萩原は小学校の頃からの幼馴染であり、常に人目を集めるような可憐な美少女であり、昔からの松田の想い人であった。明るくて優しくて、ややノリが軽すぎるきらいもあるが、昔から男にチヤホヤされており、彼女の周囲からそれらの男たちを追い払うのが松田の重要な役目でもあったのだ。
『萩ちゃん今日俺らと遊ぼうよ』
『カラオケ行こうぜ、奢るよ』
『うるさい! 散れ!』
『ゲッまた松田かよ』
『萩ちゃんまた今度ね』
『ったくまた変なヤツに絡まれて……』
『ありがと、陣平ちゃん』
『ほら帰るぞ』
『うん!』
モテる美少女にはこういう苦労も絶えないものらしく、良くあるやりとりだった。
『松田って萩原のこと好きなんだろ?』
そういうことを繰り返しているので、上の発言はこれまでの人生で100回は松田が聞かされ続けてきた言葉であり、それに対しての返答は常に決まっていた。
『うるせぇ黙れ』
否定も肯定もしたことはない。うるさい黙れ。それだけだ。どちらを言っても余計な言葉にしかならない。そうではないという嘘を言うことで二度とそういう迷惑な発言をされないようにすることも可能かも知れないが、松田は非常に勘が鋭かった。嘘を言うといつか巡り巡って萩原の耳に入り、不要な誤解を招くことになるとわかっていたのである。別段松田はいつも密かに萩原をナイトの如く守りただそれだけを良しとして過ごすようなつもりは毛頭ない。どこかのタイミングで、切っ掛けがあれば、告白していただろう。ただ徒に年月が過ぎてしまったのは非常に残念な偶然というだけである。なので、不要な誤解を招かず、かつ二度同じことを言われるのは煩わしいので『黙れ』になるのであった。
萩原を狙う男は減らないが、この手の揶揄は年齢と共に格段に減ったのだ。しかしそれは他人の恋愛事情を茶化すのは愚かなことであるという悟りを皆が開いてくれたからというよりは、その事実が、言わずもがな、公然の秘密、となったからというだけのような気も松田はしている。
『ねぇ陣平ちゃんて好きな人いるの?』
とは昔マックで松田がバーガーを食い、萩原が横でポテトを摘まんでいた際に彼女の口から出た言葉で、松田はこれに驚いた。
『えっお前それマジで言ってんの?』
『何がマジなの?』
そんなの決まってんだろ昔から、と言いかけたところで、『あれ、松田と萩じゃん』と萩原の友人が突然声を掛けてきたので話は中断してしまった。
それで萩原がどう考えているのかは松田にも預かり知らぬことであるが、少なくとも、言わないだけで実態はカップルに等しい、とまでは言えない関係である。
『陣平ちゃんワンピース読んでもいい?』
『いいけど』
という感じで、昔はお行儀よく松田のベッドに座ってマンガを読んでいたということもあるが、さすがに今は互いの部屋に軽率に入るようなことはない。だが家に帰ってからもLINEはよくくれるので、男にしては珍しい、と偏見じみて言われるほどに、そういうメッセ交換に抵抗なくスルスルと返せる松田とは割と長々やりとりをしている。
『それでさっちゃんが田中先生の真似すぐするからね』
『さっちゃんって誰だよ』
『あれ、言ってなかったっけ? ほらー、ゆうきくんと付き合ってるC組の子で』
『どっちも知らねぇ』
『あ。陣平ちゃんツムツムのハート送って』
『ほらよ』
『ワーイ、ありがとー』
その後にお礼のスタンプでハートマークが送られてきてドギマギしたり、『ねぇモンスト一緒にやろー』と誘われて遊んだり、極めて良好で、健全で、とても真面目な関係である。
そんな曖昧で不明瞭で一方の感情にしか輪郭線が描けていない関係ではあるが、バレンタインデーくらいは、松田はいつも期待していた。萩原は義理だとか本命だとか余分なことは言わず、「陣平ちゃんチョコあげるね」と渡してくれる。彼女は料理が得意ではないため、子供の頃に母親と一緒に作った溶かしたチョコを固めてハート型にしアラザンをパラパラとまぶしたチョコ以外の手作りを貰ったことはない。それも大体母親作であったが。
ともあれチョコは多分くれるだろうと期待できるが甘い予感はさほどない。それでも何もないよりは余程いい。そんなバレンタイン前日に、放課後、クラスメイトらと話す萩原の会話をたまたま松田は耳にした。
「明日はバレンタインかぁ。萩ちゃんも松田にチョコあげるの?」
「うん、あげるよー」
「だよねー。カレシいると楽でいいよねー。ウチらは本命とか縁ないしさ」
「陣平ちゃんは彼氏じゃないよ」
「えっでもいつも一緒にいるし松田ってそんなモンなんじゃないの?」
「ううん、全然違うよ」
「え。だっていつも一緒にいるのに? てか萩ちゃんに告ろうとした男みんな蹴散らしてるよねアイツ?」
「それは、陣平ちゃんがいつも私のこと心配してくれてるだけで」
「そっそうなんだ……」
「陣平ちゃんが優しいだけだよ」
「そうなんだ……松田も苦労するね……」
「? だから、私も片思いだし、今年は本命のチョコには頑張ってチョコ作ったんだけど」
「えっ片思い?」
「萩ちゃん片思いなの?」
「片思いだけど、何で2人ともそんなこと聞くの?」
「それ、ホントに片思いかな……?」
話を聞いていたクラスメイトの女子2人は驚き、クラス中がぎょっとして、松田もひっくり返った。
(萩が片思いって……)
初耳も初耳だし寝耳に水だ。
(どいつだよ!)
よし今からでも遅くないぶっ倒す! と思った後に冷静になって松田は極めて重篤なショックを受けた。想い人に自分の知らぬ片思いの相手がいたと突然知らされたのだから当然だ。
そして強いショックのあまりにか、はたまた温度差の激しい気候の所為なのか、熱が出て翌日は学校を休む羽目になった。自分が他の誰かから貰うチョコなんてものに松田は興味を持ったことはないが、ただ萩原が本命に用意したというチョコのことだけが気になっていた。
(どんな男だよ)
魘されながら見る夢はいつまでも悪夢だった。萩原が裾の長いウェディングドレスを纏い、幸せになるからね、とライスシャワーを浴びてどこかに消え松田の両手にはきれいな円形のバームクーヘンの入った箱がポンと乗せられている。
「バームクーヘンエンドかよ!」
「陣平ちゃんバームクーヘン食べたいの?」
起き上がると驚いた顔をした幼馴染がデスクチェアに座っていた。
「萩! 何でお前がここにいるんだよ」
「陣平ちゃんが熱出したって聞いたから……心配で」
勝手に部屋入ってごめんね、と萩原は可愛らしく言った。
「別にンなことはどうでもいいよ。てか何か遠いな」
「あんまりベッドに近づくと良くないって、陣平ちゃんのお母さんが」
(何だその気遣い……)
多分、可憐な少女が息子の部屋に入り2人きりで何かあったらコトだと思ったのだろう。松田の母は萩原のことを甚く気に入っており、ああいうカワイイ娘がウチにも欲しいわよね、とよく言っている。概ね同意なので松田は特に反応していない。
(まぁ昨日あのまま寝ちまったし匂いもあるだろうし)
母親への変な詮索はともかく。
「あ、陣平ちゃん汗かいてる。拭こうか?」
「お前母ちゃんの話わかってねぇだろ」
「えっどういうこと?」
「いいよ、別にこっちは平気なんだから……汗かいて熱も下がったし」
昔は、小学生の頃くらいまでは、萩原は『陣平ちゃん陣平ちゃん』と、いつもくっついていたな、と急に思い出した。手を握ったり、腕を絡めてきたり……。そんな彼女を可愛らしく、愛おしく思い、俺が絶対に守ってやらないと、と松田は心に決めてボクシングの鍛錬を怠らなかった。中学生くらいになってくれば、周囲にいろいろと言われるからと外で腕を絡めてくることはなくなったし、もう部屋だって行き来していない。松田の部屋に彼女がいるのは久々だ。
「もう大丈夫? 明日は学校来られる?」
「大丈夫だよ。もう平気だ」
「今日の授業、陣平ちゃんと選択授業違うの以外はノート見ていいからね」
「助かるよ」
「うん」
にこにこと萩原は笑った。いつも可愛いヤツだ。その笑顔を守ってやりたいと思っていた。
(それは別に俺がじゃなくたっていいってことか……)
「つーか、何か悪かったな。お前だって今日は、他に用事とかあんだろ」
(チョコ渡す予定とか)
昨日まではぶっ倒すと息巻いていた松田だが、そんなことをして萩原の心を自分が得られるわけではないことはわかっていた。それに、体調不良を理由にするのもいい気がしない。
心の中で大きくため息を吐いた松田とは裏腹に萩原は首を横に振った。
「えっ? ないけど?」
(ないの?)
松田は思わずまばたきをした。
「ないのか?」
「他に用事はないけど……」
だって今日はバレンタインデーだぞ、と松田は言いかけて、もしかして気付いていないうちにもう2月14日は過ぎて15日になっていただろうかと傍のスマホを確認したが、日付表示はちゃんと14日になっていた。
(もう渡してきたとかか?)
それにしては、萩原の様子は普段と変わらない。全くいつもどおりだ。大きなイベントを越えてきたようには見えない。
(本命とか言ってた割にはあっさりしてんな……)
それとも本当は大した相手ではなかったのだろうか。大仰な言い方をしただけだったのだろうか、と松田は考える。大体、妙だと思ったのだ。松田が周囲にいつも目を光らせているのに、見知らぬ本命男が出てくるはずがない。
(つか、ンなの急に出てきてたまるか!)
どこかに知らない出会いがいつだって転がっているかも知れない、SNSとか、と思ったが萩原の持っているインスタはいつも見ているし、性格上裏アカなんて作るとは到底思えない。なんて取り越し苦労だったんだ、と松田は思った。何だよと。
「あ……陣平ちゃん何か用事あるの?」
「ねぇよ。あるわけねぇだろ、寝てるだけだっつの」
「そっか。あっ、ねぇ、チョコ持ってきたんだ。今日バレンタインだから、陣平ちゃんに」
「それでわざわざ来てくれたのか。ワリィな、萩」
「うぅん。元気になったら食べてね」
はい、とキャスターを滑らせてベッドに近づいてきた萩原は、無地の黒い紙袋を松田に手渡した。
「サンキュー、萩」
どうやら本命問題は解決したようだし、今年も大切な人からのチョコが貰えたので松田はますます身体が軽くなった気がする。
(ん? 無地の袋?)
随分と簡素な袋で売っているのだなと松田は中に入っている箱を確認した。
「う、うん。じゃあ、またね」
萩原はぴょんと椅子を立った。
(これって――)
そして、ささっと部屋を出ようとする腕を慌てて松田は掴んだ。
「待て、萩。これって手作りだよな?」
「そっそうだけど……たまには手作りしようかなって思ったってだけで……。あ、嫌だった? ちゃんとしたチョコ買った方が」
「嫌なワケねぇだろ!」
こんな時に寝間着で、しかもベッドの上にいるなんて格好付かないなと思いつつ、腕を引っ張って抱き締めた。
「じ、陣平ちゃん?」
「一応聞いとくが他のヤツに作ってねぇよな」
「……作ってないよ……?」
「好きだ」
腕の中の身体がぴくんと跳ねた。
「お前が好きだ」
これが絶好のタイミングだと思って言うと、萩原は驚いたようにしばらく黙ってから、「うん、私も」と頷いた。
(いやこれ遅かったな絶対)
最高のタイミングどころかもっと早く告白しても良かったなと松田は思った。萩原は「ずっと昔から陣平ちゃんが好きだよ」と言ってくれた。
特に意味のない女体化。バレンタインなので……。
(よく萩子ちゃんの話する割に転生でなく出てきたのは初めてだなぁ)
萩子ちゃんて呼んでるけど本編には名前は出てこないので任意名でどうぞ。
無難なところだと研子ちゃんだと思う。