人だったら――いや、やはりそれはないだろう。デイビットは彼を信じている。神様を――。

「選ぶのはいいが、オレの金だからな」
「了解了解。オマエはいつも金回りがいい男だな」

 褒められている気がしない。デイビットは自分より少し大きい革靴が自動ドアを開くのを見ながら小さくため息を吐いた。
 ここの来るまでの道すがらにテスカトリポカと少し話をした。本当にオレに会いにくることだけが目的だったのか? と。例えば、この巨大なファッションビルの中に、得体の知れないバケモノが現れて、そういった危難から平穏を守る為に――とか。少々映画の見過ぎかも知れない、とは思う。テスカトリポカの答えはNOだった。別に、何かそういう危険が差し迫った世界ではない。この国は今日も呆れるほど平和で――ただそれだけだ。

『オレは戦の神だがね。神としては、そういう必要があればその種を蒔くようなことはするが、オレ自身が手を下すことはない』
『平和を脅かすなよ』
『案ずるな。当面、その予定はない。今のオレはオフだからな。オフモードの神だ。休暇をオマエと過ごしに来ただけさ』
『神様が、オフって……』

 エスカレーターでビルを昇りながら、デイビットは、見知らぬ街にいるのでもないのに何も知らない場所に放り込まれたような気持ちになった。ファッションビルに馴染みがないのは確かだし、ただそれだけでなく、どこか知らないような――。
 テスカトリポカなんて、勝手知ったるような涼しい顔をしている。見ろ、アレは流行りの服だろう、とか、あのポスターのアイドルはよくテレビに出ている、だとか。
 目的の階に着いても、まるで訳知り顔で歩くものだから、目当てがあるのかとデイビットが聞くと、知らん、と言った。

「こういうのは普通、見て回るものだろうが」
「だって、迷わず歩くから」

 テスカトリポカは軽やかに笑った。神様には人間のような懊悩、逡巡は存在しないのかも知れない。そんなことを考えるデイビットも、あまり迷いは存在しない方だ。記憶の所在も、残すべき5分間も。

「オマエは着込む方だからな。もう少し軽い方が……」

 既にテスカトリポカはショップに入って掛けてある服を見ている。

「軽いって、あの薄いトップスみたいなのはオレには似合わないと思うぞ」
「そうだな。そこは、身体の厚みがオレとは違う」
「それに家ではティーシャツだって着る。いつも着込む訳じゃないし、同じ格好をしてる訳でもない」
「ま、とりあえず合わせてみるとしよう」
「というか、今日はおまえの服を選びに、」
「試着室を借りるぞ。デイビット、そこで待ってろよ、持ってきてやる」

 テスカトリポカは我が物顔でショップの試着室にデイビットを引き入れた。痩身とは言わないが、テスカトリポカは引き締まった身体をしているので、自分の方が体格が良いのではないかと思っていたが、実際彼はかなり筋肉質な身体で、力もやけに強い。簡単に引きずり込まれたのでデイビットは驚いて試着室に佇んだ。長い姿見が全身を映し出している。

「これとこれとこれ。こっちは別だ」
「……そんなに着るのか……?」
「まだ他にも用意してやるさ。ああ、あっちの店のもいいな」
「やめろ、テスカトリ……テスカ。余所の店の物を持ってくるな。この店の範囲でなら、幾らでも着るから」

 何となく、言葉を濁すように呼んだ名前に、テスカトリポカはくすりと笑った。

「いいな。ああ、そういう愛称だった。オマエは、いつもそう呼んでいた」
「オレの話じゃないんだろう?」
「オマエの話だ。オレにとってはいつも、ね」

 テスカトリポカは頭をくしゃりと撫でて、やわらかく笑った。狡猾さを感じさせる切れ長の瞳の輝きが、とても円やかで、デイビットは驚いた。
 まさか、目の前の男がテスカトリポカ神であるとは誰も思わないだろうが、神様の名前を知人へのニックネームとして用いていると周囲に思われるのも難だと感じただけのことだったのに。

「……テスカ」
「幾らでもと言ったな。よし、待ってろよ、デイビット」

 断る言葉も見つからず、デイビットは服を物色し始める背中を見つめて小さくため息を吐く。妙な客にぽかんとする店員に、申し訳ない、破損したら弁償するので、と言ってやるのがデイビットにできる精いっぱいだ。

「……あのー、お二人はモデルとか、ですか?」
「いや、全然違うんだ。そういうプロモーションか何かだと誤解させたなら悪い。インスタグラマーでもないし、インフルエンサーでもない。ユーチューバーでもないよ」
「写真とか撮っても……?」

 デイビットは驚いて、アイツの? とテスカトリポカを指差した。

「あ、いえ、お二人の。イケメン二人組の来店ってインスタに上げたいなーと思って」

 デイビットは悩んだが、今、現在進行形で店に迷惑を掛けていることを鑑みて、OKを出した。代わりに、ヤツの気が済むまで試着室を占領させてもらう、ということで話を付けて、最初に持ってきた服に着替えることにした。

「どうだ。イイじゃないか、中々。春らしくてイイ」
「……落ち着かない」
「ボーダーが好きなら好きでいいが、色が悪い。ここは黒――と言いたいところだが、春らしく淡い色をベースにした。デニムのジャケットもらしくていいだろう? ダブルのジャケットにしてマリンルックにしてみてもいいな」
「まだ着るのか?」
「当然だ。さっき渡したのを着てみろ。シャツも黒ってのはオレも好きだが、ま、そればかりではと思ってね。ストライプの柄にしてみたワケだが」

 黒のパンツはそのまま、デイビットは言われるままにシャツに着替える。腕や胸筋も窮屈にならない丁度いいサイズだった。

「ぴったりだろう。オマエの胸のデカさは知っているからな」
「変なことを言うな」
「次はパーカーだ」
「全然着ない」
「ただ着るだけじゃ、部屋着にしかならないかも知れんが、重ね着をしてトレンド感を出していく」
「おまえ、本当に」

 神なのか? と言いかけて、デイビットは息を吐いた。神様が、洋服のトレンドのことを知っているものなのか?
 テスカトリポカは口元に笑みを浮かべているだけだ。

「マウンテンパーカー、春ならカーデもいいな。やはり色はネイビーで……ベージュのアウターも今季はマストだな」

 それから一時間以上、デイビットはアレもコレもと、とっかえひっかえ服を着させられた。そして、テスカトリポカの気に入った服を買った。勿論、デイビットのカードで。
 大量の洋服は配送を頼んだので、一着だけ着て残りは手ぶら。今日一日分の売上だと大喜びして、スマホで二人の写真を撮っていた。何もないとは思うが、後で店のインスタを確認しておこうとデイビットは思う。

「ま、あれだけ買えば暫くは困らんだろう」
「何でオレの服ばっかり……おまえの服はどうするんだ」
「何、ソイツは後でいい。そもそもオレは、服くらい自由に変えられる。神だからね。持っていて損もないが、必要という意味じゃ、さほどでもない」
「な……! じゃあ、今日出てきたのは」
「オマエの服選びだ、デイビット」

 それを聞いて、デイビットはぐったりと肩を落とした。

「ミクトランパにいれば、オマエの方の服も自由に与えてやれたんだが、オフモードではそうもいかん。だから買ってやったというワケだ」
「いや、オレの金なんだが」
「イイ使い道だろうが。色々と着られて、満足したか?」
「……疲れた……着せ替え人形にされた気分だった……」

 疲労困憊のデイビットと違い、テスカトリポカは上機嫌だ。その横顔を見ながら思う。延々と着替えさせられて、確かにぐっと疲れたが、彼の視線がずっとやわらかく、優しく、慈しんでくれているように見えたので、断れなかった。この神様は、本当に、自分のことを想ってくれているのだと感じる。

(……落ち着かない、な)

 何だか本当に見知らぬ国にでもいるかのようだ。

「デイビット、ランチでも食っていくか。何がいい? 現代日本になら、何でもあるだろうが――」
「マック」

 即答すると、テスカトリポカは驚いた顔で振り返った。

「デイビット。オマエな。この、飽食の時代に」
「いつも食べてるビッグマックでいいから。あと今ポテトのLサイズが安い」
「春ならせめて、てりたまくらい食ったらどうなんだ? わらびもちパイとか。オマエの食事に対する意識は変わっていないのか?」
「知ってる癖に」

 黒猫が焼き魚や鶏肉を食べている横でデイビットはいつもビッグマックを食べていた。自分でも料理はするが、他に食べるのは基本的にマック。バーガーとポテトがデイビットのいつもの食事だ。たまにサンドイッチやホットドッグも食べる。サブウェイも買う。
 その時猫は、デイビットが席を外すとパテだけぱくりと食べていたりしたので、おまえだってバーガーが好きなんだろ、と小突いてやったことがあった。デイビットは猫とのそんな他愛ない生活を懐かしく思い出す。

「……そうだったな。オマエは毎日ビッグマックを食らうようなヤツだった」
「ビッグマックとLサイズのポテトだよ」

 テスカトリポカは深々とため息を吐いた。

「イタリアンだ。たまにはピザでも食っていくぞ、デイビット」
「ピザ? ピザならいいよ。ドミノか? ピザハットか? ああ、ケンタッキーでもいいんだが」
「イタリアンだっつっただろうが! アメリカンファストフードから離れろ、オマエは」
「何となく故郷の味のような気がして」
「マックのバーガーはママの手作りの味ではないだろうが」

 オレが選ぶ、とテスカトリポカはデイビットの手を掴んだ。デイビットは手を引っ張られるままエスカレーターを降りる。

「じゃあサルヴァトーレクオモ? ナポリの窯?」
「オマエね。宅配ピザから離れろ」
「そんなことまで詳しいな」
「オマエの家にチラシがよく届いてただろうが」
「そういや、よく見てたよな……」

 猫がチラシをぺたぺたと踏み付けてから座っていたことがあった。チラシだけでなく、新聞も同じ。今時ローテクな情報源だとは思いつつも、アナログ情報へのアクセスも必要なことがあるかも知れないと思って契約していた新聞紙をデイビットが読んでいるとそこに猫がやってきて、膝の上で丸まり、さも一緒に見ているかの如く首を動かしているということはよくあった。もしかするとあれは、本当に読んでいたのだろうか。
 或いはデイビットがパソコンを使っていると、横から寄ってきて画面を覗いたりもしていた。邪魔するなとおもちゃでじゃらしてやっても、すぐに飽きてパソコンの前に座って丸くなる。変な猫だと思っていた。テレビ画面もじっと見ていたし。テレビは動くから猫が目で追うと聞いたこともあるが。

(本当に――)

 もう何度も思ったことをまたデイビットは思う。
 本当にあの温かい猫が? 本当に目の前にいる人に? 本当に、神様に?
 握る指先が温かい。膝の上にあった体温と似ている。

「こっちだ」
「ピザって書いてあるな。イタリアンなのか?」
「ピザ屋というのは大体そうだ。ま、ここが正規イタリアンかと言われればそうでもないだろうがね。ま、パスタやリゾットもある」
「へえ。でもピザでいい。ペパロニピザ」
「ここでそういうものを頼むな。生ハムでいいだろう」
「どっちでもいいけど……」

 相変わらず勝手知ったる様子ではあるが、今度はズカズカと席に座るようなことをテスカトリポカはしなかった。扉を開けて、「2名様でよろしいですか?」と尋ねたウェイターに頷いて案内を受けている。さっきの傍若無人はわざと? まるで性格ごと違うかのように見える。
 テスカトリポカ神のことをデイビットは知っている。知っていると言っても、詳密にではないし、アステカ神話の本さえ読んだことはない。ただ、少し前、古代メキシコに関連する企画展に足を運んだ。そこから、幾らか情報にアクセスして、知っている。

『――オレは黒く、赤く、青く、白く』

 何か、聞き覚えあるような声がデイビットの耳の奥で響いた。残響のようなもの。席に座り、メニュー表を見ていたデイビットは瞬きをした。

「ブッラータ、生ハム、ルッコラ。それと、サラミを乗せたマルゲリータ。それから、バーニャカウダーだな。クラフトビールを2、適当に持ってきて構わない。デイビット、デザートはどうする?」
「食べたら考える」

 ならそれで、とウェイターに告げたテスカトリポカだが、ここの支払もまたデイビットのカードである。ただ、彼が選んだものに不満はなさそうだと思った。デイビットはさして食事への執着はない。食べる物は何でも美味しいとは思うが、それだけだ。猫が来て、何となく一緒に食べていると、その時は少し楽しいと思った。

「バーニャカウダーなんて、食べたことないよ」
「だろうな。オレも食ったことはない」

 食べたことはないが、どういう料理かはデイビットも知っている。だから、出てきた皿の上に野菜が並んでいるのを見て、グラスに立てないのか、と少し驚いた。神は手掴みでラディッシュをソースに付けて食べていた。
 テスカトリポカは4柱で語られることがあり、その性質が違う、らしい。彼の言っていたミクトランパ・・・・・・というのは、黒のテスカトリポカと結び付けられているとされる場所のことだろう。
 ぼんやりとデイビットが考えているうちにピザが運ばれて来た。ブッラータというチーズはピザの中央に鎮座する袋のような白いチーズのことらしい。デイビットは適当なサイズに切って、サラミの乗ったマルゲリータを口に運ぶ。テスカトリポカの飲んだビールはもう缶で2本目だった。

「美味しい」
「そうだろう、そうだろう。ココってのは、最近日本に進出してきたばかりでね」
「何故本当にそんなに詳しいんだ?」
「流行を押さえておかずにビジネスがやれるか?」
「本気でビジネスを? 社長になるのか?」

 テスカトリポカはブッラータのピザを食べながら笑った。

「そういうのも悪くはないだろう」

 そんなことを言いながら、手の甲でデイビットの頬を擦った。猫にする仕草のようだ。テスカトリポカがどこまでが本気なのか、デイビットには分からない。
 適当に食べ比べながらピザを完食して、しっかりデザートのティラミスを食べてから、デイビットはまた自分のカードで支払った。ランチにしてはかなりの高額だ。懐が痛むというようなこともないが、こういう調子を続けたら、また金を稼がなくてはならなくなるので困る。勉強と趣味だけで過ごしていて気楽な生活だったのだ。

「腹ごなしもできたところで、寄り道をしてから帰るぞ」
「寄り道? スーパーでも?」
「何、この時代のアートでも一つ観ておこうと思ってね」

 テスカトリポカはまた、スタスタと歩いていく。

(アートって、美術館か?)

 ピザを食べていた店のある巨大な複合ビル。一見しただけでは全容が掴めないその建物を彼は迷いなく進んでいく。着いたのは美術館と言うより、ギャラリー、アートギャラリーのような場所で、企画展を行っていた。デイビットは現代アートに疎いので、よく知らないような作品群。いや、デイビットはそもそも芸術に明るくない。教科書で見た美術史の知識があるだけだ。

「知っている作品なのか?」
「いや。この時代に創られるアートというのに興味があるだけだ。バンクシーだとかね」
「美術の神様ではないよな」
「こういうのは、人の営みの見学と確認というヤツだ。ま、それに、恋人を連れてくるならこういう場所だと相場が決まっているだろう?」

 テスカトリポカは手を握った。デイビットは一拍遅れて、それなら映画館の方が良くないか? と言った。

「オマエも本当に変わらんな。映画館。確かに、そういうのも悪くはない……が」
「悪い、ケチを付けたい訳じゃないんだ。たまにはこういうのもいいと思うし」

 ただ、斬新なデートコースを探すひとみたいだな、とデイビットは感じて、意外に思っただけだ。どうせこの企画展のチケットだって自分持ちなのに、まるでエスコートしているようだったから。
 テスカトリポカはぽんぽんとデイビットの頭を撫でた。

「バンクシーは、日本だと結構見るのが難しいな」
「ソイツは喩えだ。その芸術家自体に興味があるという意味じゃあない」

 二人は静かにギャラリーを鑑賞した。デイビットは芸術に疎いが、見ていて何も感じないという程ではない。感情が無いように見える――と言われてきたが、好悪の感情は備わっているものだと思う。

(好悪……)

 単純な二極化だけに分けることは出来ない。けれど、隣を歩く男のことを、デイビットは、嫌だと、嫌いだと思わない。傍にいて心地良ささえ覚えている。
 嫌いでないのなら、好きだと言えるだろうか。

「さて、買い物に戻るとしよう。他に何を買うんだったか?」
「生活用品だ。服以外にも色々とある。食器や、タオルや、歯ブラシ……」
「なるほど。確かに、オマエの行動を見ていた限り、そういうものが必要になるだろうな」

 デイビットはまた、にゃあん、と脚に身体を擦り付ける黒猫の姿を思い出して、くすりと笑った。

「ああ、そうだよ」

 日用品に関してデイビットには殆ど拘りがない。目に付いた物を適当に買っている。何でも揃っているので百均で探しても困らないのだろうが、神様が百円均一の品では流石に格好が付かないだろう。もう遠出になってしまったのだし、折角なのでそのままインテリアショップに足を運ぶことにした。そこならば、値段以上の品物が見付かるかも知れない。
 四月の始まりともあって、店内には人が多かった。恐らく恋人同士らしい二人組も多く、これから新しく二人で生活をスタートさせる雰囲気だ。

「マグカップか。黒、赤、青、白」
「おまえって、黒なのか?」
「メインはな。四属性のどの性質もあるというのがテスカトリポカオレだが、ま、大体そういうことになっている」
「ふうん。じゃあ、黒のマグカップにする? ああ、この黒猫はどうだ?」

 くすりと笑うと、猫ではない、とテスカトリポカはまた言った。

「猫ではなくてジャガーだ。見て分からなかったか?」
「分からない。オレの中ではまだ黒猫がいるんだ」

 テスカトリポカは急にデイビットの肩を抱き寄せると、猫はこんなことしないだろう、と囁く。棚の陰に隠れて視線は遮られているが、あまりこういうところを見られるのは、とデイビットはやんわり身体を押し返した。

「TPOの問題で」
「Time. Place. Occasion. の略語だったな」
「黒猫のマグカップは嫌か?」
「いいや。軽くていいだろう。現代の技術ってのは全く進んだものだな。軽い陶器のマグカップ、冷えにくいタンブラー、熱に耐えるガラス」
「神様みたいだな」

 デイビットはまた笑った。

「オマエの分も買っておけよ、デイビット」
「マグカップなら持ってる」
「いいだろう、新生活を始めるなら、こういうものを揃える方がいい」
「まだ使える」
「必要性がオマエにとっているのなら、そのマグカップには罅を入れてやっても構わないが」
「やめてくれ、勿体ない。分かったよ、二つ買うから」

 棚の向こうでカップルらしき男女が、お揃いで買おうね、とか何とか喋っているのが聞こえるが、まさか、そういう俗っぽい感性で? とデイビットは思った。黒猫の柄に関しては、構わないらしい。
 それから二人は茶碗を二つ買い、箸を二つ買い、皿を二つ買った。食卓の色合いを合わせるのは、多分、インスタグラマーの写真には必要なことかも知れないが、相変わらず人の金だと思って好きにしているな、とデイビットは思った。
 階を変えて、他にも必要そうな日用品を買い集めていく。手元の袋も増えてきたので、すぐに必要な物品以外は配送を頼むことにした。

「タオルも買ったし、後はそうだな、ベッドと布団がいるだろうな」
「ああ、デカイベッドがいるな。二人用の。キングサイズが良さそうだが」

 テスカトリポカがさも当然のように言うのを聞いて、デイビットは首を横に振った。

「そのことなんだが、テスカ、部屋が一つ空いているから、おまえはそっちを使っても――」
「キングサイズともなると種類がないな」

 デイビットの言葉を気に留める様子もなく、テスカトリポカは備え付けのカタログを手に取って見ている。デイビットは息を吐いた。

「……オマエがどうしても不快に思うというのなら、考慮はするが」
「不快とは言わないが、ああいうのは落ち着いて寝られなくないか?」
「昨日はぐっすり寝ていただろう」
「――あれは……」

 夜中に予想外の出来事が起こって混乱して、脳が身体に休息を命じただけだ。一度、シャットダウンした方がいい、と。目覚めたら状況は変わるかも知れないから――と。結局、何一つ変わっていなかったけれど。
 だが、すぐ横にきれいな寝顔があって、何だか少し、夢を見たのではなくて良かった、と思った。あんなに鮮明な出来事が夢であったら、現実も胡蝶の夢のようなものなのではないかと疑うところだった。

「オレはいつもオマエの隣で寝ていただろうが」
「猫となら、そうだった」
「ジャガーだ」
「……じゃあ、ジャガーと。なぁ、ジャガーにしては小さくなかったか?」
「一般家庭に潜り込む為に必要な措置を取った。必要なサイズ感になっていたのさ」
「だったら尚更分かる訳ないだろう」

 口が減らないなぁ、とテスカトリポカはデイビットの頬を柔らかく、むにっと抓った。黒いマニキュアが塗られている爪が目を惹く。
 結局のところ、デイビットは、昨夜は心地良く眠れたのだ。温かくて、猫を腕に抱いている時のようで。実際には自分が腕に抱かれていたのだが。
 遠い、どこかの記憶に引きずられるように? 自分には本来馴染みのない、知らない何かが、と考えて、デイビットは首を振った。テスカトリポカはやっぱり大きなベッドを眺めている。

「このサイズは注文になるらしいが、マットレスの質感なんかは分かるだろう。どうだ、デイビット。オマエの部屋のものと比べて」
「オレの部屋のマットレスはエアウィーヴだから」
「……そりゃあ、寝心地がいいワケだな」
「ああ。だから、ベッドのサイズを変えるのはちょっとな、と思っただけだ。まぁいいよ、新しくしても」

 テスカトリポカは、戦士には眠りの質が重要だからな、とブツブツ言っていた。マットレスに合わせて、それなりの値段のベッドフレームを利用しているのだが、こういった量販店のような場所での耐久性はどうであるのか、デイビットには分からない。

「二人で寝るとして、ベッドの耐久性は大丈夫なものなのか? 壊れたりしないのか?」
「普通は壊れんだろうよ。激しい運動・・・・・でも上でしなきゃね」

 含みを持たせるようにテスカトリポカは笑って言い、デイビットの頬を撫でた。

「心配なら試してみるか?」
「テスカ」
「ちゃんとそういう想像が出来ているようならいい」

 ククッと喉の奥で笑うので、デイビットは眉間に皺を寄せるばかりだった。何だか分からないのだが、揶揄われているような、だがそこには一定の愛情があるような、要するに友人或いは恋人がそういう戯れをしているような、そういう雰囲気、だろうか。

 デイビットには恋人がいたことがない。友人もいないのだから当然のことだが、顔を見て告白されることはあっても、特に利がないので断っていた。必要性も見出したことがない。
 そういうことを言うと、モテそうなのに、とペペロンチーノ――という変わったあだ名の友人妙漣寺から残念そうに、いやどこか嬉しそうに言われるのだ。彼は、まぁ、友人になるのだろうとは思う。だからと言っても二人で出掛けることもないし、大学で会話をするだけなのだが。
 ともあれデイビットはあまり人と交流しない方が相手の為に善いのではないかと思っている。だがそこにはっきりとした理由はなく、直感でそうしているというだけだ。こんなに距離が近い男は初めてだった。

(だが、)

「……おまえは」

 頭を撫でていたテスカトリポカは首を傾げた。デイビットは、いや、と首を振る。

「耐久性も心配だし、ネットで探してみてもいいかも知れないな。暫くは、狭いベッドになるが」
「何、構うことはない。オマエがオレに床で寝れと言わないのであればね」
「そんなことは言わない。でも、そうだな、オレがソファで寝れば解決――」
「却下だ。ナシに決まっている。ありゃオマエのエアウィーヴだぞ」

 それはそうだな、とデイビットは思った。寝心地は一級品だが、結構高いのだから。
 デイビットは清貧を良しとする方でもないが、浪費もどうかと思う方である。その上で、睡眠は身体の休息にあって特に重要であると結論付けて、高そうなマットレスを直感的に選んだ結果だ。

「枕は買っていこう。それはいるだろう?」
「参考までに聞くが、オマエの枕は――」
「テンピュールだ」
「そこは揃えていないのか」
「特に理由はないんだが。次は、マットレスをそっちにしてみてもいいな」
「そうだな、いずれ劣らぬ質だろうとも」
「帰ったら検討しよう」

 建物を出ると既に陽は暮れ始めていた。ランチを食べてから移動して、もうこんな時間になったのか、と思う。景観が良さそうだからとテスカトリポカに連れられて、埠頭の方を二人は少し歩いた。

「いい風だな」

 春らしいやわらかい風が金色の髪を揺らしている。テスカトリポカは、「エエカトル、エエカトル」と呪いのように呟いて、煙草に火を付けた。

「まだ夜の風ではないか」
「夜の風?」
「ヨワリエエカトル。ま、こんなところでは、呪いまじないくらいにしかならない言葉だがね」

 ぽん、とテスカトリポカの手が頭を撫でる。デイビットは眉間に皺を寄せた。

「どうした? 急に不機嫌になったか?」
「それは――、そういうことは、オレにすることじゃないだろう」

 息を吐き出すように言うと、テスカトリポカは目を丸くした。

「だって、おまえが言っている恋人はずっと、オレのことじゃないじゃないか」

 デイビットはテスカトリポカを知らない。テスカトリポカという神を――知らない。知らない人、いや、遠き地で信仰されていたと聞いただけの、見知らぬ神様だ。大切にされる理由もない。愛されるようなことも何もない。知らない。この短い記憶を辿ってみても、そんなものはどこにもありやしないのだ。
 だから、どこか温かな気持ちを感じても、虚しいだけだと思った。多分自分は自分なりにこの神様のことが好きで――、それだから。

「驚いたな。オマエにも、嫉妬心があったのか」
「こんなの嫉妬じゃないだろう? それはオレとは別人だと言っているんだ」
「どこか見知らぬ時空にいる自分ばかりが愛されているのが気に食わないのだろう? そういうのを嫉妬と言うんだよ。誤解でも、そういう感情は大事にしておけよ、デイビット。オマエを人間らしくしてくれるモノだ」

 宥めるようにテスカトリポカはデイビットの頭を抱き締めた。

「そうか。平和に過ごせばオマエだってそういう気持ちを抱くんだな。最初に言ったが、別の時空にいるデイビットとテスカトリポカというのは、オマエでもないし、オレでもない。だから、言っているだろう? オレのデイビットは、徹頭徹尾オマエだけだ」
「訳が分からない」
「理解できる筈だ。オレの戦士、賢いオマエなら、分かるだろう? 別の時空には別の神様とヒトがいて、この時空にはオレとオマエがいる。確かに、オレはオマエを知っているかのように語っていたからな。それは誤解させたかも知れん。オレからすると、それは、『あ、進研ゼミでやったところだ!』というくらいの意味合いでしかないが」
「は? 進研ゼミ……?」
「知らないのか? 学生向けの授業対策用の通信教育だ。これを先取りして勉強しておくことで、既に課題として取り組んだことがある、と感じられる。それが『やったところだ』というフレーズになるワケだ」
「知ってるが。いや、何でそんなこと知ってるんだ?」
「分かりやすい喩えをしてやったつもりだが、オマエに伝わっていないようであれば、解説が必要だろうと思っただけだ」

 真面目な話をしているのにそんなネットミームじみた言葉を、とデイビットは思う。ただ、その風のような軽さが、テスカトリポカらしいというような気がした。

「人間はそうではないが、オレは全能神なんでね。余所オレの記憶を識ることが出来た。だからそれを見て、オマエに会いに来た。この世界にいるオマエに会いたくて会いに来たんだ。これはもう言った筈だな。が、これで伝わらないようであれば、もう少し続けてやってもいい。そもそも、この時空でもオレたちは巡り会う運命にあった。オレは、単にカードの順番を入れ替えただけだ。全能神だからな。運命そんなものを悠長に待つより、さっさとオマエに会った方がいいと思った。どんなすがたであってもね」
「……それが、ジャガー?」
「ああ、そうだ。そしてオマエと共に過ごした。形態はたしかに違ったが、あの時、オレとオマエは、心を通わせていただろう?」

 デイビットはまた、頭を撫でた時のあの温度を思い出した。まるで人間のように寄り添って映画を一緒に観ていた。隣り合って眠っていた。二人でご飯を食べていた。
 どれも一瞬一瞬でしかない。それでも、必要な記憶でもないのに、短い一日5 minutesの中で、猫との記憶を大切に保持していたのだ。

「オレはオマエが作る料理の味を知っている。味はまぁ薄かったが、よく煮込んだスープの味なんかをね。夜にオマエが魘されている時は頬を叩いてやったりもしたさ。オマエが映画を観ている内に寝落ちした時なんか、毛布を咥えて持ってきてやったりもしたんだ。ま、ソイツは、オマエも気付かなかっただろうが」
「いや。もしかしたら、あの時は、おまえかも知れないと、確かに思ったんだ――」

 顔を上げて、テスカ、とデイビットは呼び掛けた。視界の横、海の向こうには夕暮れが見える。

「おまえは、オレのテスカなんだな」
「最初からそうだと言っている。オマエの神様だ、デイビット。オマエを愛している――」

 唇が近づいて触れ合う。デイビットはそれを拒まなかった。どこかの世界で自分が誰を愛したのかは分からない。けれど、目の前にいる男のことを自分は愛しているのだと思った。
 テスカトリポカは優しく笑い、また頭を撫でた。

「誤解はあったが、代わりに貴重なモノが見られたな。他ののにも自慢してやるとしよう」
「他の? 赤や青や白のテスカトリポカに?」
「別の時空にいるテスカトリポカオレだ」
「……ややこしいな」

 汽笛の音が大きく響く。納得できたな、とテスカトリポカは耳元で囁いた。

「帰るぞ、デイビット。オレたちの家に」

 デイビットは頷く。もう拒む理由は一つもないと思った。

「夕飯はいつもどおり、オマエの手料理がいいと思うが」
「そうか。チキンがあるから、クリームシチューはどうだ?」
「ああ、ソイツはいいな。オマエが作るシチューは美味い」
「今日はオレと同じ味付けにするから、一つの鍋で作れる」

 ああそうだな、とテスカトリポカは笑って、デイビットの手を握った。


猫→人間ネタのカプを見るのが趣味で書きました。エイプリルフールならゆるされるはず。
日記の方にも書きましたが、この後の話を加えたらpixivにアップする予定です。もう一つ残った問題の解決はそっちの方になります。

現代暮らしのデイビットくんは魔術師デイビットくんよりも丸くて雰囲気も柔らかくなっているかもなぁとか思って割とそういう感じになりました。テスカトリポカの方も、聖杯戦争! マスターとサーヴァント! なーんて時より和やかになってます。でもサーヴァントの方が魔力に融通が利くな、とか思っていそう。
それにしても現パロは書きやすくていいなぁ。

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