
それは、春の麗らかで暖かな日の出来事であった。
「なぁ、おじちゃん、俺に何か用事?」
いつもの小学校の帰り道で、萩原は、自分に付いてきてじっと自分を見ている、父親と同じくらいの歳の男に、振り返って声を掛けた。
「さっきから俺のこと見てたみたいだけど……知ってるおじちゃんだっけ」
「あ、えぇと、私は君のお父さんの……友人で」
「そうなんだ」
にこっと萩原は笑った。
「父ちゃんの友達って人いっぱいいるからさ、おじちゃんもそうなんだな」
「ああ、そうだよ。君に、少し話があって……その、あっちの方で話を聞いてくれるかい?」
「うん。いいよ」
萩原は男の言葉に頷いて、「こっちだよ」と言われるままに後を付いていく。
「公園とかに行くの? それとも、おじちゃんの家?」
「いや。ただ、静かな場所だよ」
そう言って男は古い工場のような場所に萩原を連れてきた。
「ウチの工場みたい」
「ハハ……それよりもっと古い場所だよ。もう中では何も作っていないらしいからね」
だだっ広い倉庫の中央付近に、小さく古いソファのようなものが置かれている。萩原は案内されてそこに座った。
「おじちゃん何か困ってるの?」
「え?」
「だってずっと、俺のこと見ながら、そういう顔してたからさ」
それで声掛けたんだ、と萩原は両足をぶらぶらさせながら言った。
「困ってる人には親切にしねぇと」
「……そうか、君は優しい子なんだね」
萩原は顔を上げてにこっと笑った。
「おじちゃんにも子供いる?」
「え?」
「さっき歩くとき、俺が歩くのに合わせてくれてたからさ。おじちゃんの子にもそうやってたのかなーって」
その子の名前は? と萩原は首を傾げて尋ねた。
「……健児だよ」
「あ、俺とおんなじ名前だ。俺も研二って言うんだぜ。なぁなぁその子ってサッカー好き? 俺、今友達と放課後、サッカーやってんだけどさ、人数足りなくって。俺、健児くんとも一緒にやりたいなぁ」
にこにこと萩原が笑って話すと、ううっ、と男は両手で自分の顔を覆った。
「やっぱり私にはできそうにない、こんないい子を誘拐するだなんて……!」
「おじちゃん、ほんとに何かあったの?」
俺に教えてよ、と萩原はぴょんとソファから立ち上がった。
「陣平ちゃん、出てきて大丈夫だよ。おじちゃんもう何も企んでねぇからさ」
「ホントかよ。お前、すぐ人を信用しちまうんだからな。言っとくけどな、オッサン。俺はまだテメェを完全に信じたわけじゃねぇ。俺のダチに手ェ出したらタダじゃすまさねぇからな」
「へへっ。陣平ちゃん、ボクシングとか習ってるからホントに強いんだぜ」
男は工場の隅の方から出てきて自分を指差す少年を見て目を丸くした。
「なっ、どうしてここに、別の子供が……」
「テメェと萩が歩いてんの付いてきてて、そんで先回りしたんだよ。それともまさか萩がのこのこ付いてったと思ってたのか?」
松田がじろっと男を睨んでも、やはり子供の顔では迫力がない。同年代の少年たちなんかは、すぐ人を睨む上に腕っぷしも強いので松田が睨むと跳び上がって怖がるのにな、と萩原は思った。ただ、松田がやたらと喧嘩に強いのは本当だし、多分この気弱そうで喧嘩なんて一度もしたことがなさそうな優しそうな顔の人であれば、簡単に抑え込まれてしまうようなことはないだろう。実際、そういう人相や迫力を見てから、2人はこの作戦を考えた。即ち、何か企んでいそうなおじさんを俺らで何とかしてやろう大作戦だ。
『で、萩がのこのこ付いてったと見せかけて、俺が後を付ける。話を聞いて、もしおっさんがお前に何かしそうになったら俺がぶちのめす。んでいいだろ?』
『でも、陣平ちゃん、危ないよ。大人相手に』
『平気だっての! あんなひ弱なおっさん、俺がぶん殴ったら一発だぜ! つか、お前が言い出したんだろ、萩。大人に言って警察に捕まったりしちまう前に俺らで話聞いてやろうとかってのは』
『だっておじちゃん、絶対に悪い人じゃないと思うし。俺、前におじちゃんのこと公園で見たことあるんだ。その時は、俺と同い年くらいの子と一緒にいて、サッカーボール蹴ってたんだ。でも最近その子は見ないし、おじちゃんはずーっと暗い顔してたし……』
『わーったっての。だから心配すんな、俺がお前のことちゃんと守ってやっから。お前もちゃんと上手くやれよ?』
『うん、わかった。ありがとう、陣平ちゃん』
そういう作戦を2人は立てて、今日実行したのである。
「おじちゃん、もしかして、おじちゃんの子の健児くんに何かあって、それで、俺のこと誘拐とかしようとしてたの?」
「……あぁ、そうだよ。君には本当にすまなかったね」
「いいよ、俺何もされてねーし」
「私が愚かだったんだ。いくら、息子の治療費を何とかしなくてはいけないとは言え、あんな男の口車に乗せられるなんてどうかしていたんだ」
男はがっくりと肩を落とす。可哀想になって、萩原は近づいて項垂れる背を撫でてあげた。
「あ、コラッ、萩、お前、すぐそういうことする!」
「大丈夫だって、陣平ちゃん。おじちゃん反省してるよ」
「萩に手ェ出そうとしたこと、俺は許してねぇけどな」
松田がそう言ってくれたので、萩原は嬉しくなって、エヘヘと笑った。萩原が背中を撫でていると、男は静かにまた口を開いた。
「心臓の難病なんだ。それも急に見つかって、移植するしか手立てがないが、そんな高額を払えるような暮らしを私はしていない。だから……」
「それで萩を売ろうとしたのかよ」
「ううっ! 私は本当に……」
「陣平ちゃん、あんまり言い過ぎんなよ」
「ワリィのはオッサンだ! 誘拐してどうなるかなんてわかんねぇんだ。売られても殺されてもおかしくねぇだろ!」
「でも反省してる人に追い打ちを掛けたり追い詰めたりすんのはよくねぇよ」
萩原がそう言うと松田は黙った。
「俺の代わりにいっぱい怒ってくれてありがとな。陣平ちゃんが怒ってくれっから、俺は全然怒んなくていいんだからさ」
「……別に」
ぷいっと松田は顔を背けた。
「あぁ、こんなにいい子を売ろうとしただなんて本当に私はどうかしていたんだ、どうか許してくれ」
「俺はもういいよ。ほんと、全然何もされてねぇんだし。健児くんのこともさ……おじちゃんがどうにかしたいってガムシャラになるのは、多分、誰でもわかるよ」
「だからって誘拐する必要ねぇだろ。クラファンでもやったらいいじゃねぇか」
「くら……ふぁん……?」
「そんなことも知らねぇのかよ。オッサン、もっと頭使えよ、犯罪なんかする前に」
「うん。他の子を攫って手に入れたお金で助けられてもさ、やっぱり、素直に生きられなくなっちゃうって俺も思うから」
「オッサンを唆したヤツは誰だ? ここに置いてるモン見てっと、結構ヤベーヤツって気がするんだけどよ……オッサンたちの計画だと、ここに萩を閉じ込めるつもりだったのか?」
「あぁ。私が彼をここに攫ってきて、そして、ソファの後ろにあるロープで縛り付けるようにと言われていたんだ」
そう言われて松田はソファの後ろに回り、ロープを持って戻ってきた。
「そんで?」
「後は、ほとんど聞かされていない。彼が工場に電話をして身代金を要求すると言っていたよ」
「それでオッサンの取り分は?」
「要求額の3分の1で1000万円と言われたよ」
「えっ、俺んチ、3000万円も払うのムリだと思うけど」
「まぁそういうのは銀行で金借りたりすんだろ? でも萩を連れてくるだけで1000万円なんて、簡単すぎじゃねぇの? もしかして、オッサンも一緒に殺す気でいたのかもしんねぇぞ」
「そ、そんな……!」
「随分と勘のいいガキもいたもんだな」
急に野太い声が響いたので入口の方を見ると、工場の外に薄汚れた笑いを浮かべる男が立っていた。
「チッ、計画もアジトも全部バラしやがって。役立たずが! もういい! うぜぇガキ共々、ここで吹っ飛びな!」
男がそう言うと、今まで半分だけ開いていたシャッターが急に閉じられていく。
「マズイ、閉じ込められる!」
慌てて工場から出ようとしたが、シャッターが降りるスピードには間に合わなかった。ピッと何かが作動する音が聞こえる。
「ここが見付かった時に備えてそこに爆弾を付けておいてやったぜ。開閉装置以外で無理に開けようとすりゃセンサーが反応してドカンよ。そうでなくとも30分で爆発するようにタイマーを起動させておいてやった。助けを呼んでもこんなところに来るのは間に合わねぇよ。バカな真似したことをあの世で後悔しな、ガキ共が!」
そう言い残して声は遠ざかっていく。
「あぁ、そんな……私の所為で罪のない子供たちまでが犠牲に……」
「どうしよう、陣平ちゃん……! って何、爆弾触ってんだよ!」
「シャッターの開閉以外では起爆しねぇだろ。なぁオッサン、しょぼくれてねぇでさ、アイツの仲間だったんなら、爆弾の解除できねぇのか?」
「でっできるわけないじゃないか、私はただの一般人なんだ」
「じゃあ爆弾の図面とかどっかにねぇか?」
「図面? それなら、彼の机にそれらしいものがあったような……」
「ならそれ持ってきてくれ」
「ちょ、ちょっと陣平ちゃん、まさか」
萩原がくいっと袖を引っ張ると、にやりと松田は笑った。
「やってやろうぜ、本物の爆弾の解体ってのをな」
「無茶だよ! いくら陣平ちゃんが俺のSwitchバラして元通りにできたからって……。だって、失敗したら……!」
「時間が来てもどうせ爆発するんだろ。なら、少しでも助かる方法探すしかねぇじゃん。この工場、窓も何もねぇんだから」
松田の言うとおり、工場にはシャッターで開閉される出入口以外に出入りできるような扉はないし、窓もひとつもない。
「図面はあったよ。君、これを見てわかるのかい?」
「陣平ちゃん、解体とか、分解とかそういうのが趣味なんだ」
「そうなのか。ちょっと変わってるんだねぇ」
男は松田に爆弾の図面らしきものを手渡したが、ちらっと見た萩原には、それが何かはよくわからなかった。松田は難しそうな顔をしてじっと見て、多分やれる、と頷いた。
「ホントに大丈夫なの?」
「大丈夫だっての。爆弾解除シミュレーターで遊んだだろ、お前も。あれと似たようなもんだよ」
「あれゲームじゃん!」
たしかにその時松田はとても的確に分析して指示を出してくれた。それに手先が器用で、身近にある機械をよく分解したり戻したりしているのを見る。おもしろいのかなぁ、と萩原は横で見て思っていた。
「でもやることは同じなんだよ。力もいらないし、子供でもできる。順番とか手際とか、大事なのはそういうことだけで」
それと度胸かも知れない、と萩原は思う。松田は度胸という部分では、大人にも絶対に負けないだろう。年上の先輩相手にも挑んでいくので萩原はいつもハラハラしている。けれど松田は必ず勝って帰ってきた。
松田は男に工具箱を持ってきて欲しいと頼んだ。何が必要になるかわからないからできるだけ多く持ってきて欲しいと言うと、男は先ほど図面を持ってきた机の方にまた慌てて戻っていった。萩原はぽつんと立ち尽くす。
「なぁ萩、お前は工場の奥の方で小さくなってろよ。問題ないと思ってるけどよ……まぁ、万が一ってこともあるからな。でも、隅の方で毛布でも被ってたら、お前は命拾いできるかもしれないから、そうしてろよ」
「嫌だよそんなこと! 陣平ちゃんを置いて俺だけ隅っことか、そんなとこ俺いらんないからな!」
俺も横にいる、と萩原は松田の横にぺたりと座った。
「萩、お前、怖くねぇのかよ」
「陣平ちゃん、ちゃんと、爆弾止めてくれんだろ? だから、怖くねぇよ」
本当は指先が少し震えていた。松田のことは信じているけど、それでもやっぱり怖い。この爆弾が爆発したら自分はどうなってしまうんだろうと思った。
ひとりで死なせたらきっと萩原には悔いが残って、もし一緒に死んだら、今度は松田がそれを悔やむのかも知れない。そのどちらかの後悔を生まない方法はたったひとつだけだ。爆弾が爆発しなければいい。
「俺がこの作戦を言い出したんだから。死ぬときは一緒だよ」
「……死なないからな」
「うん」
「死なせない」
萩原がふと顔を上げると、戻ってきた男が、工具を片手に肩を震わせていた。
「うぅっ、本当に私はこんないい子たちを……」
「いいからオッサン! 早くペンチくれ!」
そして、タイマーの30分が切れる数分前に松田は爆弾を解体してみせた。最後まで絶対に傍を離れないと言っていた萩原はタイマーが止まったのを見ても、腰が抜けてしまっていて、そのままへたり込んでしまっていた。
松田はこの解体に手応えを感じたようで、爆弾の構造をもっと知っとかねぇといけねぇな、とか言っていた。
「平気か? 萩」
「うん……ありがとう、陣平ちゃん」
「まぁな。こんなのどうってことないぜ!」
「へへ、さすがだな、俺の親友! でも、俺も陣平ちゃんのことなんか手伝いたかったな」
「なら、今度お前にも教えてやるよ、爆弾の解体」
「うん!」
その後、警察に連絡をして、廃工場にたまたま2人が入ったら、そこは爆弾魔のアジトで、場所を知られた爆弾魔によって閉じ込められて危ない目に遭った、ということになった。
「おじちゃんは、俺たちが工場に入ってったのを見て、心配して来てくれただけだよ」
と萩原が主張して、松田はそれに頷いてくれた。反省してしょんぼりとしたようすの男にこれ以上犯罪を企てる気力はきっとないし、病気の息子の為にも、父親が今捕まるわけにはいかない。
アジトのそこら中に指紋がくっついていた爆弾魔は、前科もあったことであっさりと見つかり逮捕された。男が未然に終わった誘拐事件のことで共犯者の話題を出すかも知れないと萩原は心配していたが、起きてもいない犯罪のことで、警察官の印象を悪くするようなことはなかったようだった。
健児少年はクラウドファンディングで無事に資金を集めて手術に成功したと、萩原が小学校を卒業する頃に1通の手紙が届いて知らせてくれた。親子は引っ越してしまい、その後2人と会うことはなかったが、萩原はあの日の出来事を忘れることはなかった。
次回は真夏編!(適当)