目覚めはいつも早い方だった。今日という一日を有効に使う為に、憶えていられる時間が少しでも長く続くように、朝の目覚めとはそういうものだった。
その習慣がミクトランパに来てから崩れているという自覚はあった。戦士の休息する地、楽園。そこでは、いつもならば勤勉な戦士を好むテスカトリポカが怠惰な眠りを認めてくれる。
柔らかい風にカーテンの揺れる音、差し込んでくるのは真昼のような陽ざし。
デイビットはゆっくりと目を開けて、自分の身体を抱く男の方を見た。こうして目を覚ますようになって、もうどれくらいが過ぎたのだろうかと時折思う。忘れてはいない。けれど、意識する必要なんてないのだと彼は言う。
「――テスカ」
ささやかに呼び掛けると、名を呼ばれた男は、まるで最初から自分は起きていたと言わんばかりに「どうした、そろそろ起きるか」とデイビットに尋ねた。
「今、何時……」
日頃の癖のように訊くと、テスカトリポカは笑った。また意味のない質問をしていると思ったのかも知れないが、ここでデイビットが人間のように生活できるようにと日頃手を加えてくれているのはテスカトリポカの方である。
暦がある。一日がある。季節感がある。東から昇る太陽は西へと落ちる。それは地球においての観測上の真理だ。
物質的でない、地球上に在るのではない楽園においては、当然そうであるというような性質はない筈だが――ここにそれらがあるのは、デイビットが、人間らしく暮らせるように考えられているからだ。今や白紙の地球には、当然の常識なんて殆どないのかも知れないが。
一体いつになったら漂白された地球は元通りに戻るのだろうか――。それをデイビットが案ずる義理はないし、そのような憂いなど人理からも願い下げなのだろうが、少なくとも宇宙の秩序に反する天体でなければデイビットにこの惑星を厭う理由もないのである。一応、母星であるのだと認識もしているのだから。
「もう昼になるだろう?」
「そうだな。昨晩は楽しんだからな」
「バレンタインデーだから、とか言って」
「いいだろう? 恋人の日だ。恋人とのお楽しみがあって然るべきだとオレは思うがね」
ちゅっと唇がデイビットの頬に触れた。そんな、言い訳染みた言葉が自分たちにとって必要であるとは、デイビットはそもそも思わない。この神は、そうしたければそうするのだから。だからこんな意味のない言葉のやり取りなんて戯れでしかない。それこそ、恋人の日、らしい。
Lover’s dayを楽しむなんて、昔の自分が聞いたら首を傾げそうだと思う。自分が誰かとそういう日に対して意味付けをするなんてことがあり得るのかと。
「何時でも構わんだろう。ま、確かに、せっかくのバレンタインの一日をベッドで過ごすのでは惜しいという意見ならば分かる。ん? どうなんだ、デイビット?」
オレはどちらでも構わんが、とテスカトリポカは喉の奥をククッと鳴らして笑う。
「ベッドで過ごすのは流石にどうかと思う。起きよう。まずはコーヒーを飲んで……」
「アフタヌーンコーヒーを?」
「そんな時間に起きるつもりじゃなかったんだ。そこまでの何かを考えて、昨日眠った訳でもないが」
疲れて、何も考えずに意識を消失させただけだ。何の考えもない。
元気と言うか、精力的とか言うのか、ともかく、そういうテスカトリポカとのセックスは疲労する。それに困っているという意味ではなくこれは事実であって、戦の神は、いつも、そう、精気に溢れているのである。そういうことだ。恋人とのセックスにおいても、こちらが尽きるまで離さない、といった性質で――やっぱり蛇みたいなのか、と、デイビットは思った。怜悧な顔は確かにジャガーというよりは蛇に似ているような気もしている。本人もそう言われる方が良さそうにしている。
「その前に言うことは?」
「――愛してる」
「いい子だ」
唇が、今度はデイビットの唇に触る。そのまま深いキスへと変わりそうだったので、デイビットは身体を離して「朝の口内は雑菌が多いんだ」と言った。
「何だまた地球ごっこか」
「そういうこともないのか?」
「神の楽園に、雑菌があると思うか?」
分かったな、と頭を掴まれて唇に舌を捻じ込まれた。別に問題がないのであれば、デイビットにも拒む理由はない。テスカトリポカの衛生観念というものについて、普通の人と同じ感覚で、気に掛かることがあったというだけだ。
「……んッ……」
別段、二人の間では朝の挨拶が「愛してる」であるというようなことはなく、今日がバレンタインデーであること、そういうことをテスカトリポカが強調しているので、多分求められている回答はこれだなと思ってデイビットは口にしたのだ。無論それはデイビットにとって嘘偽りない感情なので、口に出すことは構わない。
もう少し前までは――、恥じらうという程でもないが、戸惑いは、あった。少なくとも今よりは。デイビットは自分の感情というものへの実感がなければ、自信もあまりないのだ。彼を好きだと思うのに。多分、そうであるはず、といった言葉を完全に払拭できなかった。
が、そのことよりも、性格ごと一変するような神が、すっかり恋人らしい気持ちで接するのがくすぐったくて、デイビットはそれに戸惑っていた。昨日までと景色が違う、というのが比喩ではないと思わなかったのだ。
テスカトリポカは、要するに気まぐれとでもいうような性質の神なのだが、実のところ毎度5分ずつでしかないデイビットから見れば、さっきと言ってることが違う、といったような現象が仮にあっても、憶えていないのでよく分からなかったのだ。だから、ある種の豹変はここに来て初めて知ったことだった。畢竟デイビットにとっては初めてでないことの方が少ないのだろうが。恋も、愛も、キスも、セックスも。
口吻と言うよりも喰われているように唇を貪られて、デイビットの理性が落とされそうになるギリギリで唇は離れた。一日中ベッドで過ごさせるつもりではないというテスカトリポカの意思表示かも知れない。
「今日は何だ? ベッドで過ごすのでもないなら、デートでも?」
「ああ、そうだな。特にプランはなかったが、そうしたらいいと思う」
「いいだろう。どこに行く? オマエの大好きな映画館はいいな。新作があるだろう。が、それだけでは特別感がないな。デイビット、デートコースの指定はあるか?」
「指定って言われても、どういう場所があるんだ?」
「別に何でもある。オマエは行きたい場所を口にすればいい。動物園か? 水族館でもいい。美術館……」
「A museum…oh, that’s right, AMNH!」
「アメリカ自然史博物館? あぁ、そういやオマエの趣味ってのはフィールドワークだったか。ま、いいだろう。ミュージアムね。そりゃいいデートスポットだ」
American Museum of Natural History――アメリカ自然史博物館は、ニューヨークにあるステイツで最も有名な博物館の一つだろう。そこには天使の遺物のような、デイビットがフィールドワークで探す物は置いていないだろうが、純粋な興味で見てみたいと思った。
デイビットはそこに行ったことがないし、大英博物館に行ったこともないが、本当は、デイビットの興味の向きとしては、割とそちらを向いていたのである。どちらも行ったことがないのは、単に暇がなかっただけだ。
「なら、今日の行動は決まったな。デイビット、オレたちは映画館で映画を観て、博物館に行く。そして夜はどこかでディナーでもするとしよう」
「うん、いいな。それはいつもと違う」
「そうだ。何たって、恋人の日だからな」
デイビットは身体を起こして窓の向こうの快晴に視線をやった。室内にも浸透する冬の冷たい空気に、Tシャツ1枚の身体が少し冷えて肩を震わせると、テスカトリポカの腕がデイビットの身体を抱き寄せた。向こうは相変わらず上には何も着ていないが、全能神に寒いとかそういう体温変化はない――。
「窓の近くは冷える」
ないはずなのだが、テスカトリポカは最近は暑いとか寒いとか、そういう気候をちゃんと取り入れるようにしているそうで、寒そうに手を擦っている。デイビットがテスカトリポカの頬に手の甲で触れると、冷えているので、少し笑った。
「寒い季節なんだから、上も着て寝た方がいいよ」
「抱き合って眠れば寒くはない」
「起き上がったら寒いだろう、今みたいに」
デイビットはベッドを降りて、冷えた恋人の為に、クローゼットから黒いTシャツを取り出して投げた。よく分からないジャパニーズが書いてあるTシャツだ。何だこりゃとテスカトリポカも首を傾げている。
「何だったかな、おまえにぴったりだと思って選んだんだけど」
「God…descend…?」
シャワーを浴びてからいつものように二人はコーヒーを飲んだ。
「朝食のパンケーキはいいのか?」
「もう昼だからな。ランチでいい」
「なら、またハンバーガーでも食うか?」
「そうしよう。出掛けて、そこでハンバーガーを食べて」
ミクトランパは実在性のない場所で揺らぎも発生するが、とりあえずデイビットの知る限りでは付近に街がある。いや、家の近くには海岸線が続いていて、これは何だかデイビットが気に入っているようだとテスカトリポカは思っているらしいが。少し歩けば何となく到着するような、そういう感覚も曖昧なので近くにあるとテスカトリポカが言ったら多分近くにあるというか。
ともあれどこかには街があるのだ。以前に行った時はハリウッドのような街だったので、恐らくそれに近いままになっているのだろう。他に、スーパーマーケットに買い物に行くことがあるのだが、それも、近くの街にある。どこか分からない、近くの。
「いつものイナナウトか?」
「……たまには、バーガーキングのワッパーもいいと思う」
「バーガーキングか。オマエら、本当に好きだな、ハンバーガーが」
「手軽で美味いだろう。そんなに拘りはないんだ」
どっちでもいいけど、と付け加えて言うと、テスカトリポカは「バーガーキングだな」と念押しするように言った。
「今日は歩くからワッパーがいいと思う」
「車で行くか?」
「遠い?」
「オマエの好みだ」
「じゃ、歩こう。ドライブはまた今度」
いつものシャツとニットの上にレザーコートを着ると、テスカトリポカが近づいてきて、腕組みをした。
「それで寒くないのか、オマエは」
デイビットは窓の外を見て、その変わらない風景を見ながら、そうかな、と首を傾げた。デイビットはそれほど寒暖には弱くない。まるで感じないということはないが、フィールドワークでの環境が良くないことも多いので、適応できるようになっている。
ひょいとドアを開けると北風がピューと吹き込んできて、デイビットは顔を顰めた。ドアを閉める。
「そうだな。冬用のコートは……」
「用意してやるさ。そら!」
そう言うと、デイビットの着ていたレザーのコートはウールのダッフルコートに変わっていたのであった。デイビットはため息を吐く。
「クローゼットから出させてほしい」
「2階まで上がるのがオマエの趣味か?」
「何でもいいけど……」
それなら寒さだって消せばいいのに、とデイビットは思った。そういう人知を超えたことをしないようにして、人間らしさを保っているらしいが、テスカトリポカは面倒がって、すぐこういうことをする。
テスカトリポカの方もいつの間にウールのコートに変わっていた。
「スーパーマーケットに寄って帰ろう」
「デートの帰りに?」
「いいだろ。日常は続いていくものなんだから」
そうだな、とテスカトリポカはデイビットの頭を撫でながら言った。
「そういや、開けるなと言っていた冷蔵庫の中には何が入っているんだ?」
「ああ、あれは、チョコレートケーキを作ったんだ。色々考えたけど、カルデアに倣ってみるのがいいかと思って」
「……オレに?」
「他に誰が食べるんだ? と言っても、まぁ、ただのデビルズフードケーキだよ。おまえには甘いかも知れない」
「今のオマエみたいに?」
「Sweet?」
テスカトリポカは笑ってまたデイビットの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。別に不思議なことでも何でもないと思うのに、テスカトリポカは予想以上に喜んでいるらしい。
デイビットは彼を自分の恋人だと認識しているし、それならばバレンタインデーにはプレゼントを用意して然るべきだと思ってもいる。だから昨夜は彼の要望にも応えたし、今日だって一日デートを楽しむつもりでいるのに、妙な話だ。
「妙でも何でもない。そういうことに一喜一憂できるというのが人間だろう?」
「おまえは人間じゃないだろう」
「同じように楽しんでいる。この身体の状態ではね」
何が欲しい、とテスカトリポカは尋ねた。そこには正しく全能感が見える。間違いでも何でもない事実ではあるが。
「…Angel food cake. I want that cake.」
「そんなモノでいいのか?」
「だって、ダッフルコートはもう貰ったしな」
それにここにいれば何だってテスカトリポカが用意してくれる。特に欲しいと思う物なんてない。ケーキでも食べたら今日はそれで満足だ。デイビットは天使という響きに過去を思い出すことは幾らかあるが、食べ物に、そしてケーキに罪はない。デビルズフードケーキを作ったのだから、次はエンジェルフードケーキだろう。
テスカトリポカはまたデイビットの頭をぽんと撫でた。
「それじゃあ行こう」
デイビットが勢いよくドアを開けると、また、冷たい風がひゅうひゅうと吹いてきた。寒いな、と言って、テスカトリポカはデイビットの肩を抱く。
「歩きにくい」
「なら、運んでやろうか?」
「手でいいだろ?」
手を握ると、テスカトリポカはまた、驚いたようだった。
「今日はとびきりのいい日だな」
「バレンタインデーだからな」
手を繋ぐのは気恥ずかしいとは今更デイビットも言わない。だが手を繋いだ状態で歩くというのは行動制限があるように感じるので、あまり積極的にしたいとは思わない。
以前に繋ごうとした手を拒絶されたテスカトリポカが不満そうにした時に、デイビットはそう言った。それは別におまえと手を繋ぐのが嫌なんじゃなくて、そういう制限がオレは苦手なんだ、と。だから驚いたのかも知れない。苦手と言っても、絶対に嫌だという訳ではなくて、いつもそうだとちょっと面倒だなと思うだけなのだが。
考えながら、繋いだ指先の熱を感じた。幾度も触れる指先は温かく、心地良くて、いつもデイビットに愛情というモノを教えてくれる。だから、そもそも手を繋ぐのが嫌だと思っているのではないし、テスカトリポカが機嫌良さそうにしているので、たまにはこういうことをしながら街を歩いてやるようにしようとデイビットは思った。どうせここに視線はないのだから。
歩いている内に、二人は街並みのようなところに辿り着いた。
「バーガーキングだったな、バーガーキング。あそこの、ああいう感じのだろう?」
テスカトリポカが角を指差すと、そこには見慣れたハンバーガーショップらしきものが見えた。
ミクトランにいた時から、大分無茶なことばかりする神様だなとデイビットは思っていたが、ミクトランパにいると、彼はもっとやりたい放題だ。彼の領域であるので、誰も文句は言わないのだろうが――青の方のテスカトリポカが「ウワッなんだこの街」とか言っていたようなエピソードはある。
相変わらず無人のハンバーガーショップで、ワッパーにフレンチフライ、そしてコーラを頼んだ。概ねいつもどおりのメニューだ。デイビットはベーコンとチーズのワッパー、テスカトリポカは珍しがってキャンディードベーコンワッパーという、聞くからに甘そうなハンバーガーを選んで、甘いというよりは甘じょっぱいというヤツだなこれは、と頷きながら食べている。
「たまにはナゲットにしても良かったな。サンデーパイも美味しそうだし」
「オレオシェイクってのは?」
「うん、それもいい」
「追加するか?」
「いや、今度でいい」
テスカトリポカは自分のワッパーをデイビットの口元に近付けた。珍しい味だから食べてみろ、ということらしい。
こういうシェアをテスカトリポカがいつも好んでいるという事実はなく、むしろ普段はデイビットが食べているのを「美味そうだから」と勝手に食べようとする方である。別に悪びれることもない。デイビットも、食い扶持が減って困る状況なら拒絶するが、好きなように食べられる暮らしをしていて、そういうことに文句を言うつもりもない。
「甘いな。ベーコンジャムか?」
「砂糖漬けベーコンのバーガーだからな」
「うん、でも甘じょっぱくて美味い……もう一口」
テスカトリポカはにこにこと言うよりはニマニマと言うような楽しそうな笑みを浮かべていた。サングラスを額に乗せているので青い瞳がよく見える。
「ドーナツバーガーみたいでいいな」
「何だそりゃ」
「グレーズドドーナツでパティを挟むんだ。クリスピークリームドーナツのとかで」
テスカトリポカは「何だそりゃ」ともう一度言いたそうに眉間に皺を寄せている。
「グレーズドドーナツってのは、あの、甘いコーティングのドーナツだろう?」
「そう。砂糖掛けだ」
甘いものとしょっぱいものを融合させたハンバーガーというコンセプトは同じ筈だ。デイビットが砂糖漬けハンバーガーをテスカトリポカに返そうとすると、気に入ったならオマエが食え、と受け取りを拒否された。代わりにデイビットのベーコンチーズワッパーをもう食べ始めていた。
「そもそもコレはおまえの好みそうな味だとは思わなかったんだ」
「そうだな。オマエの好みだろう」
テスカトリポカは他には何とも言わずにワッパーを食べているが、要するにデイビットの好みそうだから選んだということだろうか、と思う。そんなことをしなくても、気になるならそれを食べることはここでは訳ないことだが、そういう人間っぽい文化をテスカトリポカは気にするようにしてくれている、ということはある。
大抵そういう場合でもテスカトリポカは恩着せがましくこちらに言うことが多いと思うが――一々指摘するのも無粋なのだろうと、デイビットは黙ってハンバーガーを食べた。季節限定商品と書いてあったので、よっぽどのことがなければ、次にはメニュー表から消えているのだろうと思いながら。
食べ終えたトレイを返却して、二人は今日の目的地の一つでもある映画館へとまずは向かった。
「また最新作でも観るか? 最近じゃあスパイ映画の『アーガイル』ってのが評判がいいらしいが、『アクアマン―失われた王国』の人気も根強いらしい」
「いや、今日は観るのを決めてきた」
「珍しいな――ということもないか。何だ、今日に相応しい映画を選んだか?」
「ああ。『ナイトミュージアム』だ」
テスカトリポカは青い瞳を瞬きさせた。
「そういうロマンス映画か?」
「どちらかと言えばコメディじゃないか?」
デイビットの言葉に、テスカトリポカは今度は黙ってしまった。コメディは気に入らなかっただろうかとデイビットは首を傾げる。
テスカトリポカは話の中身よりも派手なアクションのある映画や戦争映画が好みらしい。この映画はアクションではないだろうし戦争もないが、結構迫力はある映画だとデイビットは認識していた。
「他のでもいいよ」
「いや、オマエが観たいものを観ればいい。別にオレに観たい映画はないからな」
「そうか。ならいいが」
いつものようにポップコーンとコーラを買って、ずらりと無意味に並ぶ座席の真ん中の席に並んで座る。貸し切りのような映画館は贅沢だが、毎度こうなので、何だか空いたスペースが勿体ないとデイビットは近頃感じていた。
ここに新たな戦士が来たら招待してあげれば良いのでは? と思うも、そもそも新たな戦士などというモノがやってこないのである。やはり地球が白紙であるからだろうか。
誰か来たからって他の戦士はオマエには関係がないとテスカトリポカはよく言っている。折角立派な街並みがあるのに、案内してやることもないらしい。その街並みも、デイビットの貸し切り、いや、専用なのだ。
予告編――地球の映画館に忠実にちゃんと予告も存在するのだ――を、デイビットはポップコーンを摘まみつつ眺めて、今よりは少し古いフィルムが始まった。こういうのは先日観た『Wonka』と画面の精細さを比べるようなことはあってはならないだろう。勿論その映画も面白かった。
『ナイトミュージアム』は、その名のとおり、夜の博物館を舞台とする映画である。テスカトリポカは最初の反応からすると、デイビットがこの映画を選んだ理由が分からなかったようであるが、その疑問は映画が始まれば簡単に解けただろう。映画の舞台となる博物館が、今日行く予定のAMNHなのだ。
デイビットは、昔この映画を父と観たことがあるような気がしていた。そして、内容に関する記憶は非常に朧気であるとも感じていた。大まかに言えば、夜の博物館で警備員が展示物が動いているのを目撃する――まるで本当に生きているかのように。そして彼らが動き回ることで生じた問題を人間が解決していく。例えばトイストーリーのような、本来は命を持たないモノに魂が在るものとして動き回るコメディ映画だ。
2時間弱の映画は飽きずに終わり、ポップコーンとコーラの空の容器を捨てて、二人は映画館を後にした。
「オマエがこの映画を観ることを思い付いたという理由は分かった」
「ああ、そうだろう。でも驚いたな。アッティラ王はカルデアにもいるんだろう? 女性……だとか?」
「カルデアにはコロンブスもいるし、アヌビスに近い霊基もいる。しかしエジプトの王が出てくるとはね。ハチドリが観たら文句が出そうだが」
「映画の王は架空の人物じゃないか。それに、彼女はニトクリス女王とは仲良くやってるんじゃないのか?」
さぁ、と言うようにテスカトリポカは両手を挙げた。彼女が今どうしているのかデイビットはよく知らないが、もっと言えば、ミクトランでもさほど話した記憶はないのでその人となりを詳しく知っているのでもない。今はカルデアで楽しくやっているようだとテスカトリポカに聞いたことがあるだけだ。
「それで。おまえは一体どういう映画が良かったんだ? これ以上に相応しい映画はないとオレは思ったが」
デイビットが首を傾げて尋ねると、テスカトリポカは眉間に皺を寄せた。
「オマエの情緒に期待したのが悪かったな」
「ロマンス映画が良かったのか? 『ローマの休日』? それともまた『タイタニック』でも?」
テスカトリポカは更に苦い顔になった。デイビットはくすりと笑う。
「そういうのは帰ったらホームシアターで観よう。ソファに座って」
「腕を組んで?」
「ああ、そういうのでいいよ」
「なるほど。そういう趣向か」
今度こそテスカトリポカは本当に機嫌を直したらしく、またいつものように、わしゃわしゃとデイビットの頭を撫ぜたのだった。
映画館での映画観賞を十分に楽しんだということで、今日の外出のメインとなる自然史博物館へと向かった。
本来のAMNHはニューヨークのセントラルパークにある。今デイビットとテスカトリポカのいる場所がハリウッドライクの場所であるとして(テスカトリポカもどこであるとは明言しない)、そことニューヨークとの距離は2500マイルほど。北米大陸を横断することになる。デイビットの故郷からもまるで遠く、凡そ歩いて向かうような距離にはないのだが――そもそもここは本当のハリウッドでなければ、向かう先のAMNHも本物ではない訳で。さっき観た映画の感想をつれつれと喋っている内に、映画でも活躍する元大統領の像が飾られている正面に到着してしまった。デイビットも、それにはもうさほど驚かなかった。継ぎ接ぎだらけのこの楽園での暮らしに、もうすっかり慣れ親しんでいるのである。
慣れていると思いつつもやはり完全には拭えぬ違和感のような心地を抱いてデイビットが正面にある像をじっと見ていると、像に興味でもあったか? とテスカトリポカは尋ねた。
「像になるというのは象徴的なことだからな。人間ならば、そう在りたいと思うものだろう」
「いや、そういう意味で見ていた訳じゃない」
「じゃあ何だ、もうじき撤去されるのを惜しんだか?」
「なくなるのか?」
「地球が元通りになった暁には、そういう予定があるらしいぞ」
そう聞いて、デイビットはますますブロンズの彫刻を注視してしまった。立派な騎馬像が撤去されると、入口が少々淋しい雰囲気になるのかも知れない。本物の像を拝む機会はないのかも知れないなと思いながら、像の横を抜ける。見ていたのは、相変わらず、急に景色が変わるのだという象徴に思えたからというだけだ。
白亜の階段を昇り、館内に入ってすぐに、教会建築のような巨大な柱が立ち並んでいる広間に着いた。その中心に、ダイナミックな二体の恐竜の骨格標本がある。これはこの博物館でも非常に有名な、映画でも復活を果たす巨大なバロサウルスと、それに対峙する格好のアロサウルスだ。
「ああ、これは迫力があるな」
「ま、確かに普通のディノスよりはデカイだろう」
「異聞帯での体験を語ると判断が難しくなる。星詠みの巫女――あの場にいたアーキタイプも汎人類史で言えばこの種だったから」
「オマエがオレを召喚する前に会ったというディノスか」
「おまえは直接会ったことはなかったか。まぁ、このサイズだったと記憶しているよ。恐らく彼女はこのように立ち上がったりしないが」
そしてこの骨格標本のように襲い掛かろうとすることもないのだが、少なくとも、生きていてデイビットは彼女と対話をしたのだから、目の前で標本を見ているのとは迫力、いや体験ごとまるで違うのだ。
デイビットは、なるほどそうか、と頷いた。迫力という面では、自分たちがほんの一年きりを過ごしたあの経験に、博物館では遠く及ばないのだ。
無論それは自分たちのいた南米の樹海、恐竜と酷似した恐竜人類の展示の範囲だけであることなので、こうして人類の歴史を辿ることは意義深いことだとデイビットは思っている。こういう機会でもなければ行くことはなかっただろう。テスカトリポカにも深く感謝していた。
広間を出てすぐに階段があったので、とりあえず最上階から観覧し下りながら回ろうと決めて、4階まで一気に上がった。最上階はホールにもあった二体――正確にはバロサウルスの傍には子がいたので三体だが、それらと同じく恐竜をメインとする古代生物の展示エリアだ。そこをぐるりと一周する。
「ティーレックス、ステゴサウルス、トリケラトプス……やはり、見覚えがあるな」
「ディノスってのはやはり汎人類史の恐竜と似たモンだな」
頷きながら、ミクトランでの出来事をデイビットは思い浮かべた。デイビットにとっては僅か1日と少ししかない長さの記憶でも、それでも、その消えない記憶は――デイビットの現在を支えるものとなっているのだろう。
異聞帯での出来事は、地球にとっては数ある迷惑な惑星への侵略行為の一つであり、大規模な破壊活動の一種でしかないだろうが、デイビットは自分がそれを最善として行動を起こしたことを後悔したことはない。そして、テスカトリポカもまた、敗北したのは非常に残念なことであるが、二人で仕掛けた戦争は良かった、楽しかった、と言っているので、少なくとも二人にとってそれらは懐かしむべき記憶である。地球にも、今は無き地球人類にも、大層迷惑なことであるだろうが。
「懐かしいが、ま、恐竜の化石の展示では、オレたちにとっちゃ見所は多くないというところだな」
「ここでそんなこと言うのはおまえくらいだと思う。ティーレックスだって、動いているのは確かによく見たが、襲われるばかりだったから、まじまじと見たことはないだろう?」
「心臓くらいしかね」
デイビットは思わず両肩を上げた。無知性となり無作為に人間を襲うディノスは大型のティーレックスに似た種が暴れていることが多かったが、単純に小型のディノニクスのような種は他のディノスや動物によって打倒されていることが多いからだろう。
デイビットはあの地域においての人類と戦ったことを思い出してため息を吐いた。
「装甲が異様に硬かったよな」
「オマエの弾丸は心臓を貫いただろうが」
「そうしないと通用しないからだ」
「ま、元々、地球の人間が戦うような相手ではないだろうからね」
「おまえ、最初はディノスと戦ってこいとかオレにけしかけたよな」
「一度きりだったろう?」
「ああ、それからは後ろに控えていろと言っていたが、ああいうのは、どういう気まぐれなんだ?」
「気まぐれではない。大体、マスターとサーヴァントというのはそもそもそういうものだろう? サーヴァントが前に出て戦い、マスターは後ろに控える。そういうものだ」
デイビットは眉間に皺を寄せた。カルデアにいたのだから、それくらいは知っているが。
デイビットはテスカトリポカと出会う最下層までの間にディノスとの戦闘行動を起こすことはなかった。必要性がなかったからだ。テスカトリポカとその忠実な配下たるイスカリやオセロトルたちは、無知性ディノスに限らずディノスを殺していたが、それはそういう必要性があのメヒコシティにはあったからである。デイビットからすれば、やけに頑丈なディノスと戦うのは労力の無駄でしかない。自分だけなら無視した方が早いからだ。
例えば何のリスクもなく、暗黒星のバックアップを召喚(というのか何と言うのか正確には分からないが)できるのであれば、そういうもので蹴散らすだろうが、アレはそういう力ではない。実際カマソッソとの戦闘では、デイビットは令呪を一画切るしかなかった。切り札である令呪は本来使いたくないと思ったが、そうせざるを得なかったのである。だからできるなら呼び出したくはない。体力的にも、心理面からしても。そもそもデイビットは別にアレに好感がないのだ。必要以上に忌避してもいないが。自分で倒せるなら自分で倒す。それだけでは困難な場合――それこそサーヴァント戦だとか――に仕方なく使っているだけだ。
「まぁオレは気まぐれというか、性質の変わる神ではあるがね。アレはそういうことじゃない。オレは戦える戦士が好きでね」
「よく知ってる」
テスカトリポカはニッと唇の端を上げた。
「つまり、だ。マスターであるオマエがディノス相手に戦えるかどうか直接見ておきたかったのさ。胆力があることは分かっていたが、だからってそれだけでひ弱でも困ると思ってね」
「もし見込み違いだったら?」
「オマエがその場で死んでいただけだ」
今は恋人でもあるという相手にあっさりとテスカトリポカは言ってのけた。そういう生死観だということをデイビットは理解しているので構わないにしても。
「お眼鏡に叶って良かったよ」
「ああ、想像以上だったな。魔術師であれば、ある程度はやれるだろうと思ったが、まさか撃ち抜けるとはね」
テスカトリポカはにやにやと笑って続けた。
「ソイツが確認できれば、後はマスターとサーヴァントらしくというよりは、最適なリソース配分の問題さ。オレたちは戦争をしていた。無駄な血を流すだけだとディノスどもが思っていたにしても、それは必要なことだった。だがオマエは違う。オレにとってオマエは血を流すべきではなかった。万全であるべきだった。オマエの魔力でオレが維持されているのだから当然のことだ。だからオレが前に出た。何ら不合理なことはないだろう? 元よりマスターとサーヴァントというのは、その為の関係性で、その為にオマエはオレを喚んだのだからな。違うか、デイビット?」
テスカトリポカが依代の身体であっても、人間とは違う。傷を負っても致命傷でなければ修復が出来る。人間の回復力を使うよりもそれは遙かに効率的なことだ。そして戦争には資源管理が必要である。だから、効率という観点から敵と戦うべきはテスカトリポカの方だ。デイビットもそれらを理解している。
が、最初の頃自分でやれと言われたのに、とどうしても思ってしまうのである。断片的な記憶ではあるが。
「ま、そういう尤もらしい理由なら幾らでも上げられるが」
「尤もらしい?」
テスカトリポカは瞳の色を変えるように微笑んだ。
「戦争を上手くやってやろうということと同じくらいに、あの破壊の先にある再生を見たかったのさ、オマエとね。その為には死なれちゃ困る。人間はサーヴァントではないからな。どうしたら死なないのか分からん。下がらせるのは手っ取り早い。少なくともオレの目が届くくらいでは、そうしてやってもいいんじゃないかと――」
テスカトリポカはするりとデイビットの右手を取って、その甲に口付けた。その動作は、恭しく、とは言わないが、それこそ何だか『尤もらしい』感じに映る。デイビットは一瞬反応に詰まった。
「それは、」
「オマエが願ったのも似たようなことだっただろう、デイビット。別段それは、最終目標を変えるようなことじゃあなかった。もっと些細な、そうあれたらいいだろうと精々頭の片隅で考え、神に祈ってみるくらいのことだ。オレたちはオレたちの戦争の為に死んだ。ORTを起動させる為に死んだ。だが、それで問題はなかった。オレも、オマエもな」
テスカトリポカはするりと手を離した。
「そういうことを言って欲しかったワケじゃないって?」
「……いや」
さっきは恋人に向かっても平然と言う男だなと考えたが、今度は恋人だから言ったのだろうか、と思う。
デイビットは己のサーヴァントが消滅すればその先が困難になるとまでは思っていなかったが、折角喚んだサーヴァントを喪うのは惜しいことだと考えていた。そうだろうとは思う。運良く召喚できただけなので、無駄とまではならないのだろうが、やってきたことが無意味化する可能性は高いと思った。だから喪いたくなかった。
そういう尤もらしい言い訳を、自分もあの頃にはしていたんじゃないだろうか。
お互い、守ってやるべき相手ではない。けれど、死なないで欲しいと思ったから。だからだとテスカトリポカは言うのだ。デイビットが願ったのと同じように。
二人で自分たちの戦争を勝ち抜いて、その先にあるものを共に見たかった。『死なないで神様』と、或いは『死ぬなよマスター』と、心のどこかで祈っていた。新しい太陽を二人で見たかった。
「難しい顔をすることじゃないだろう。口説いているだけだ、こういうのは。ずっと、オマエが大切だってな」
「口説くって……今更……」
「そうだな、オマエはもう神様に夢中だったな」
「否定はしないよ」
テスカトリポカは上機嫌に笑って、デイビットの額にキスした。何でそんなあちらこちらに、とデイビットは多分また難しそうな表情を浮かべていたのだろう、テスカトリポカは、キスするなら唇が良かったか、とかいう感じのことを言って唇を重ね合わせた。彼といると目まぐるしくいろんな感情を体験させられるので、デイビットは少しクラリとした。
ねっとりと舌の感触を味わわされるキスをされて、デイビットは、こんな公共の場で――と、思った。誰もいない場所で公共も何もないのだけれど、実感を伴うような人の気配というものがここにはあるのだ。
デイビットが軽く胸を押して唇を少し離れさせて、こういう場所でするのはどうなんだ、と言うと、こういうのが刺激になるタイプなのか、とテスカトリポカは問うた。
「オマエは周囲の目なんざ気にしない方だと思ったが」
「時と場合によるだろう。衆目を一々気にしたことは確かにないが……」
「こういう場所は興奮する?」
「テスカ」
むしろテスカトリポカはやる気を増したように、ますます深い口付けをするので、余計なことを言っただけだとデイビットは後悔した。やはり公共の場だと思うと何だか変な羞恥心があるし、そういうことに興奮を覚えるタチだなどとは己を考えたこともないが――。
見られては困る、とか、そういうことはやはり人間の感覚を妙に鋭敏にさせるものなのだろうと思う。鼓膜に響く水音、息遣い、そういうものに背がぞくぞくと震えた。いけないことだと思う。そういう背徳的な感情が人の心理にはどういう影響を及ぼし、そして肉体にも作用するのだろうかと思った。考えながら、デイビットも口付けにのめり込んでいった。
濃密なコミュニケーションを終えて二人は再び観覧へと戻り、デイビットはかつて自分たちがいた、築いた場所のことを思い出した。ここにあるものはどこか懐かしくも感じるが、デイビットはディノスとも、人間と同じく必要最低限のコミュニケーションを取った程度で、姿をまじと見るような機会もないし、その必要性もなかったので、新鮮でもあるのだろう。
「確かに見覚えもあるけど、恐竜だけでなく、ここにはシーラカンスだってあるし、マストドンや、マンモスはどうだ?」
「マンモスか。ありゃあデカかったな。まるでイヴァン雷帝だ」
テスカトリポカはえらく簡潔にそう言ったので、デイビットは肩を上げた。カドックの担当していた異聞帯の王、そしてカルデアのサーヴァントとしての雷帝は、マンモスの姿をしているのは確かなことである。
AMNHは非常に広い建物だ。デイビットは知識としてそういう博物館があるということを知っていただけなので、その規模についてまでは詳しくない。即ち映画観賞の後に行くのでは、観覧する時間がまるで足りていないという問題点が事前に分からなかったのである。とは言え、小規模な博物館であると考えていた訳ではないので、見込みが甘かったとも言えるだろう。
テスカトリポカが恐竜の化石のエリアはさほど足を止めず進んでいくのにもそういう理由があるのかも知れない。さっきはちょっと、いや結構、足を止めてしまったが。ともあれ、少なくとも、珍しい展示を優先して観るようにと考えてくれているのだろう。それとも神から視れば、生物の暮らしなど皆同じようなものなのだろうか。
そういったことを考えたが、やはりテスカトリポカは俗っぽいので、降りる前に寄り道をして、ディノストアで売っているお土産を覗いていこうと言ったのだった。単に恐竜に興味がなかっただけかも知れない。この戦好きの神様は、きっと人間の方が好きなのだ。
「デイビット、恐竜柄のティーシャツなんてのが、必要なのか?」
「ティーシャツは何枚あっても困らないだろう」
「いつ着るんだ? そんなものより、コイツはどうだ?」
テスカトリポカはステゴサウルスのぬいぐるみを掴んで、デイビットの頭にぽすんと顔をぶつけた。
「これを?」
「例えばオマエが一人で淋しい時に」
「そういう時はない」
いつだって傍にテスカトリポカがいるというのに、淋しいと感じる瞬間がどこにあるだろうか。
「ま、ソイツはともかく。いいな、コイツは。よし、恐竜王に買っていってやろう」
恐竜王こと青い方のテスカトリポカの少年のような顔をデイビットは思い出す。彼はどういう反応をするのだろうか。嘲弄だろうか?
テスカトリポカは喜ぶとは正直なところ思えないようなぬいぐるみの土産を青のテスカトリポカに買っていき、デイビットはグリーンの同じティーシャツを二枚買っておいた。
「二枚も買ってどうするんだ? 洗濯用か?」
「おまえも着るだろう?」
そう言うとテスカトリポカは目を丸くして、それから口角を上げた。
「なるほど、お揃いというヤツか。ジャパニーズが好きな、恋人が同じ服を着るという」
「ジャパニーズが? そうなのか。柄を選ぶほどでもないから同じにしたんだが」
何にしてもテスカトリポカがそれを気に入ってくれたのなら良かったとデイビットは思う。
「が、ダサいティーシャツを揃いで着てもベッドで萎えるかも知れないな」
「じゃあ、ヤりたくない時に着るよ」
「そんな時があるのか?」
「なくもないだろ」
拒否したこともないのでテスカトリポカの言い分もデイビットには分からないではないが、この先そういうことがないとは言い切れないと思うのである。
「今はそうじゃないって?」
「……テスカ」
相変わらず、人の気配のようなものだけがある。さっきも、今も。しかし本当には無人の建物は物静かだ。カツカツと自分たちの靴音だけが響いている。
3階からは地球上の様々な生命の剥製、模型の展示が主となっているようであった。2階と3階をぶち抜いているアフリカの哺乳類のホールは3階からは見下ろすだけだが、目玉となるアフリカゾウの模型が大きく飾られていた。他にも模型が飾られているらしいが、階下にあるので判然とはしない。ライオンやキリンがあるようである。
「このホールにアフリカの哺乳類という限定があるということは、だ。南米のエリアというのもあるということだな」
「南米の哺乳類はないみたいだが、もっとおまえにも近い展示が――というか、ここはおまえが作った場所だろう?」
「展示物の内容まで事細かに全部覚えちゃいない」
そんな適当なことがあるのかとデイビットは考えたが、割とそういうきらいがある男だったな、とすぐに思い直す。
雑談を続けながらホールを抜けて奥を目指すと、イースター島のモアイのある太平洋の民族エリアに辿り着き、それをぐるりと見てから、鳥や猿を見つつ階段へと戻る。霊長類のホールにあった類人猿の骨格に、さり気なくオセロトルたちを思い出しながら、広間のあった2階に再び降りた。
降りてすぐにあるホールには、先ほど見たアフリカゾウのジオラマが、そしてアフリカの生物が幾つかに分けて飾られているが、足早に通り過ぎてしまった。2階の奥にある南米の民族の展示の方がデイビットの興味を引いたのだ。
「ここには太陽の石のレプリカがあるらしいんだ」
「レプリカ?」
「ああ。本物はメキシコにあると」
「デイビット、わざわざオレがレプリカを用意する筈がないだろうが。ここにあるモノは本物だ」
デイビットはそれを聞いて押し黙ってしまった。それは、そもそも楽園にあるAMNHが本物ではないのではないかということや、そもそも今地球は白紙だから本物もまたどこにも存在しないのではないか、そして楽園とは地球上のどこかにある場所でないのではないか、ということなどについて、遠く考えを及ばせたからである。ではその真実性と実在性とはそもそもどこにあるのであろうか。その答えはデイビットの中にもない。
そもそも南米の民族についての展示をテスカトリポカ神が見る、などということは、釈迦に説法と言えるだろう。それでもテスカトリポカは、どちらかと言えば楽しそうにホールへと足を踏み入れて、民族のジオラマを眺めている。
「オレの独断で直したりもしているが、まぁ、概ね元のとおりさ」
「本物の?」
「そうさ。AMNHのとおりだ」
中南米にあった文明、オルメカ、サポテカ、マヤそしてアステカに関連するアイテムや工芸品などがジオラマの他に展示されている。モンテアルバン遺跡など有名な遺跡のレプリカもあるが、目を引くのはやはり巨大な太陽の石だった。これもまた、異聞帯にあったものをデイビットには想起させる。
テスカトリポカは太陽の石をレプリカではなく本物であると言った。それらの明確な違いは人間には分からない。そして、あの異聞帯にあったものが、本当にそうであったのかということも――。
本来の地球のそれと酷似した部分を抱えただけの消え去ったひとつの世界にあって、今はもう存在しないあの太陽石は、果たして、本物だったのだろうか。
「何だ、さほど置いていないな。鷲の戦士の像のひとつでもあれば良かったんだが、あれはテンプロマヨールの方か? あっちの方の博物館?」
「そうだったはずだ。そういやジャガーの戦士のことは聞いたが、鷲の戦士の話はあまり聞いたことがないような気がする」
「ジャガーの戦士よりひよっこのヤツらをそう言っていたな。所謂新兵上がりのようなまだ経験の浅い部隊さ。根性がなきゃ上には昇れん」
「なるほど」
テンプロマヨールの模型もあった。あんなにも巨大だった二柱の神殿が、ガラスケースの向こうに小さく収まっている。先ほどと同じようだとデイビットは思った。
(あの経験は――)
他の誰にも得られるものではないだろう。カルデアのマスターでも、あの場所ではデイビットほどの濃密な経験は得られていない。神殿の上に降り立ち眺めたあの景色を、色を、僅かな瞬間でも自分は目に焼き付けて忘れることはないのだ。
全てが消えても。
消したのはカルデアであり自分たちの手でもある。計画上メヒコシティもあのテンプロマヨールに酷似した神殿も、全ては無に帰すことが決まっていた。最初からそうだった。テスカトリポカは壊す為に街を作った。神のように、それらしく。
仮令無くなり滅びゆくとしても、それに意味があると見出したのだ。全ての滅び消えた国や都市と同じように。
「何だ、気に入っていたのか、食い入るように見て。オマエは神殿にも殆ど来なかっただろうが」
「必要がなかったからな。オレが行って歓迎されることもないだろうし」
「拗ねてたのか?」
デイビットは、また肩を上げた。
「ハチドリにもイスカリにもオマエに近づくな、とは警告したが、邪険にしろとは言っていない。一応オレの神官で通していたしな」
神官とか何とかそう言えば呼ばれていたような気はするが、まるで馴染みがない。それに全体そういう話もしていないのだが、たまには懐かしい話をするのも悪くはないのかも知れないとデイビットは思った。
「少なくとも、太陽の石よりも懐かしいなと思っただけだ」
「ああ、そうだ。楽しい楽しいオレたちの戦争の記憶だからな」
デイビットにとっては一日程度に過ぎない一年間の記憶。もう消えてしまった空想の国。他の異聞帯も全て消えた。残るものは何もない。記憶にさえも。ほんの僅かな人だけが識っている。
――もう知られることのない知識は無意味か?
――否。
――もう使われることのない技術は無意味か?
――否。
――もう伝わることのない記録は無意味か?
――否。
そうではない。そうではないのだ。神が語るように。消えたものは無意味ではない。彼も父も、存在がなくなっても。
「うん、そうだな」
語られなくともそこに在ることに意味があるのなら、勝てなかった戦いであっても無意味ではなかったのだろう。今のデイビットに大きな落胆がないにしても、藤丸に敗北したあの瞬間に溢れた苦い感情を忘れることはない。
そこにも長居することなく、二人は展示室を後にした。その先にはペンギンなどの鳥類の模型が飾られている。先にはアジア民族の展示があったので、ジャパニーズであるカルデアのマスターのことを思い出しながら通り過ぎていく。
「ジャガーはいないのか?」
と、アジアの哺乳類のホールでヒョウを見かけたテスカトリポカが思わず口に出したので、デイビットは笑った。
「多分北米の方の展示にいる」
「ジャガーは主には南米をテリトリーにしているとオレは思っていたがね」
テスカトリポカがそうぼやくのも無理はないが、哺乳類の展示では南米を一区域として扱っていないので致し方ないことだ。
最初に入ったアロサウルスたちのいるホールをちらりと見て、二人はついに1階へと下った。ここではやはり、何はなくともテスカトリポカが気にしていたジャガーだ。
「ソノラの方のジャガー、か。迫力があっていいが」
ジロジロとテスカトリポカは飾られたジャガーを見ている。
神話のテスカトリポカはジャガーに変化することができると伝わっているのだが、そもそも神話に伝わることがどれだけ今のテスカトリポカに当てはまるのかはデイビットにも分からない。ケツァル・コアトルだって本来女神として語られてはいない筈だ。
神霊のみならずサーヴァントを見ていると『そのように語られているが』という注釈が付くことが殊の外多いようなのである。テスカトリポカも同じだ。だが少なくともミクトランパにいるテスカトリポカは、ここでは全能神なので、ジャガーに化身することも容易いだろう。その姿がジャガーの神と言うべきであるかどうかは、あまりする必要のない問答であるのかも知れない。
北米の大きな動物だけではなく小型のアルマジロをも見て、二人は奥へと進む。左側には名物の一つとされるシロナガスクジラの巨大な模型が展示されたオーシャンライフホールがあるのをデイビットも知っているが、生物の大きさや迫力はさほど神の心を惹くという訳ではないようなので、そちらに急いで向かう必要もないだろうと考えた。むしろ奥にある鉱石の方が関心が高いかも知れない――ビジネス的な意味で。
テスカトリポカが武器商人、死の商人を名乗ったのは、サングラスを掛けた切れ長の瞳の風貌が所謂マフィア的に見えるから、或いは人類に死を振り撒くようなデイビットの在り方に合わせて自分も死を撒くと名乗っていただけだ。
と、デイビットも考えていたのだが、どうも本気で商人の真似事なんかをしたいと思っているらしい。あの異聞帯を飛び回っていたコヤンスカヤのように。
神が? どうして? とデイビットにも彼が商売をしたがる理由がよく分からないのだが、ミクトランパには何でもあるし何でも手に入るけれどもそれを現実に持ちだすには一定の制約があり、またサーヴァントである身分では外での権能も無制限には使えない――例えば令呪のバックアップがなければ不可能になる場合が多い――から、であるらしい。
要約すると「好き勝手したいから好き勝手するリソースを得る為の金は幾らでもあった方が良いから稼ぎを探している」ということで、ついでに戦争の種を蒔く死の商人という身分が気に入っているからでもあるようだ。
なおこれらは本人がつぶさにそう語った訳ではなく、デイビットの所感である。
「ガーデンオブグリーンか」
「企画展だな。ハイジュエリーメゾンの中で特に緑色の宝石のみが展示されているらしい」
「ほーう。コイツは中々だ。エメラルドか」
テスカトリポカは無思慮にネックレスを持ち上げるのでデイビットはギョッとした。
「触るなよ。壊れたらどうするつもりだ」
「何、案ずるな。コイツは本物じゃない」
全く自分が何だかもよく分からなくなりそうだとデイビットは思った。本物ではないと言ったものの、テスカトリポカはそれを放り投げるようなことをする訳でもなく丁寧に戻したのでデイビットもホッとした。
他にペリドットやマラカイトのジュエリーもあるが、やはりエメラルドが一番目を惹く。そして、その緑色の宝石の周囲に散りばめられたダイヤモンドが一番輝いているようにデイビットにも見えた。
「翡翠もある」
「ま、希少な宝石だからな」
デイビットは自分が身に付けている指輪のことを不意に考えた。翡翠と聞いてミクトランのアクセサリー屋のことを思い出したのだ。
テスカトリポカがあの時買ってくれたモノ。そしてここで再構築されたモノ。
それらは全く同じモノではないが、デイビットはこれを気に入っている。買ってくれた時のことも憶えていた。あの時はテスカトリポカがデイビットの薬指に躊躇なく嵌めたのを見て驚いた――。
『ああ勿論永遠にオレのモノにしたいと思ってソコに嵌めたに決まっているだろうが。人間の様式でね』
後に彼から聞いたその深意を思うと、神様にしては、結構キザだったような気がする。テスカトリポカは割と気取った言い回しが好きなようで、そしてデイビットは、そういうのもそんなに悪くはないなと思っていた。
ガーデンオブグリーンは宝石や鉱物のホールの一角にあった。広いホールにはガーデンのジュエリーの他にも様々な石が並んでいる。
目を見張るようなアメジスト、アズライト……宝石として特に貴重なのはやはりスターオブインディア。空の色のような美しい青色にくっきりと白い星が浮かぶサファイアだろう。他にパトリシアエメラルド、デロングスタールビーなどもあるが、ルビーとサファイアは一度盗まれたことがあるというのだから驚きだ。まるで映画のような話だが、今飾られている二つと共に博物館にあったイーグルダイヤモンドは所在不明のままというのだから、尚のこと驚きである。
隕石も飾られており、デイビットは、遠い暗黒星のことを思い出した。ここにいれば、テスカトリポカが全てを遮断してくれるので忘れていられる。時間の制約も干渉も何もなく穏やかに過ごせるのだ。やはり感謝してもしきれないだろう。
石のゾーンを抜けて、気付けば滞在して随分と時間が経っているとデイビットは思った。ここが閉館することもないだろうが、出来れば今日の内に家には帰りたいと思う。ケーキも冷蔵庫で待っている筈だ。
「ま、上から下まで随分と見て回ったからな。他に見たいところでもなければ切り上げて帰るが」
「そうだな、シロナガスクジラくらいは見て帰れば――そうだ、ここにはプラネタリウムがあるんだ。有名なヘイデンプラネタリウムというのがあって」
「……プラネタリウム?」
テスカトリポカは眉間に皺を寄せた。
「ああ、ビッグバンシアターもあるし。そっちに寄ってから……」
しかし、テスカトリポカの表情が険しいままなので、デイビットは首を傾げた。
「嫌いだったか? おまえは――」
「またオマエの友人の話か?」
デイビットはキョトンとした。
「前に言っただろう、星が好きな男がいたと」
「うん? ああ、ヴォーダイムか? 確かにヤツは天体科で、星を観るのは好きだと言っていたな。おまえに話したのは憶えていないが」
テスカトリポカは腕を組んだまま顔色を変えないでいる。
「ヴォーダイムのことで何を話したのか生憎オレは憶えていないが、おまえと星を見たことは憶えているから。ああ、アレは星じゃなく燐光だったな」
「憶えているのか? あの時は確か、オマエはもうその日の容量がないと言っていたと思うが」
「一瞬だけだ。ほんの、数秒くらい。顔を上げておまえと見た星を憶えている。嘘みたいに綺麗な夜空だったんだ。地上ではもう、あんなにきれいなものは見られないだろうと思って……。それにおまえは――夜空の神でもあるだろう? いつもの星空もいいけど、今日みたいな日には、いつもとは違うこういう場所で夜空を観るのも悪くはないんじゃないかと思ったんだ」
思い出してみると、それは、友にも見せてやりたいうつくしい星空であったかも知れない。自分が彼についてどういうことをテスカトリポカに語ったのかは、デイビットはまるで憶えていないが。
テスカトリポカはデイビットの手を握って、その甲に唇を寄せた。デイビットがまたキョトンとすると、悪かった、とテスカトリポカは言った。
「何が?」
「オマエの話すことはオトモダチのことくらいだったからな」
「そうか? オレは他のことをあまり憶えていないから、それくらいしか話題がなかっただけだろ。ヴォーダイムのことなんて語るようなことも殆どないだろうが……」
デイビットは、カドック、オフェリア、芥ヒナコ、ペペロンチーノ、キリシュタリア、ベリルのことを順に思い浮かべた。語るべきことは少ないし思い出も殆どないけれど、懐かしい想いだけはある。
それで? とデイビットはまた首を傾げた。
「妬いただけだ」
「何に? 誰に?」
「強いて言うならオマエの仲間というのの全体にだな」
「……神様が?」
「嫉妬深い神というモノは多い。いや、大体はそういうものだ。神というのは、唯一性や絶対性を重視する存在だからな。分かるだろう?」
デイビットは自分の知る神話の神を思い出そうとしたが、どれも、目の前のテスカトリポカとはさほど結び付かなかった。彼が神らしくないからなどという不敬な理由では決してないのだが、全能神という存在を、人間のように血が通ったモノであるように感じる方が敬虔さを欠くと言うのではないだろうか、とも思う。
「オマエも反応が薄いな」
「そうか? いや、特に言いたいことはない。誤解が解けて、機嫌が直ったようなら良かったよ、テスカ。それで、プラネタリウムに行くということでいいのか?」
テスカトリポカはデイビットの頭をわしゃわしゃと撫でた。
「オマエには特別な景色を見せてやろう。神らしくな」
「プラネタリウムで?」
よく分からないまま、二人は博物館の北の方へと向かっていく。プラネタリウムがあるのは、博物館の施設の一部となるローズ地球宇宙センターだ。ガラス張りで、中に球体が浮いているようにも見える変わった建物で、そのヘイデン球体の傍には惑星の球体を配置することで宇宙のスケールが感じられるようになっている。非常に印象的な建物だ。
球体は上下のシアターに分かれていて、下がビッグバンシアター、上が天体ショーを見られるフルドームのシアターとなっている。だが、マップを見るとビッグバンシアターは2階、ドームシアターが1階という配置になっている。つまり1階から見上げ、2階からは見下ろす構造だ。
デイビットたちが向かったのはドーム型のシアターの方だ。ここでは映画館のようにずらりと並ぶ席のいずれかに座り、そこから空を見上げるのだが。
「……椅子がない」
「邪魔だろうが。寝転んで観られるようにしてやったんだよ」
「寝転ぶって、床に?」
「案ずるな、ここに……」
ドームの中心に白い雲のようなソファが置かれている。家のベッドほどではないが、広さは二人で寝転んでも十分だろう。
「ベッドじゃ、ないんだよな」
「ベッドに寝転ぶと集中して観られんだろう」
ん? とデイビットの腰を抱きながらテスカトリポカはソファへといざなう。シートはふかふかとしていた。真っ白で柔らかくて、まるで本当に雲の上にいるような雰囲気だ。テスカトリポカに曰く、こういう観賞用のシートがあると聞いて、その真似をしたということらしい。寝転ぶと、やはり柔らかくて気持ちがいい。
「寝ちゃいそうだな」
「眠いのか?」
「ああ、そうかも知れない。昨日は遅かったし……」
ソファに座っているテスカトリポカはデイビットの顔を覗き込んで、頬に指で触れた。そのまま近付いてきた顔に唇が塞がれて、デイビットは軽く目を閉じた。瞼の裏に輝く燐光を見た気がして、ゆっくりと目を開く。次に見えたのは一面に星の輝く空だった。まるで、ミクトランで見たあの星空のような。
テスカトリポカは夜空の神でもあるが、現代で星座に喩えられるのは基本的にはギリシャ神話の神だ。だから星々を観ることと、テスカトリポカとは、あまり直接的には繋がらないように思う。彼は、もっと真っ暗な、漆黒の闇夜の方が似合うだろう。だからこの投影されただけの本物ではない星空にデイビットが価値を感じるのは、やはり、あの日見た数十秒程度の空を思い出すからなのだろうと思う。そういう思い出が付加価値だ。
普段からそういうことをする方でもないのに、隣に寝転んだテスカトリポカは、ぎゅっとデイビットの手を握った。デイビットは少し横を見て、いつもと変わらない横顔だと思いながら、ドームの空を見た。
昔、星空を二人で見た五分の記憶がある。長い金色の髪、青い瞳。それを言ったら、テスカトリポカはまた嫉妬するのだろうか?
デイビットには、恋愛感情や人の感情というものが、まだ完全には分からないような気がするのだ。あの頃ペペロンチーノが抱えていたものは本当は何だったのか、キリシュタリアの希いとは何だったのか、或いはベリルの愛とは何であるのか。だから嫉妬という感情にも辿り着かない。いや、神様に向かって嫉妬などできるものだろうか。分からないけれど、テスカトリポカがそう言ってくれたことは、多分、いいな、と思うのだ。
アナウンスも何もなくただ無音の空が広がっている。本来なら何か説明やナレーションがある筈だが……。
するりと意識がほどけて落ちていく。
繋いでいるこの手の温かさ。それをデイビットは知っている。きっと、誰よりも。
もしもそうではないと言われたら、その時には自分も嫉妬するのかも知れない、と思った。この手だけはあの日彼が握ってくれたものだから。それはきっと誰かに渡したくはない筈のものだ――。
デイビットのドームでの観賞体験の記憶は五分だけだった。デイビットはぱちりと目を覚まして、じっと自分を見ている視線に、気恥ずかしさを覚える。寝顔を見られることくらい、珍しいことでも何でもないのに――けれどデート中に眠りこけてしまうとはデイビットも思わなかったのだ。眠いとは確かに言ったけれど。
「綺麗な夜空だったよ」
デイビットがそう言ったのは本心なのだが、誤魔化すように聞こえたのではないかと、そろりとテスカトリポカの方を見る。テスカトリポカはぽすぽすと頭を軽く撫でるだけで、別段、怒ったりも笑ったりもしなかった。何だか物凄く優しい恋人のようだ、とデイビットは思う。いや、普段の彼がそうではないという意味ではないのだが、流石に、そこまで甘くはないと思う。いや、そうでもないような。テスカトリポカは、実際のところ恋人にかなり甘いのではないか?
立ち上がり手を差し伸べてくれたのを見て、やっぱり同じようだなと思って、デイビットは微笑んだ。
「そろそろ帰ろう。もう外も暗いだろう? ディナーはまた今度でいいから」
「そうだな。帰って、ケーキを食べて」
「うん。ロマンス映画もまだ観てない。どれにする? オレはまた『タイタニック』でもいいし、そうだ、『マディソン郡の橋』はどうだ? 多分ロマンティックだと思うよ」
「オマエの情緒に任せるさ」
外に出ると、空はやはり暗かった。星空はまばゆく輝いている。どちらともなくまた手を繋いで、二人は家路を歩いていった。
いつもの癖でまたくっついてない話にしよっかな♪と思ったのを普通にやめて正当な続きになりました。付き合った後って書くことなくない!? と思って朝から晩までを想定したり(書き終えてないが)、ミクトランの話を思い出したり、後はバレンタインらしくできるだけ甘めに……まったりほのぼのいちゃいちゃらぶらぶ……いいバレンタインデーですねって感じですね。いいことです。
博物館書くのに、すごい時間食った。